しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

初めてトルコ風呂に行く

2020年12月24日 | 初めてのこと
初めてトルコ風呂に行く


トルコ風呂は学生では入れなかった。
お金が高いので。

卒業して社会人になって、トルコ風呂に行った。
広島市の薬研堀はトルコ風呂街だった。
トルコ風呂が20~30店並んでいた。

お店に入ると料金を払い待合室へ行く。
待合室には男性が3~5名ほどいる。
同じ会社の人がいないことをまず確認する。
この部屋で待つ間というのが長く、かつまたぐっちょん(居心地)が非常に悪い。
目的が目的だから。

やっと自分の番になる。
女性が三つ指をついて「どうぞ」と言われて、二人いっしょに待合室を出る。

せまい通路を歩いて個室に入る。
個室は和室で、女性は脱いだ着物をドアの窓を隠すように吊る。
男性がイスに座ると洗う、マットでも泡で洗う。

「おスぺ」というのが人気があった。
人気があったが、料金も高かった。
13.000円くらいしていた。

給料の手取りが30.000円程度だったから、月に一度しかいけない。
でも、行ったことを職場でわいわい言い合い楽しめる時代だった。



 
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初めて銭湯に行く

2020年12月24日 | 初めてのこと
初めて銭湯に行く


四国の松山市の学生寮に入って2~3日目、「銭湯へ行こう」という話になった。
その時、「せんとう」という言葉を知らなかった。

なんだろう「せんとう」って?
話の様子から風呂屋のようだった。

寮生3~4人いっしょに、歩いて風呂屋に行った。
のれんをくぐると番台に料金を置く。

入浴料は24円だった。
その当時、松山市の路面電車の料金が25円だった。電車賃より1円安かった。

入ってからは、人がすることを見て真似をした。
服を脱ぐ。
浴室に入る。
身体に湯をかける。
浴槽に浸かる。
浴室から出ると、ラムネや牛乳を飲む人もいる。
服を着る。
帰る。
こうゆう感じだった。

松山市には銭湯が多かった。
2年生になって、ちょっと大きな銭湯にも行くようになった。
大きな銭湯は3~4円ほど料金が高かったが、浴槽は大きく、何かと設備もよかった。

3年生になるころは、道後温泉に行くようになった。
道後温泉は料金が40円した。
2階の広間でくつろぐ料金は200円だった。
そのランクよりも上の風呂に入ることもあった。
贅沢とはいえ、道後温泉の料金は安かった。

松山市は田舎町だったが、銭湯と温泉には恵まれたところだった。


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戦中・戦後の学校変遷(笠岡商業・笠岡女学校)

2020年12月24日 | 城見小・他校
戦中・戦後の学校変遷(笠岡商業・笠岡女学校)


明治以来、何度かの学生改革はあったが、戦後のGHQによる体系の変更は大きい。「複線型教育」から「単線型教育」の「6.3.3.4制」になった。
生活貧困・物資不足と混乱の時代に学校の制度は変わった。


笠岡商業学校と笠岡高等女学校の戦中・戦後をみる。



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下記より転記。

笠岡商業 「笠岡商業創立90周年記念誌」  平成3年発行
笠岡高等女学校 「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校・編集部  凸版印刷  昭和47年発行
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笠岡商業学校

昭和19年4月1日 工業学校に転換、校名を「笠岡工業」とする。
昭和20年3月28日 戦時特別措置として4年制度になる。
(終戦後)
昭和21年4月1日 商業学校と工業学校を併置。
昭和22年4月1日 学生改革により1年生の募集停止。
昭和23年4月1日 岡山県立笠岡第一高等学校と改称。商業・工業・普通の3科。定時制商業化も併設。
昭和24年9月1日 笠岡第二高等学校と合併して笠岡高校と改称。吸江校舎、千鳥校舎の二校舎とする。
昭和25年4月1日 商業・機械の2課程を置き、定時制商業化を併置する。男女共学になる。
昭和28年4月1日 吸江舎・千鳥校舎を分離独立して、岡山県立笠岡商工高等学校と改称。
昭和36年4月1日 工業課程を分離して岡山県立笠岡商業高等学校と改称する。




笠岡高等女学校

(終戦後)
昭和23年4月1日 学生改革により、笠岡第二高等学校として発足。
昭和24年3月16日 旧制高等女学校の最後の卒業式を行う。
    9月1日 笠岡第一高等学校と統合、笠岡高校千鳥校舎。組合立笠岡高等学校を併設(←定時制)
昭和28年4月1日 独立校となる、「岡山県立笠岡高等学校」。
昭和35年3月31日 併設の笠岡市立笠岡高等学校廃止。



笠岡女学校・和20年卒手記  (O子)

昭和19年6月、私たち4年生にも動員令が下った。
昭和20年の新年を迎えたころから、敵機の襲来の数が増した。
がんばっている私たちに、予想もしなかったショック的な知らせが報じられた。
それは4年生で学校の終了課程を終えるということだった。
仕事をしながらも、書物をひもとき、友だち同志で研究はしあっていたけれでも、
もう一度、千鳥ケ丘の教室で勉強したいと思った。
もう少し、女学生生活を明るく楽しいものにしたかったと願ったが、それは時世的にもゆるされなかった。
万寿工場の川べりの柳の芽がふくらみかけた昭和20年3月31日、
動員生徒の合同卒業式が、三菱重工業水島製作所の講堂で行われた。


(昭和20年3月31日 笠岡高等女学校の4年生と5年生が同時に卒業した)




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なお、本記事とは関係ないが

笠岡市は「成人式を」令和3年は新型コロナウイルスのため来年に延期して、
令和4年1月に2年ぶんの成人式を開催する。合同でなく、日にちは少しずらすそうだ。



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RiM-f(リム・ふくやま)

2020年12月24日 | 無くなったもの
場所・広島県福山市西町
無くなった日時・2020年8月30日(閉店)
撮影日・2018.10.27


閉店が恒例化しているような元そごう福山店。

そごう→天満屋ロッツ→リム・ふくやま→2021年から1Fのみ使用計画






豪華なエントランス。






建物の所有者は福山市で、市がにぎわいを計画しているが、いい案がでない。


駅に近いのだが、

「駅前」でなく「駅横」というイメージが強い。場所がいまいち感がある。



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西大島新田堤防の常夜灯

2020年12月24日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・笠岡市西大島新田
復元工事・2020年(高潮対策工事のため仮移転後同じ場所に復元)
撮影日・2012年頃(調査中)


西大島新田の潮止堤防の金崎橋側に常夜灯がある。

海を臨んで風光明媚で、印象深い常夜灯。








2019年から2020年にかけて高潮対策工事のため、いったん100mほど離れた場所に解体移動した。

2020年12月に常夜灯の復元工事は完了したが、
老朽か風化のため工事前とはずいぶん変わった感じがした。






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