塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

一蓮托生のサッカー界

2013-06-19 00:28:06 | 日記
 「女は男しだいでございます。」

 池波正太郎先生は鬼平犯科帳のなかで、平蔵の妻久栄にこう語らせています。

 例えば僕が恋人をふたりで歩いていたとします。

 僕が空き缶やゴミを道路に捨てる、車いすや杖をついて歩いているかたに道を譲らないなど、はしたない行為を繰り返すと、
彼女には当然失望感が浮かぶことでしょう。

 欧州式のレディー・ファーストが出来ない点を、日本女性は糾弾します。

 その一方で男女問わず自分の行動が、周囲に迷惑を及ぼしていないか、はしたない行動で家族が恥ずかしい気分に陥ってい
ないかを、各々が確認すべきだと思うのです。

 男が間抜けならば女は嫌な気分になる
 女が間抜けならば男も嫌な気分になる

 性別は問わないと思います。

 サッカーも同様で、選手と監督、フロントと地域社会はまさに一蓮托生と言えます。

 野球ほどではないにしても、過去F・マリノス、レッズが優勝パレードを行った際には多くのファンが祝福しましたし、パ
ルセイロのようなアマチュアでも、学校訪問は数多く行っています。

 ですから

 選手と監督がまずい試合運びをすれば地域とファンが失望する
 ファンがまずい行動をおこせば、クラブと地域社会が失望する
 地域社会がクラブに関心を持たなければ、クラブは疲弊してしまう

 というつながりがあるはずです。

 一口に地域社会といいましても、サッカー以外にプロスポーツを抱えるところもあれば、FC岐阜やヴァンフォーレ甲府の
ように、強豪するプロスポーツが無い地域もあります。

 クラブとファン、地域社会のつながりは様々な形があると思いますが、一番肝心なのは

 「彼らと共に歩みたい」

 と思える気持ちと、その方法だと考えます。
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