しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「少女たちの戦争」 子供の愛国心  

2022年05月05日 | 昭和16年~19年
為政者とは別として、また言われなくても、
国を愛する、思う気持ちはだれにでもある、という話し。





「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行

子供の愛国心   有吉佐和子


紀元二千六百年(1940年)を、私はジャバ(ジャワ島)にある日本人学校で迎えた。
前々から練習していたので、紀元節の当日には「紀元は二千六百年」と勢いよく奉祝歌を合唱することができた。
日華事変が起こったばかり、大日本帝国は軍国主義的色彩を帯びて世界に冠たる日を夢みていた頃のことである。

二百人余りの生徒たちは皆日本人で、先生たちももちろん日本人である。
紀元節の二月十一日も灼熱の太陽が輝き、校長先生は壇上から校庭に居並んだ全校生徒に訓示をしていた。
「皆さんは、大日本帝国の国民であることに誇りをもっていなければならない。
日本人は世界第一級の国民なのだ。
日本は一等国なのだ。
皆さんは、それに恥じることのない立派な日本人になる義務を持っている」
光輝ある二千六百年の歴史を講義したあとで、校長先生はすっかり興奮していた。
先生はツバを飛ばしながら,一等国民である私たちを激励したのであった。

しかし、そのとき全校生徒の示した反応が私にはそれから十数年後の今もって忘れられない。
彼らは、奇妙な顔をして、校長先生の顔を眺めていた。
それは詰まらない芝居の中で俳優一人がシャリンになって大熱演しているのを見ている観客とよく似ていた。
当時オランダの植民地だったジャバでは、白人は総てに優位だったし、経済的には華僑をしのぐ日本人が決して多くなかったのである。
全校生徒の頭の上を、校長先生の訓辞は白々しく流れていった。

・・・・

私たちは、日本から最近やって来た子供を囲んで、何やかや日本の話を聞き出そうとした。
日本をたつ日が雪だったなどと聞こうものなら、私たちは羨ましくて羨ましくて、抱きつかねば我慢がならなかった。
忠君愛国の、上半分を忘れて国を愛することは出来ていた。

春は花が咲き、
秋は虫が鳴く、
冬は雪が降るといった、
四季の変化や折々の些細なことに、私たちの国を想う念はかきたてられた。



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「少女たちの戦争」 スルメ

2022年05月05日 | 昭和16年~19年
黒柳トットちゃんは、スルメが欲しくて、旗をふったことをくやんだと書いている。「私だって、戦争に加担したんじゃないか」と。




 スルメ   黒柳徹子

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行

生まれて初めてスルメを食べたのは小学校の低学年、
もうそのころは、だんだん戦争がひどくなり若い男の人は出征していく時代だった。
駅が賑やかだったのは、千人針を手にした女の人も多かったけど、出征兵士を送るグループがいたことだった。


駅の改札口の所に、出征する兵隊さんと、その家族が並ぶと、
隣組の人たちとか、かっぽう前かけに、「在郷婦人会」というようなタスキをかけた女の人たちが、ぐるりと、とりまき「○○君、万歳!」と叫んで、手をあげた。
兵隊さんや家族は「ありがとうございます」と、おじぎをし、
兵隊さんは「行ってまいります!」と敬礼をし、
「万歳!万歳!」の声に送られて、駅から出征していった。
スルメが、ふるまわれたのは、そういう時だった。


焼いて細く、さいたスルメを一本手渡してくれた。
もう長いこと、お菓子など、甘いものが何もない時代だったから、おやつを食べたことはなかった。
だから、スルメをもらって食べた時のおいしさは、いいあらわせない幸せだった。
かめばかむほど味が出るスルメを、そのとき、私は初めて食べて、こんなおいしいものがこの世にあるだろうか?とさえ思った。


それから私は、学校の帰りに走って行っては、人が集まっていないか探し、
集まっていると、旗を手にして「スルメ下さい」といって、ほんとに細くさいたスルメを一本もらった。
ああおいしい。
みんなが万歳!万歳!といっているそばで、スルメをもらう事に熱心だった。
でもそのうち、もっと物がなくなり、スルメも出なくなった。
そして空襲がはじまった・・・・。



