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日本福音教団 富 谷 教 会
週 報
降誕前第七主日 2020年11月1日(日)
午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を
成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)
礼 拝 順 序
司会 齋藤 美保姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)
交読詩編 27(わたしは心を尽くして主に感謝をささげ)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)マタイによる福音書7章7-12節(新p.11)
説 教 「求めなさい。そうすれば与えられる。」辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 440(備えて祈れ)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
次週礼拝 11月8日(日)午後5時~5時50分
聖 書 ローマの信徒への手紙3章21節~28節
説教題 「人間の堕落」
讃美歌(21) 355 436 27 交読詩篇 51
本日の聖書 マタイによる福音書7章7-12節
7:7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 8だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 9あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 10魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 11このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。12だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
本日の説教
「求めよ、さらば与えられん。」文語訳聖書のことばです。私が初めて聞いた聖書のことばです。私が県立古川中学校(旧制中学校)の1年生の終業式の日、英語を教えていた樋口先生の離任式がありました。先生は仙台の東北学院中学校で勤めることになり、そのお別れの御挨拶の最後に、この聖書の言葉、「求めよ、さらば与えられん」を私たち生徒に送られたのです。気品のある紳士で、ユーモアのある先生はクリスチャンだったのです。わたしは、この聖書の言葉に感銘を受けました。
それ以来、この聖句はわたしの人生途上で大きな役割を果してくれました。祈り求めたものが、与えられました。高校2年生のとき、漢文の授業で、「明日(あした)に道を聞けば、夕べに死すとも可(か)なり」という孔子の説いた論語の言葉です。人はどう生きるべきかが解ったなら、死んでも悔いはない、という意味です。私は、「何のために生れきたのか」、「なぜ死があり、親と別れなければならないのか」など人生の意味を知りたく悩んでいたので、この人生の「道」を知りたいと、祈り求めました。当時は、まだキリスト教の神についても全く知らなかったので、「神様」とは、どういう方なのか知りたいと、強く願っていました。
自宅の兄の本箱の上にあった聖書を開いて、出合ったのが、山上の垂訓(すいくん=説教)の中にある「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」という言葉でした。当時、二学年上の兄とよく兄弟けんかをしていたので、兄に叩かれても、仕返しをしないようにしようと思ったのですが、どうしても悔しくなって、この聖書のお言葉を実行できませんでした。それで、どうして実行できない教えが聖書に書かれているのか疑問になり、初めて陸前古川教会を訪れ、牧師に尋(たず)ねました。後藤牧師は、私の質問には即答なさらず、教会の礼拝に通ううちに分かるでしょうと言われました。おそらく、ただ説明しただけでは理解することが出来ないと思われたからなのでしょう。教会の日曜日の礼拝と水曜日の午後5時からの祈祷会に通ううちに、イエス様の罪人をも愛する愛を知った私は、大学入学前のイースターの日に受洗しました。
後になって分かったことは、「だれかがあなたの右の頬(ほほ)を打つなら、左の頬を向けなさい」(マタイ5:39)という教えは、「敵を愛しなさい」という教えであり、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」(マタイ8:48)という教えです。イエス様のこの御言葉によって、生れながらの人間は、神の前に不完全な人間であり、罪人であることを自覚させられるのです。このような人間を「天の父の子」とするために、イエス様はこの世にられ、十字架の死によって私たちの罪をあがない、罪と死から私たちを解放するために復活して天に帰られました。イエスの十字架と共に古い私を十字架につけて死に、イエスの復活にあずかって新しい人とされるのが洗礼です。生まれ変わった新しい人は、イエス様から聖霊をいただき、天の父の子にふさわしく、敵をも愛する人に次第に変えられていくのです。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ福音書14:6)という御言葉から、若いときに「道」を知りたいと願っていたことが、かなえられたことを知りました。またイエス・キリストを通して生ける真の愛の神を知ることもできたのです。
主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われました。祈りは必ず聞かれると言われているのです。私たちにとって大きな励ましとなるこの言葉が、ここで語られるのは、これまで主イエスが語った様々な教えや戒めを実行することは、到底不可能に思え、「わたしは何と惨めな人間なのだろう」と無力さ、罪深さを自覚し、助けを求める者に対する励ましなのです。
主イエスは、<求める>、<探す>、<たたく>と言う三つの言葉を並べることによって、熱心な祈りをささげるように励まされます。しかし、祈りに限定する必要はありません。「求める」は「神の国とその義」に対しても使われ、「求めなさい」言われています。「見出す」は、「自分の命」(10・39)、「安らぎ」(11・29)、「宝」(13・44)などで用いられています。「たたく」は「門」(7・13)と関係があるようです。いずれも、「求め続けなさい」、「捜し続けなさい」、「たたき続けなさい」と、熱心に継続することが求められています。
そうすれば、「与えられる」、「見つかる」、「開かれる」といっておられます。神は熱心な祈りに答えてくださるのです。しかし、神は何でも祈ったとおりに与えてくださるというのではありません。神は私たち一人一人を最もよく知っておられる方であり、熱心に祈る人に対し、その人にふさわしい最善のことを、最善の方法で、最善の時に答えてくださるのです。願ったとおりにならないときでも、神は今、自分にとって最善の道を歩ませてくださっていることを信じ続けるべきなのです。
主イエスは、さらに必ず与えられるという確かさを、親子の例を用いて説明します。世の親は、子供に少しでも良い物を与えようとします。パンを欲しがっているのに、石を与える親はいません。あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいないと言われています。ルカによる福音書には、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11・13)とあります。絶えざる熱心な祈りに応えて神は、わたしたちにとって、もっとも良いものである愛と聖霊とを与えてくださり、父なる神の性質にあずからせてくださるのです。聖霊は私たちに信仰・希望・愛を与えてくださいます。神様との親しい交わりを与えてくださいます。何が正しいのかという判断も知恵も与えてくださいます。私たちの互いの平和も与えてくださいます。生きる力も勇気も与えてくださいます。自分が何をしていけば良いのかという、将来の見通しも与えてくださいます。そして、祈りも与えてくださるのです。
神が私たちの祈りに応えて、良い物をくださるのだから、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」と主は言われます。黄金律と言われているこの言葉は、愛の実行を勧めます。愛において律法の諸要求は満たされ、完成するのです。律法は徹底的に隣人を尊重することによって、守られるものであり、そのような人間関係と、神との関係を<求めなさい>と主イエスは勧めるのです。
私たちの祈りも、自分のことや家族のことについてだけ為されるのでなく、ほかの人のためにも祈らなければないません。自分以外の人のためにしっかり祈ることが出来れば、私たちは、自己中心的な思いから解放され、愛に満たされ、いつも天からの光の中を歩むことが出来るのです。
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