塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

きつい場数体験が多い事、少ない事

2013-06-19 00:41:22 | 日記
 父の日も終わりましたが、当日を含む一週間は随分疲弊しました。

 通常業務に加えてギフト包装と、発送の管理が加わったためですが、こうした別業務が増えると個人の思想と力量が見えて
きます。

 僕は古株ですから

 「予めこうした準備をしたらよい」
 「今は手が空いているから、備品を補充して混雑した時に慌てないようにしよう」

 という予測ができます。

 しかし同じ古株でも、誰かがやってくれるであろうと思う人物は(今回は僕の部署、紳士服の管轄だった為もあります)、
時間があっても準備を怠っているようにみえましたし、中には今回が初めてという人間もいます。

 ですから圧倒的な人並と、包装の美麗さに加えて渡し間違いを避けなくてはいけない重圧。

 これらが彼らを不安にさせ、これでいいのか?という確信のなさに繋がってしまうのです。

 ですから僕は自分の包装を行いながら、場数の少ない従業員の質問に答えたものですが、僕も駆け出しの頃は同じ心境でし
た。

 幸か不幸か、こうした業務の時に出社になっていたからこそ、時には厳しい叱責を受けながら何とか成長してきたのです。

 ザッケローニ監督に限らず、日本代表監督が新参者を使う点に躊躇するのもわかるのです。

 代表選はその多くがテレビ中継され、初招集の選手を仮に先発で起用しても、もし思うように動けなければ交代せざるを
得ませんし、その点を監督も選手も糾弾されてしまう。

 ザッケローニ監督は選手に不用意な視線を周囲が与えないためにも、後半わずかの時間で新顔を使ってきました。

 大津、宮市、田中、大谷はその代表例です。

 しかし、痛い思いをしながら90分やりきったと思える配慮も時には必要だと思います。

 ただ最終ラインに関しては難しいですね。

 僕が自分の包装をしながら受付やアドバイスを行ったように、今野のような熟練者でもコンビを組むCBに指示を出しな
がら自分のマークを受け持つのは大変でしょうから。

 しかし時に英断を下さない限り、選手のキャップは増えませんし90分与えることも必要だと感じます。
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一蓮托生のサッカー界

2013-06-19 00:28:06 | 日記
 「女は男しだいでございます。」

 池波正太郎先生は鬼平犯科帳のなかで、平蔵の妻久栄にこう語らせています。

 例えば僕が恋人をふたりで歩いていたとします。

 僕が空き缶やゴミを道路に捨てる、車いすや杖をついて歩いているかたに道を譲らないなど、はしたない行為を繰り返すと、
彼女には当然失望感が浮かぶことでしょう。

 欧州式のレディー・ファーストが出来ない点を、日本女性は糾弾します。

 その一方で男女問わず自分の行動が、周囲に迷惑を及ぼしていないか、はしたない行動で家族が恥ずかしい気分に陥ってい
ないかを、各々が確認すべきだと思うのです。

 男が間抜けならば女は嫌な気分になる
 女が間抜けならば男も嫌な気分になる

 性別は問わないと思います。

 サッカーも同様で、選手と監督、フロントと地域社会はまさに一蓮托生と言えます。

 野球ほどではないにしても、過去F・マリノス、レッズが優勝パレードを行った際には多くのファンが祝福しましたし、パ
ルセイロのようなアマチュアでも、学校訪問は数多く行っています。

 ですから

 選手と監督がまずい試合運びをすれば地域とファンが失望する
 ファンがまずい行動をおこせば、クラブと地域社会が失望する
 地域社会がクラブに関心を持たなければ、クラブは疲弊してしまう

 というつながりがあるはずです。

 一口に地域社会といいましても、サッカー以外にプロスポーツを抱えるところもあれば、FC岐阜やヴァンフォーレ甲府の
ように、強豪するプロスポーツが無い地域もあります。

 クラブとファン、地域社会のつながりは様々な形があると思いますが、一番肝心なのは

 「彼らと共に歩みたい」

 と思える気持ちと、その方法だと考えます。
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