富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神のなされることは皆その時にかなって美しい」コヘレトの言葉(伝道の書)3章1-15節

2023-03-05 15:35:51 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報   

受難節第2主日  2023年3月5日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 齋藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 462(はてしも知れぬ)

交読詩編    139(主よ、あなたはわたしを究め)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) コヘレトの言葉(伝道の書)3章1-15節(旧p.1036)

説  教 「神のなされることは皆その時にかなって美しい」辺見宗邦牧師

祈 祷               

讃美歌(21) 194(神さまはそのひとり子を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。090-3365-3019(辺見牧師)に、申し込み下さい。

                                   次週礼拝 3月12日(日)  午後5時~5時50分

                                   聖 書 詩編37篇1~6節

                                  説教題 「あなたの道を主にゆだねよ」  

                                  讃美歌(21) 214 528 27 交読詩編 107:1-16

本日の聖書 コへレトの言葉3章1~15節

3:1何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
2生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時。
3殺す時、癒す時、4破壊する時、建てる時。
4泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時。
5石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時。
6求める時、失う時、保つ時、放つ時。
7裂く時、縫う時、黙する時、語る時。
8愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。

9人が労苦してみたところで何になろう。
10わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
11神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

12わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。

13人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。

14わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。

15今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。

16太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。

17わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。

本日の説教

  ヘブライ語原典では書名は「コへレト」です。書き始めの言葉は、「コヘレトの言葉(デイブレ コヘレト)です。新共同訳聖書の書名は、この書き始めの言葉によります。「コへレト」は、著者の名前として1:1の他にも何度か用いられています。「コヘレト」の意味は「集会を司る者」です。ギリシア語訳では「集会で語る者」を意味するので、「伝道者」という解釈が生じ、そこから、日本聖書協会の「伝道の書」、「伝道者の書」、新改訳の「伝道者の書」という書名がつけられました。「コヘレト」は、固有名詞ではなく、ペンネームと思われています。

 1:1の「エルサレムの王、ダビデの子」や、1:12の「イスラエルの王」から、コへレトは知恵者であって栄華をきわめたソロモン王を思わせますが、これは「文学的な手法」であり、著者はエルサレムの富裕な階層に属する知恵者のユダヤ人教師と考えられます。成立年代は、旧約のもっとも遅い年代の作品で、紀元前3世紀の後半と推定されています。

   1章2節の「コヘレトは言う。なんというむなしさ、なんというむなしさ、すべては空しい」という書き始めのように、虚無的、悲観的な思想が全体を貫いて流れています。「空しい(へベル)」という語が原典では33回(新共同訳では30回)も繰り返して用いられています。原典の方が3回多いのは、「何と空しいことか」が、「空しさの空しさ(ハベ-ル・ハバ-リ-ム[複数形])」と二回繰り替えされており、それが1:2に2回、12:8に1回と計3回あるからです。

 コヘレトは人生の意味を知るために、いろいろな事を試みました。まず第一に「天の下におけるすべてを知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた」(1:13)が、しかし知恵は悩みを増すだけであり、結果は空しかった、とあります。

 次に彼は快楽を追及しました(2:1)。飲み食いに代表される物質的な肉欲的な快楽であり、人生の楽しみを追い求めてみて、彼の到達したものは人生の空しさでした。

 事業を起こし(2:4)、巨大な富を得たが、それも空しかった。まあ女性の快楽を求めてみたが、これも空しかった。さまざまなことを試み、この世的には成功をおさめながら、彼の見出した真理は、人生のわざはすべて空しく、人生は労苦にみちているということでした。

 しかもコへレトはこの世のものが一時的であり、一時的な満足しか与えないとしても、それを神の賜物として受け取り、人はこの世に生きている限り、この世を楽しむ以外にないと述べています。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること」(2:24)と言っています。コへレトは人間の無力を強調することによって、間接的に、神中心的信仰という方向に心を向ける準備をしています。

