富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「たとえで語るキリスト-種蒔きのたとえ」 マタイによる福音書13章10~17節

2017-02-04 13:56:04 | キリスト教

                         「種まく人」 ミレー 1850 ボストン美術館.

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

       週    報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

降誕節第7主日  2017年2月5日(日)  午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 220(日かげしづかに)

交読詩編   86(主よ、わたしに耳を傾け)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書13章10~17節(p.24)

説  教   「たとえで語るキリスト」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌    57(ガリラヤの風かおる丘で)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                                 次週礼拝 2月12日(日) 午後5時~5時50分

                                   聖書  マタイによる福音書5章1~12,17~20節

                                   説教  「教えるキリスト」 

                                   讃美歌(21)54 53 24 交読詩編119篇

本日の聖書 マタイによる福音書13章10~17節

 10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

     本日の説教

  イエスは群衆に、「天の国」を「種を蒔(ま)く人」のたとえで話されました。それは弟子たちにとって不思議なことでした。彼らは、たとえなど使わず、もっとストレートに話せばよいのにと思ったのです。そこで、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と質問しました。

 「たとえ話」は、例(たと)えられているものを少しでも知っていれば、深遠な教えを日常的な素材を用いて平易に語るののですから、一層分かりやすく、それによって理解が進みます。しかし、例えられているものを理解していない場合には、たとえを聞いても何のことか分からず、謎(なぞ)のままになってしまいます。

 この種蒔きのたとえも、「天の国」に関する知識がない群衆にとって、理解できない状態にあることを察知した弟子たちは、なぜ謎でしかないたとえをもって話されるのか、と主にたずねたのです。実は、弟子たちにとっても、18節以下のイエスの説明を聞くまでは、群衆と同じく、この「種を蒔く人のたとえ」を理解できなかったのです。

 イエスの答えは、「弟子であるあなたがたは」、「天の国」の奥義を知ることが許されているが、群衆である「彼ら」はそうでない、と話されました。「天の国」とは、ここでは死んだ後に行く天国のことではありません。神が支配する国であり、今、イエス・キリストを自分の主として受け入れる者たちに与えられる、神の支配であります。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)と言われています。

 イエスはたとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られませんでした。マタイによる福音書には16のたとえが語られています(7:24-27、13章には7つ、18章には2つ、20:1-16、21章には2つ、22:1-14、25章には2つ、計16)。それは預言者を通して言われたことが実現するためでした。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる」(マタイ13:35)とあります。

 「隠されたいたこと」すなわち「奥義」は、神の啓示なくしては知り得ない真理のことで、ある人には隠されているが、他の人には明らかにされます。それは、イエスがメシアであるという事実、あるいはイエスの到来と共に神の国が実現しつつあるという出来事を指します。

 「知ることが許されいる」は、知ることは許されて知るのであり、恵みとして与えられるのです。「天の国」の民は、単に知ることが許されているだけでなく、神の恵みにより、聖霊を通して、体験的に知ることへと導かれるのです。ところが、イエスを取り巻くユダヤ人たちは、次第にイエスを拒否するようになり、イエスを知る恵みから追放されていきました。「あの人たちには許されていないからである」は、彼らがイエスをメシアとして認めない結果なのです。

 「持っている人は」ますます富み、「持たない人は」まうます乏しくなる、という社会的・経済的原則は霊的世界にも当てはまります。「持っている者」とは、「天の国」を持っている者のことです。「さらに与えられて」とは、その御国が御国の民にもたらす祝福を指します。「豊かになり」とは、御国の祝福にあふれるばかりにあずかっている状態をいいます。「持たない者」とは、「天の国」を持たない者、つまり神の救いにあずかっていない人を指します。「持っているものまで」とは、御国に対して態度を決定する前に神から与えられていた一般的な祝福のことです。イエスの話を聞いていたユダヤ人にとっては、神の契約の民として昔から受けていた宗教的特権を指します。

 群衆はイエスの奇跡を見、イエスの説教も聞きました。イエスがメシアであり、イエスの到来とともに「天の国」が始まったことについては、すでに十分な情報が提供されました。ところがイエスを取り囲んでいる人々は、イエスを信じようとはせず、イエスの御国も受け入れようとはしませんでした。もしそうであれば、、イエスにとっては、もはやなす術がない。それでもなお、解き明かす方法があるとすれば、たとえで話すことだけです。たとえで話すなら、再度その問題を考えさせることができるからです。イエスは、改めて、イエスのメシア性や、「天の国」について群衆に考えさせようと迫ったわけです。

 イエスの時代のユダヤ人は、イエスと「天の国」に関し、見聞きしながら、悟ろうとはしませんでした。紀元前8世紀のイザヤの時代、神に遣わされたイザヤが預言をすることによって、かえって人々が理解せず、その言葉を受け入れず、悔い改めようとしない、ということが起る、と神が預言しました。このイザヤ書6:9-10の預言が、イエス時代にイエスを拒否した人々によって実現したのです。