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公文書焼却

2022年05月05日 | 昭和20年(戦後)

・・・・・・・

「遊行日記」  立松和平  勉誠出版  2010年発行


部隊が長い貨車で満州の荒野を移動中、敗戦を知った。
天皇が連合軍に敗戦を受けいれたことをラジオの玉音放送で全国民に告げたのだという。
新京駅構内は、行き先を失った軍事列車でいっぱいであった。
軍の機密書類をあわてて焼却する煙があっちからもこっちからも立ち、
兵たちが忙しそうに働いていた。
 
・・・・

小隊のこれまでの軍事行動を克明に記録し、
それをもとに軍隊手帳にガラスペンに墨汁をつけて転記した資料を、
大切に保管して守ってきたのだ。
だがこれを燃やせという命令が発せられた。
もしなくしたら軍法会議行と思って、命に換えて守り通してきたのである。
「副官殿、これを燃やしていいでありますか」
こう聞くと、すぐに命令が返ってきた。
「それは燃やせ」
火の中に、行李を開けて中の書類を放ち捨てると、火の勢いはいよいよ強くなった。
大切に守ってきた軍籍関係の書類は、あっけなく煙となって消えた。


・・・・・

海軍経理部にいた橋田壽賀子の終戦時の体験談。



空襲・終戦・いさぎよく死のう   橋田壽賀子

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行


とにかくアメリカ兵が進駐してくる前に、重要書類を焼却せよという命令で、
その日から、私たち下っ端職員は、総動員で書類を庭へ運び出し、
三日三晩ほとんど寝ずに燃した。
ギラギラと灼きつくような太陽の下を、重い書類を抱えて庭を往復し、
目は煙で真っ赤に腫れあがった。
頭の中は真空状態で、なにも考えられなかった。
ただ、アメリカ兵がやってきたときは、いさぎよく死のうと覚悟を決めていたから、
肉体的な苦しみにも耐えられたのではないかと思う。




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坊つちやん

2022年05月03日 | 銅像の人
場所・愛媛県松山市・道後温泉本館前




「星のあひびき」  丸谷才一  集英社 2010年発行

『坊つちやん』のこと

あの日本で一番有名な中篇小説を何十回目かにまた読んで、
妙なことが頭に浮かんだ。
坊つちやんに優しい「清(きよ)と云ふ下女」は坊つちやんの実の母なのではないかと思ったからである。
そして、一体どうして今までこのことに気づかなかったのだろうと不思議な気さへした。
さう思ふくらゐ、清が実の母なら話の辻褄が合ふのである。





みんなが100年間そのことにちっとも思ひ当たらなかった、ここで考へてみる。
まず作者の書き方に問題がある。
老獪であり巧妙である。
じつに上手に隠してゐる。
漱石は頭がよいことになってゐる。
事実、よかった。
しかし作家としての彼はノイローゼ患者で、執筆はノイローゼの治療のための療法だった。


もう一つ、伝記的な条件がある。
漱石は、誕生後すぐに里子に出され、そこから戻るとまた某家へ養子に出されたあげく、8才か9才のころ実家に戻った。
このことのせいで漱石は自分を捨子として意識し、
やがて捨猫の物語「吾輩は猫である」を書いた。


戦前の日本では忠義が大事な徳目だった。
わたし自身もまた、長いこと、清を忠義者としてとらへてゐた。
清が実の母だから坊つちやんをかはいがるといふごく自然な見方を排除したのだろう。


撮影日・2015.10.3 

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みんな軍国少女ですよ

2022年05月03日 | 昭和20年(終戦まで)
軍国少年や軍国少女のコアな世代は、およそ大正14年生~昭和4年生と思っている。
周囲が軍事一色の時代に育ち、分別つくまもなく年少兵になったり、
竹槍で本気で米兵を殺す(それ以外の世代は訓練に出る意識)愛国少女、
いちばん時代にほんろうされれている。
脚本家・橋田壽賀子は、その大正14年の生まれ。
・・・・・
高等女学校生であればわかぬでもないが、
女子師範学校が、一般的に限度の時代に日本女子大にまで進んだ筆者が、
軍国少女であったのは残念であるし、橋田壽賀子は度が過ぎた調子者であったように思う。
おそらく、嬉々として”お国のため”に労働した大学生は(高女も含め)少数のはずだ。
・・・・・