 イエス様は「愚かな金持のたとえ」で、金持ちが「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と独り言を言った金持に、「今夜、お前の命は取り上げられる。・・・神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12:19-21)と教えています。イエス様の救いにあずかるときに真の魂の満足が与えられ、安心して飲み食いし、楽しむことができるのです。

  コヘレトは、ヨブ記の著者と同じく伝統的な知恵の立場に挑戦しています。この二人の思想家は敬虔と知恵によって人間が神を発見できると考えた賢者たちの誤りを正すことが目的でした。コへレトは万物の創造者としての神は信じるが、神は不可解であり続けます。神は隠されたままであり、人は神に至る橋を架けることが出来ません。人生の意味への深い懐疑は、コへレトのような理性の立場からは答えられないのです。しかし、このような「自然的人間」の絶望は、福音の光に照らされる時、克服されることが可能となります。「コヘレトの言葉」は、キリストへの道を備える書なのです。

 1~2章では、太陽のもとで人は労苦しても空しいことを経験します。

    3章では人間生活の諸相は、神の定めの中にあることを明確にします。

  「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(3:1)

  「天の下」とは目に見えない神の支配を表します。「定められた時がある」のは、時を定める方がいるからです。神は時を支配する方として登場します。
 「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時。」(3:2)

 「生まれる時、死ぬ時」と、人生の最重要事である生と死が取り上げられ、それは人間の意志や力を越えた事柄であることを明らかにします。自分の誕生や誕生日を自分で決めることはできません。また、いつまで生きられるのかも、分かりません。しかし、自分の生と死に神がかかわっておられるのです。そして「植える時、植えたものを抜く時」と農業の営みを取り上げます。農業の作業にも神がかかわっておられます。

   「殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時。泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時。石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時。」(3:3-5)

   「殺す時」は人間が互いに殺し合う時であり、「癒す時」は全く反対に病人の回復に力を入れる時です。「破壊する時」と「建てる時」は建築に関係しています。「泣く時」、「嘆く時」は近親者の葬儀の時です。喜ばしい結婚式の「笑う時」、「躍る時」。「石を放つ時」、「石を集める時」は羊飼いが丸い小石を用意し、石投げ紐を使って羊を襲う野獣に放つのです。「抱擁の時」、「抱擁を遠ざかる時」は、赤ちゃんを抱く時や離れる時であり、家族や友人との出会いや別れの時の抱擁です。これらすべての時が神の御支配の中にあるというのです。

 「求める時、失う時、保つ時、放つ時。裂く時、縫う時、黙する時、語る時。愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。」(3:6-8)

 「求める」は、探すの意味です。「失う」は物を失くすことです。「保つ」は保持するの意味です。「放つ」は不用になったものを投げ捨てることです。いずれも日常の生活での出来事です。「裂く時」は悲しむ時であり、「沈黙する時」です。「縫う時」、「語る時」は、悲しみの時が過ぎ、衣を修理し、日常の会話に戻る時です。「愛する時」が和睦する「平和の時」であり、「憎む時」が戦争と関係する「戦いの時」です。個々人の生活や態度ではなく、国や社会全体が直面する時です。個人にせよ、集団にせよ、コヘㇾトはあらゆることに神の定めの時があるとを告げます。

「人が労苦してみたところで何になろう。」(3:9)

   庶民の日常生活から、「時」が28回繰り返されて語られています。あらゆる事柄が神の予定のうちにあるのだから、人の努力はまったく無意味であるのに、人は苦労しなければならないようにつくられている。労苦する人間は自分の労苦の益を受けていない。自分に好ましい時が来るのか、好ましくない時が来るのか、それは運命にかかっているので、自分自身の知恵にはよらない。賢い選択などない。コへレトによれば人生を制御しようとする努力は絶望的なのです。

   「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。」(3:10)

