しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「半七捕物帳」川越次郎兵衛   (埼玉県川越) 

2024年04月28日 | 旅と文学

岡本綺堂の「半七捕物帳」のファンで、光文社から発行されている全集を持っている。
ストーリーが面白く、江戸時代の江戸の町の描写が興味深い。


「川越次郎兵衛」では、巻頭で川越までのアクセスを書いている。
江戸時代は人も物資も舟便の利用が多かったが、
小説では陸便が圧倒的に多い。
「川越」は町の名のとおり、湊町として発展・繁栄していた様子を半七老人が語っている。

 

旅の場所・埼玉県川越市幸町・川越商家”重伝建地区” 
旅の日・2022.7.13
書名・「半七捕物帳」川越次郎兵衛   
著者・岡本綺堂
発行・光文社 昭和61年発行

 

 

 

「半七捕物帳」川越次郎兵衛

四月の日曜と祭日、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。
それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。

「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江戸時代に二度行ったことがあります。 今はどんなに変りましたかね。
御承知でもありましょうが、川越という土地は松平大和守十七万石の城下で、昔からなかなか繁昌の町でした。
おなじ武州の内でも江戸からは相当に離れていて、たしか十三里と覚えていますが、薩摩芋でお馴染があるばかりでなく、
江戸との交通は頗る頻繁土地で、武州川越といえば女子供でも其の名を知っている位でした。

あなたはどういう道順でお出でになりました......。
ははあ、四谷から甲武鉄道に乗って、国分寺で乗り換えて、所沢入間川を通って......。
成程、陸を行くとそういう事になりましょうね。

江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。
浅草の花川戸から船に乗って、墨田川から荒川をのぼって川越の新河岸へ着く。
それが一昼夜とはかかりませんから、陸を行くよりは遙かに便利で、足弱の女や子供でも殆ど寝ながら行かれるというわけです。
そんな関係からでしょうか、
江戸の人で川越に親類があるとかいうのはたくさんありました。
例の黒船一件で、今にも江戸で軍が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を川越へ立退かせたのが随分ありました。 

 

 

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燃えよ剣  (北海道函館市)

2024年04月28日 | 旅と文学

小説や映画やテレビや漫画に出る新選組はかっこいいが、
実態は組織の内部粛清に力点がおかれた、ならずもの集団のような意味合いを感じる。

新選組副隊長だった土方歳三は、司馬遼太郎によって
「どかた」さんから「ひじかた」さんと認知され
彼は彼なりに時代と大義と殉じた人間として、再評価されている。

 

 

旅の場所・北海道函館市五稜郭町・五稜郭 
旅の日・2017年7月29日  
書名・燃えよ剣
著者・司馬遼太郎
発行・新潮文庫  昭和47年

 

 

 


五稜郭

歳三は函館政府軍における唯一の常勝将軍であった。
この男がわずか一個大隊でまもっていた二股のは、十数日にわたって微塵もゆるがず、
押しよせる官軍がことごとく撃退された。
歳三の生涯でもっとも楽しい期間の一つだったろう。
兵も、この喧嘩師の下で嬉々として働いた。

 


歳三は、死んだ。
それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。
総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚のなかで戦死したのは、歳三ただひとりであった。

八人の閣僚のうち、四人まではのち赦免されて新政府に仕えている。 
榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介、永井尚志 (頭)。


碑が同市浄土宗称名寺に鴻池の手代友次郎の手で建てられた。
金は全市の商家から献金された。
理由は、たった一つ、歳三が妙な「善行」を函館に残したことである。
五稜郭末期のころ、大鳥の提案で函館町民から戦費を献金させようとした。
「焼け石に水」と、歳三は反対した。
「五稜郭が亡びてもこの町は残る。一銭でも借りあげれば、暴虐の府だったという印象は後世まで消えまい」
そのひとことで、沙汰やみになった。

 

 

 

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