「渡る世間にやじ馬ばあさん」 橋田壽賀子 大和書房 2021年発行

太平洋戦争、死んでも忘れられない光景がある

あの太平洋戦争の頃はみんな軍国少女ですよ。
私なんかガチガチの軍国少女でした。
聖戦だと言われていたから、日本はよい戦争をしているんだ、
そう思っていました。


鬼畜米英だとか、お国のためには我慢しなければならないということを、
とことん教えられ洗脳されていましたから、食べる物がなくても、
ちっともつらいとは思わなかった。
いやお国のためなら死んでもいいと、本気で思ってた。
疑うことも知らず、そういうのが当たり前だと、
誰もが同じ価値観を持った時代でしたから。


戦争が始まったのは堺高等女学校の二年生。
二年後に日本女子大学校国文科に入学。
そのうち、授業どころじゃなくなって、学徒動員が始まった。
毎朝炒り豆と焼き米を持ってもんぺをはいて、
防空頭巾をかぶって、女子大の寮から工場へ行くわけですよ。
それで点呼があって、一斉に配電盤のビスを留める作業をやるのね。
悲壮感なんてありませんでした。
”ああ、きょうも一日、お国のために働いた”
って実にさわやかでしたよ。


やがて空襲がひどくなり学校は閉鎖、大阪に戻り、
海軍経理部に動員されました。
昭和20年の7月に,堺市が空襲を受け、急いで下宿先から堺に向かったけど
一面の焼け野原で実家はあとかたもなく焼けちゃって、熱風で近づけないんですよ。
いまも目に浮かぶのは、
あちこちに黒焦げの死体が折り重なるようになっていた光景です。


これから一ヶ月ほどがたって、あの”玉音放送”。
将校さんたちもいて、校庭に二百人ぐらいいたかな。
何がなんだかわからなくて、将校さんらに聞いても、
”戦争が終わった”とだけで、日本が負けたとは絶対に言わないんですよ。
でも、アメリカ兵が日本に上陸するという噂が広まって、
どうせ死ぬんだったら、
アメリカ兵がやってきたら刺し違えて死んでやろうと、
そんな恐ろしいことを本気で考えていました。


敗戦のときが20歳。
あの戦争から今年で60年。
戦争に協力したという責任は、やはり感じるんです。
その気持ちが強くて『おしん』の亭主には、
若者を戦場に送った責任をとらせて自殺させたんです。
私の思いを、せめて託したいと思ったんです。


「女性セブン」2005年8月11日号


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審判

2022年05月01日 | 昭和20年(戦後)
父は、中支の戦線で「刀で人は斬ったことはないが豚は斬った」と話していたが、
その豚は現地人の家畜を泥棒したのに違いない。


よく言われるように野戦では、最初の殺しは動揺するが、次からはなんとも感じなくなる。
それでも、なんらかの負い目みたいなものを生きている限りは、背負っていたのだと思う。





・・・・



審判 「武田泰淳全集第二巻」 筑摩書房 昭和46年発行 


私は終戦後の上海であった不幸な一青年の物語をしようと思う。
この青年の不幸について考えることは、ひいては私たちすべてが共有している不幸について考えることであるような気がする。


老教師の息子の二郎が現地復員した。
私は老人から息子について何度も聞かされていた。
私自身もその青年がこの家へもどってくるのを待ち望む気持ちになっていた。
老人の自慢の息子はたしかに立派な青年であった。
二郎は政治上の意見ものべず、悲苦の情もあらわさず、本心らしいものを吐露しようとはしなかった。


