富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主にある共同生活」 使徒言行録4章32節~37節

2017-07-08 01:59:39 | キリスト教

      ↑ ラファエル(1483-1520)の「アナ二アの死」(340 × 530 cm) 1516年作。 ロンドン、Victoria and Albert Museum所蔵

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

               日本キリスト教 富 谷 教 会   週   報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

     聖霊降臨節第6主日   2017年7月9日(日)   午後5時~5時50分

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 355(主をほめよ、わが心)

交読詩編   13(いつまで、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) 使徒言行録4章32節~37節(p.220)

説  教     「主にある共同生活」   辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   390(主は教会の基となり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏  

                            次週礼拝 7月16日(日)  午後5時~5時50分

                                 聖書  テモテへの手紙2章1節~8節

                                 説教   「祈り」

                                 讃美歌(21)495 492 24 交読詩編143

    本日の聖書 

  32信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 33使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。 34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。 36たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、 37持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

   本日の説教

 使徒言行録の2章には、主イエスが約束した聖霊が五旬祭の日に、イエスに従う使徒たちがエルサレムで集まっているときに降った聖霊降臨の出来事が記されています。この日、ペトロの説教の後、三千人ほどの人が洗礼を受け、仲間に加わり、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心な人たちの教会が誕生しました。

 2章44節から47節には、信者の生活を描いた要約が記されています。

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(2・44-47)

  3章には、ペトロが足の不自由な男をいやしたこと、神殿で説教したことが記されています。4章では、ペトロとヨハネの二人が民衆に、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えたので、祭司長たちはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れました。しかし。二人の語った言葉を聞いて信じた人は、男の数で五千人ほどになったことが記されています。

 翌日、ペトロとヨハネは議会で取り調べを受けます。尋問に対し、ペトロは聖霊に満たされ、足の不自由な男が良くなったのは、「あなたがたが十字架につけえ殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と釈明した後、釈放されました。二人は、釈放されると仲間のところへ行き、報告しました。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって祈りました。

 「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(4・29-30)

 教会の祈りに答えて、神は一同に聖霊を下して勇気づけ、大胆に神の言葉を語らせ、福音宣教の教会としました。そして今日の聖書の箇所になります。

 「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(4・32)

 「信じた人々の群れ」とは、教会を意味します。教会はこの時すでに五千人の群れへ成長していました。復活の主に対する信仰のもとで、心も思いも一つでした。聖霊による一致が与えられたのです(コリント一,12・4以下)。主の復活の福音は全く物惜しみをしない、大胆な生活を可能にしたのです。「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」とは、自分が所有しているものは、全くキリストの恵みとして与えられているものであり、キリストの目的のために用いられるべきであるという心から、「すべてを共有」していたのです。

 「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」(4・33)

 使徒たちは復活の主を奇跡的な力で、証しすることに忠実でした。大いなる恵みが彼ら一同の上にありました。

信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」(4・34)

 ここには、彼らが、貧困や欠乏から完全に守られていたというのではなく、その都度必要に応じて分配がなされていたことが語られています。すべての者がしばらくの間持ち物をわかち合ったのです。

 「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」(4・35)

 「それを売っては代金を持ちより」の表現は、「その都度」と言う意味がこめられており、人々が、皆が皆、一度に、持っている物を皆売り払ったというのではないことを示しています。土地や家を持っている人たちは、自発的にそれを売り、その代金は使徒たちに預けられました。捧げ物とその分配は使徒たちの権威の下で行われました。

たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」(4・36)