   しかしコへレトの言葉のこれらの主張が単なる運命論者や宿命論者と異なるのは、これら一切の背後に神のわざを見ていることです。永遠の神が空しいと思える営みの背後におられるとするならば、もはや現実のむなしさを嘆く必要はないのです。

   「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(3:11)

    神はすべてを「時宜にかなうように」、その時に適うように造られている、という信仰告白がなされます。この神の創造に関する表現の背後には、創世記1:1以下の天地創造の物語があります。コへレトは人間の一生におけるもろもろの瞬間が神から来ることを認め、神に信頼するのです。

    また、神は「永遠を思う心を人に与えられる」。「永遠を思う心」とは、人間には永遠性がないが、これを慕い思う心のことです。神は人間に、「永遠の思い」、過去と未来を問う能力、初めから終わりまで見極めたいと思う心を与えられた。しかし、永遠の思いは、かえって人を不安に陥れるものとなります。人間にとって「永遠」は死のかなたのものなので、否応なしに「死」を意識させずにはおかないからです。人は死を考えることを好みません。 

   神は人間の営みのすべてに時を定められた。そしてまた神は人の心にただ日々の出来事の認識のみでなく、永遠を思う心を与えられました。ここで言う「永遠」は、終わりのない時間の継続を指しています。しかし、人は神の業のすべての神秘を究めつくすことはできません。その終始を見極めることは許されていません。

   「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。」(3:12-13)

 「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ」とコへレトは知りました。生きている間、労苦して得たものを、神の賜物として感謝しよう。そしてそれを喜び楽しもう、と彼は言います。と言っても、単なる快楽主義ではありません。神を畏れ、日々の労苦の中にしあわせを見出すのを良いとするのです。

 「わたしは知った。すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。」(3:14)

 コへレトは、「すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない」と知りました。だから、「時」を与えたもう神を信じて、畏れ敬い、与えられた日々を感謝しつつ、喜び楽しんで生きるのが一番良いとします。

   キリストが死を打ち破り「永遠」のいのちを与えてくださる時に、もっと素晴らしい真の人生が開かれるのですが、それまでは、神を畏れ、神の摂理を信じて、日々の「労苦の中にしあわせを見出す」のが良い、とするのです。

  「今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。」(3:15)

今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと」です。神は過ぎ去ったことを何度でも繰り返します。言い換えれば、「太陽の下に新しいものは何もないのです。

 「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。」(3:16-17)

 「裁きの座」とは法廷です。コヘレトはその法廷が正しく機能していないのを見て、「正義を行う人も悪人も神は裁かれる」とつぶやくのです。コヘレトは、死後の裁きのことを言っているのではありません。悪を行う人だけではなくて、正しいことを行う人も、神様の裁きである死を免れることはできないのです。ただイエス・キリストを信じる人だけが、罪を赦されて、神の裁きとしての死を免れることができるのです。

 3章11節の「神はすべてを時宜にかなうように造られた」は、聖書協会訳では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と訳しています。新改訳も、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と協会訳とほぼ同じように訳しています。原文でも、「ヤーフェ(美しい)」という語が用いられています。神が天地を造られたあと、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)のお言葉が反映している心地良いひびきのことばです。

  この世の生活は、一見すると空しさに満ちているかもしれません。今、世界にどんな恐ろしい事が起ころうとも、絶望してはなりません。破壊、涙、殺戮など、むごいとしか言えない現実があります。しかし、聖書は、その背後に神のみ手があると語るのです。空しさの中に、その空しさを超えて導く神のみ手があるのです。神が働いているこの世界は、その時にふさわしく美しいのです。そして、その神のみ手に信頼して生きなさいと言うのです。なぜなら、そこにこそ、唯一、この世の空しさを打ち破り、絶望を乗り越えて行く道があるからなのです。

 

  境の時も、逆境の時もこう言えるのは、神様への信頼があるから。天の父なる神様は、私たちに独り子イエス様を与えるほど、愛に満ちたお方だから。(北秋津キリスト教会・聖書一言メッセージ2)

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