しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

捕虜③向島捕虜収容所 

2020年12月11日 | 昭和16年~19年

(元・向島紡績 2012.4.28 尾道市向島町)

向島収容所​

ウイキペヂア

元々収容所として用いられた建物は、1918年帆布工場として建てられたもの。煉瓦造でノコギリ屋根が特徴的な建物であった。1923年頃大日本帝国海軍が借り上げた。

1942年11月、八幡仮俘虜収容所向島分所として開所。東南アジアで捕虜となったイギリス・アメリカ・カナダ兵が収容され、この地の北東にある日立造船向島工場で、船の清掃・荷役のほか溶接・鍛冶などに使役された。
この周辺では南の因島にも収容所が置かれ、同様に造船業に使役されている。以下向島収容所のことで判明している終戦までの概略を示す。
1942年11月、インドネシアからイギリス兵約100人収容
1944年9月、 フィリピンからアメリカ兵116人収容
1945年8月20日 、 アメリカ兵10人収容。この兵士たちは広島市への原子爆弾投下により間接被爆している(広島原爆で被爆したアメリカ人参照)。
9月12日、 解放。この時点での収容人数はアメリカ116人・イギリス77人・カナダ1人。

1945年7月27日には日立造船向島工場が空襲されることになるが、赤十字の印をつけていたことからこの周辺は全く被害はなかった。
同年終戦後、連合国側はその赤十字を目標にパラシュート付きの救援物資が入ったドラム缶をいくつも落とし、
そしておすそ分けの形で周辺の民家にも落としたことから、空襲で被害のなかった周辺の民家の屋根を壊したという。
アメリカ兵捕虜たちはこの救援物資を用いて手製の星条旗を作り掲げている。
終戦後日本国内における初の星条旗掲揚と言われている。同年9月13日この星条旗を掲げて尾道港まで行進し帰国した。

この間、死者は24人。内訳はイギリス23人・アメリカ1人で、この人物の名前がプレートに刻まれている。
死因は栄養失調によるものがほとんどで、うち15人は到着後2ヶ月以内に死亡していることから東南アジアからの不衛生な航海が死期を早めたと推定されている。
劣悪な環境であったが島民は彼らに親切に交流した記録がいくつも残る。
死亡した捕虜たちを弔い北側対岸である尾道の共同墓地に墓標が建てられていたが、1947年頃に掘り出され現在は横浜の英連邦戦死者墓地に埋葬されている。


プレート設置

戦後1948年から建物は向島紡績が用いた。
建物自体は広島県の近代化産業遺産に認定されていた。

1998年、向島を訪れた元イギリス人捕虜との交流をきっかけに旧向島町内で慰霊碑建立の機運が高まり、向島キリスト教会の牧師の音頭で寄付を集めていった。そして2002年、向島紡績工場外壁にイギリス兵のプレートが設置された。同年、アメリカ人捕虜にも死者がいたことが判明し、別にプレートを設置する考えも生まれることになる。

そこへ向島紡績は円高の影響により傾き2011年末に操業を停止し敷地を売却、
地元スーパーマーケットチェーンエブリイが買い取り建物を取り壊し商業施設が建てられることになった。
これにプレートの設置運動を行った市民団体が建物存続に向け動いたものの、膨大な耐震補強が掛かることに加え地元自治体からの補助金が見送られたこともあり存続を諦め、敷地の一角を無償提供されそこに移設することになった。
有志からの募金やエブリイからの寄付に加え、廃材となった煉瓦ブロック約2万5千個をガーデニング材として販売して移設資金を集めた。
2013年現在地に移設、同年隣にアメリカ兵プレートが設置された。


(元・向島紡績 2012.4.28 尾道市向島町)



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捕虜②「貝になった男」

2020年12月11日 | 昭和16年~19年
「貝になった男 直江津捕虜収容所事件」  上坂冬子著 文芸春秋1986年発行



昭和55年3月、直江津高校に一通の手紙がオーストラリアから届いた

「私は、1942年(昭和17)から1945年までの三年近くを直江津で過ごしました。
シンガポールとマレーから直江津に送られた三百人のオーストライア軍の中尉です。
直江津では宿舎としてステンレス工場をあてがわれました。

捕虜たちはステンレスとシンエツの工場で、鉄鋼を伸ばす仕事やカーバイドなどの生産にあたり、
また港に出て石炭や塩の荷降ろし作業に従事したりしました。

1944年から44年にかけての冬の寒さは特にきびしく、その時は収容所で沢山の死者が出ました。
遺骨はしばらく収容所に置かれた後、直江津のお寺に移され、最終的には横浜の墓地に埋葬されていると思います。
1944年にアメリカ軍とイギリス軍が私たちに合流しました。
直江津には1945年8月までいて、それから私は厚木飛行場を飛び立ってオーストラリアに帰還したのです。

収容所で死んだ60人のオーストラリア兵を偲ぶためと、直江津や近郊の多くの方々が捕虜にお寄せ下さったご親切へのお礼を含めて
船便で本を数冊お送りしました。
そろそろつく頃だと思います。」