二郎の恋人の鈴子さんがはじめて訪ねて来た時にはちょっと驚かされたものだ。
パッと人眼を惹く美しい彼女は、湿った暗い気分を解放する新鮮な光にみちていいた。
このような美しい乙女に愛されている二郎をつくづくうらやましいと感じた。


二月になって、私は彼の口から鈴子さんとの婚約をとり止めにしたむねを聴かされた。
理由は別に語らなかった。
説明しにくいことだから、とだけ言った。
二郎の父は、
自分たち二人は次の船で日本に帰国するつもりだと私に告げた。


二郎の手紙
『私はあなたにあててこれを書き残すことにしました。
私はある理由によって帰国しないことにきめました。
裁きがあるものかないものか、私にはまだわかりません。
私は戦地で殺人をしました。


戦争である以上、
戦場で敵を殺すのは別にとりたてていうほどのことでもありますまい。
兵士として当然の行為でしょう。
しかし、私の殺人は、私個人の殺人でした。
住民を侮辱し、殴打し、物を盗み、家を焼き、畠を荒らす。
私には、
住民を殴打したり、女を姦したりすることはできませんでした。
しかし豚や鶏を無断でもってきたりしたことは何度もあります。
無用の殺人の現場も何回となく見ました。


一昨年の四月ごろ、私はA省の田舎町にいました。
二人の農夫らしい男がこちらに歩いて来ました。
日の丸の旗を持っています。
分隊長は差し出す紙片を読みあげました。
それは二人を使っていた日本の部隊長の証明書でした。
善良な農夫であるので、途中の日本部隊は保護せられたい由が記されてありました。
二人が歩き出すと分隊長はニヤリと笑い、小さな声で
「やっちまおう」とささやきました。
「おりしけ!」と彼は命令しました。
兵士たちはあわてて自分勝手に銃をかまえました。
命令の声、銃声、私も発射しました。
一人は棒を倒すように倒れました。
もう一人は片膝ついて倒れましたが、悲鳴をあげ、私たちの方を振り向きましたが、すぐにふせてしまいました。
ぱらぱらと兵士たちはかけて行きました。
一人はまだ手足をピクピク動かしています。
とどめが発射されました。
あとで聴くと四、五名は発射しないか、わざと的をはずしていました。
「俺にはあんなまねはできないよ。イヤだイヤだ」


私には鈴子がありました。
鈴子と私は愛しあっていました。
私が熱を出した時など、
もう奥さんにでもなったようすで
「おとなしく寝ていらっしゃい。
キッスしてあげるからね」
私は一緒に暮らすようになり、二人とも老人に至るまでのことを考えていました。
その時、突然、
私は自分の射殺した老人夫婦のことを想い出しました。
そして私が老夫だけを殺して、老妻を残しておいたことに気づきました。


「君にぜひとも話しておかなきゃならぬことことがある」と私は言いました。
「何なの?」
鈴子は寒そうにちぢめるた肩をよせかけて歩きました。
「僕が人を殺した話なんだ」
私は真面目な話であることを説明してから一気に喋りました。
彼女は途中で一度、
「イヤ、おやめになって」と頼みました。
私はかまわず終わりまで自分の感情の底をさらけだして話しました。


三日目に彼女の方から訪ねてきました。
両方ともに口がうまくきけませんでした。
彼女の声は疲れはてた人のようでした。
私は今や自分が裁かれたのだと悟りました。


一月ばかりして鈴子の父上が見えました。
君の苦しみはよくわかる。
鈴子との婚約を打ち切りたいなら打ち切ってもよい。
それで君は今後どうするつもりか、とたずねられました。
私は、中国にとどまるつもりだと答えました。
私は自分の犯罪の場所にとどまり、私の殺した老人の同胞の顔を見ながら暮らしたい。
こんなことをしたからとて、罪のつぐないになるとは考えていません。
しかし私はそうせずにはいられません。
鈴子の父親は微笑されました。
そして、
「君のような告白を私にした日本人は三人目だ」と言われました。
どんな愚かな、まずいやり方でも、ともかく自分を裁こう。
これを報告できる相手としてあなたを友人として持っていたことを無限に感謝します』



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