 イザヤ書からの引用文「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず…」以下の文章は、内容的には13節の繰り返しです。従って、イエスが引用したのではなく、後になってマタイが挿入した、と考えられます。

 群衆は、聞いても悟らず、見ても理解しなかった。なぜなら、「この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」からです。彼らの肉体の耳や目は作動していたが、何の機能も果たしていなかった。心が閉ざされていたからです。彼らがイエスを信じるかどうかは、実際に見聞きする前に、すでに決まっていたのです。

 イエスの話を聞いた人々にとって、「心で悟って」、「立ち返る」ことこそ重要でした。「悟る」は、理性で「知る」こと以上の、自らの全存在をもって受け止めることを指します。「立ち返る」は、自分中心であることから回転し、神の方に向きを変えることをいいます。「いやされる」とは、神との関係や罪の赦しを含めた全人格的な回復を指します。彼らが神に立ち返らない結果、神はいやしの祝福を彼らに与えないのです。

 しかし、「あなたがた」弟子たちは、イエスの御業を見てイエスが御国を支配している現実を知り、その福音を聞いてイエスの統治を確信しました。彼らの目や耳は機能していました。彼らの心がイエスに開かれていたからです。それゆえ彼らは「幸い」でした。

 続けてイエスは、弟子たちがなぜ「幸い」なのかを明らかにします。その際イエスは、「はっきり言っておく」とこれから話すことの重要性を印象づけます。イエスの弟子たちは、旧約聖書の「多くの預言者」や「義人たち」に比べ、幸いでした。彼らが長い間見たい、聞きたいと願っていたメシアと天の国の到来を、イエスの弟子たちは、現実に見たり、聞いたりしているからです。「あなたがたの見ているもの」とは、イエスがメシアとして現された奇跡のことです。「あなたがたが聞いていること」とは、イエスの御国の福音を指します。イエスの弟子たちは、それを見聞きすることが出来たのですから幸いです。

 弟子たち、それは主イエスに招かれ、従っている人たちです。主イエスの近くで主の御言葉を聞いている人々です。弟子たちの時代は今日にまで至ります。主イエスを信じ、教会に連なり、礼拝を守っている私たち信仰者にも、弟子たちに与えられた幸いが与えられているのです。

 主イエスは、誰にでもたとえを語られました。たとえを聞いて、「天の国の秘密」を聞き取れた者が弟子であり、信仰者ということです。「天の国の秘密」を聞き取れるのも、神の恵みにより、聖霊によるものなのです。イエスの教えを聞き、「心で悟って」、「立ち返る」者には、神の豊かな恵みといやしの祝福が与えられるのです。

  (以上の説教の参考資料:中沢啓介著「マタイによる福音書注解<中>いのちのことば社、2003年発行)

 ところで、13章3節から9節までの「種を蒔く人」のたとえは、わたしたちに何を教えているのでしょうか。種を蒔く農夫はムダになってしまう種や、ムダ働きになってしまうことがあっても、必ず収穫にむすびつくことを疑わず、きびしい種蒔きと土地の耕作をします。そしてすばらしい収穫を刈り取ります。神の国の福音を伝えることも、挫折や失敗があっても、神の支配は前進し、神の収穫は期待を越えて大きいのであるから、何事にも失望することなく、神を信じ、信仰を持ちつづけないと教えています。

 13章18節から23節までの「たとえ」の説明では、「道端」、「石だらけの所」、「茨の中」、「良い土地」と、種が蒔かれた四つの土地をあげています。わたしはどの種類の土地であろうか。「わたしは硬い土地であろうか、浅い土地であろうか、荒れた土地であろうか、良い土地であろか」、どの土地だろうかと自分を吟味するかも知れません。実は、わたしたちには、いくぶんか四種類の土地にあたるものがあります。御言葉の種が私たちの心に蒔かれた時、初めから理想的な良い土地の人はいません。私たちは石ころや、いばらが生い茂っているような頑なな心の持ち主なのです。しかし神の福音は人間を変えることができるのです。この譬えは注意深く聞くだけでなく、決断と活動を生み出す聞き方が求められているのです。ですから石を取り除いたり、茨を刈り取ったりして、心の畑を耕しし、柔らかい土地としなければならないのです。私たちに求められているのは、「良い土地にしてください」と祈り求めることであり、キリストにしっかりしがみついて離れないことです。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの 父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、これをきれいになさるのである」(ヨハネ15:1-2)と主は言っています。

  主イエスにつながっていることが求められています。農夫である父なる神はわたしたちが実を結ぶことができるように、わたしたちを手入れしてくださるのです。枝の剪定だけではなく、御言葉の種が実を結ぶように、私たちの心の畑も耕してくださり、「良い土地」にしてくださるのです。そして予想をはるかに越える、驚くばかりの実を結ばせてくださるのです。 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「新しい神殿」 マタイによ... | トップ | 「山上の説教ー八つの幸いの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事