 どのような機会に使徒たちにバルナバ(慰めの子)というあだ名で呼ばれるようになったかは不明ですが、このことはバルナバの回心は使徒たちに負っていることを示しています。バルナバは、「立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちて」いた人で、アンティオキアへ派遣されたとき、「多くの人が主へと導かれ」ました(11・23、24)。本名はヨセフで、キプロス島生まれの、レビ族のユダヤ人です。レビ族は初めは祭司を職業としていたが、後にはアロン属の祭司の下で、神殿における供え物や儀式の準備のような下級の仕事に従事するに至りました。バルナバは、持っている畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちに差出しました。バルナバの財産提供は、特に賞賛のまととなったので、特記されたのでしょう。皆が皆、バルナバの様な提供をしたわけではないこと、またその提供は全くの自由において行われたことが示唆されています。

 次の5章1節から11節では、捧げ物をすることの自由です。アナニヤとサフィラの夫婦は、この自由を行使せず、土地を売った代金の一部を持ってきながら、全部であるかのようにごまかし、虚偽の報告をしました。その罪が厳しく問われたのです。ペトロはアナニヤに、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また売っても、その代金は自分の思いどうりになったのではないか。あなたは人間を欺

いたのではなく、神を欺いたのだ」と告げます。この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えました。奇跡的な神罰が起こったのです。ルカは、この二人の嘘つきの死を詳細に描いています。

バルナバの献金は、富める者が彼らの畑や持ち物の収入によって、貧しい兄弟たちの窮乏に応じたばかりでなく、彼らの所有地を取って置くことをしなかったほどに出し惜しみはしなかったことの例としてあげられています。

  ここでは、バルナバは愛の実践者として献金をした姿が描かれています。しかし、この後、バルナバは回心したサウロ(使徒パウロのユダヤ名)をエルサレム教会に紹介した人であり(11・19,20)、エルサレム教会からの使いとしてアンティオキア教会へ遣わされた人です(11・22)。また、パウロをアンティオキアの教会に迎え入れるためにパウロの故郷タルソスまで捜しに行き、連れて来た人です。(11・25)。パウロの第一回目の宣教旅行は、バルナバとパウロの二人で行われたのです(13・4)。このように、バルナバはパウロが使徒として活躍するために重要な役割を果たした人なのです。

 最初の教会の共同生活、財産の共有だけが理想的な姿なのだと考えることは、必ずしも正しくありません。このような姿は、彼らの霊的一致の意識が、異常に生き生きとしていた時のみ、維持されていましたが、やがて共有生活を維持することは、重大な困難にぶつかるようになりました。アナニヤとサフィラのような事件が起きるのです。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた(5・11)」この事件は神をあなどる者に対する警告でした。アナニアとサフィラについての厳粛な記述の最後に、ルカは初めて教会という言葉を用いています。教会は貪欲や金かかわる利己的行為と対決しなければならないのです。信徒は所有への執着心の放棄が求められているのです。

  共同生活、共有生活そのものが、わたしたちに模範として教えられているわけではなく、キリストの共同体にあっては、だれ一人として自分に与えられているものは、それが財産であれ才能であれ何であれ、それは自分自身のものではなく、神から委ねられているにすぎないことを自覚し、ることにあります。わたしたちは神からゆだねられている良い管理人として、それらを使わなければならない責任があります。神のみこころは、愛の交わりである教会が形成され、教会は神のみこころを世に表し、宣教の業を行っていくことにあります。主にある共同生活は、当然、すべての人が自発的に自分のものを神にささげる献身の生活となっていきます。そして、献身の具体的な表れが献金です。信徒たちが捧げものを使徒たちのところへ持ってきたのは、神のもとへ持って来たことを表しています。教会がこのような愛の交わりを形成できるのも、また、教会が外に向かって力強い宣教ができるのも、主の復活の出来事が生み出す信仰によるのです。

 初代教会が、この世がこれまで見たこともない共同生活を実現したのは、キリストの復活が可能にしたしるしであります。教会は、この世とは別の共同体として召されていることを示しています。「あなたがたは、なぜ復活によってもっと強く生かされているように見えないのですか」と、わたしたちは問われています。「アナニアの様ではなく、バルナバの様になりなさい」(Be like Barnabas,not like Ananias.)と。

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