氏への返信にたいしては、

私の手紙をきっかけとして、直江津の若い人たちに戦争中にここで何があったのかを知っていただきたかったのです。
60人の仲間の悲劇的な死を考えると、8人の戦犯の受けた罪は当然のことと思います。

彼等が捕虜に対して無慈悲極まる、人間として許されぬ行為は、徹底的に追及されるべきものと考えます。
もちろん、人道として基本を外さなかった人もいます。


収容所で働く人の話

700人分の食糧を集める。
精米
精麦
味噌
粉味噌
乾燥蕗
私ら死に物狂いで食糧を集めましたもの。
いく先々で捕虜なんかに食わせるものはない、と白い目を向けられて惨めな思いをしましたよ。


覚真寺の和尚

捕虜の遺骨は、付近の寺からことごとく断られた。
無理もない、アメリカ製の人形までがいじめの対象とされた時代である。
だが、覚真寺の和尚だけは、事もなげに捕虜の遺骨を引き受けた。
「死んだ者に敵も味方もありゃせん」



印画紙一枚の運不運

どのような経緯で戦犯として告訴になったのであろうか?

「手掛かりは写真です。戦後チズルス大尉が日本人関係者の顔写真を撮っていました」
警察から呼び出しを受けた人は、正面と真横の二枚ずつ写し撮られた。
捕虜たちは本国へ帰ったあとだった。
写真から戦犯を割り出したのであろうか?


直江津に着いた捕虜はシンガポール・チャンギー収容所から来た

検査を受けて健康な者だけが船に乗せられて、常夏のシンガポールから真冬の直江津に来た。

一挙に20人の肺炎患者が出た。
薬や看護は不十分だったが、一人も死亡者は出なかった。
捕虜たちに体力があった。

ところが二度目の冬は、300人の中50人が死亡した。
捕虜は二組に分けられ、
二交替で24時間業務に従事した。
信越化学では重い鉱石を背負い、急な坂づたいに溶鉱炉まで運ぶ仕事に従事した。
溶鉱炉のそばで働くのは20分が限界で、10分の休憩をおくことになっていたが、拷問代わりに1時間働かされる捕虜もいた。

収容所から工場まで、約1マイル(1609m)の距離を通勤するのに、駆け足で命ぜられた日も多い。
落伍したものは打ったり蹴ったり、なかには肛門に棒を入れられたりした。
倒れると失神するまで叩かれた。


チズルス大尉の陳述

私は1942年11月にシンガポールから直江津に着き、1944年8月まで捕虜側の代表をつとめた。

日本人軍属は、犬殺し棒をもっていた。
脚気の患者を殴り、やがて死亡した。
溶鉱炉の作業で暑さで失神した捕虜に、助け起こした捕虜を殴りつけた。

長靴事件
汲み取り便所が1943年ごろから溢れだした。
糞尿は裏の物干し場まで流れていた。
うじ虫が這いまわっている中を、便所に行く。
当時の捕虜の健康状態は、文化国家なら全員が入院させられていたであろう。
殆んどの捕虜が脚気にかかっていたし、虱がわいて悪性の皮膚病が流行していた。
風呂はごくたまに入れるが、捕虜たちの体は骸骨のようであった。
収容所に火の気はなく、重ね着をしたくとも衣類とてなく、
外は5フィートの雪が積もり、濡れて帰ると凍えて寝るしかなかった。
病気に対する抵抗力などあるはずがない。


治療をしてやると脚の上で火を焚いた
脚気患者が大量に出た夏に「我々の脚に火を焚いた」、
「それは違う。虐待ではなく、お灸という治療法だ」


蠅取り騒動
ある夜、ハエを一人につき二匹づつ取れと命じられた。
翌日の夜、一日の仕事で疲れ切った捕虜たちは戸外を走らされた。
スピードを落とすと、棒で背中をつつき、止まって腕立て伏せをしろと命じられた。



初期のころ

初期のころ日本各地の捕虜収容所は戦時下にしては穏やかな雰囲気だったようだ。
昭和17年11月8日 朝日新聞は
「米英俘虜戦う日本へ一役、米俵担ぐ青眼人夫」と、次のように伝えている。

香港、マレー、フィリピンをはじめ、南方各戦線で我が軍門に降った米英俘虜は、皇軍の道義に基づく厳然たる公明正大の取り扱いを受けて、
内地、朝鮮、台湾をはじめ各地の俘虜収容所に収容され、生産充実の方面に活用され、指揮下に規則正しく行われ能率をあげている。
帝都の玄関口東京湾に荷揚げされる物資は英国海軍が米俵を担いで運んでいく。
俘虜が来てから埠頭の荷役が円滑の度を増してきた。
イギリスやアメリカの奴らに負けてなるものかと、知らず識らずの間に能率があがっている。



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捕虜①偽りのメリークリスマス

2020年12月11日 | 昭和16年~19年
そもそも、「生きて虜囚の辱めを受けず」の玉砕を旨とする日本軍が、捕虜を正当に扱うことができたのだろうか?

それに、食うや食わずの日本及び日本軍が、捕虜に与える食料はどれほどのものだったのだろう?

兵や国民は、米英の捕虜を見て、人間でなく”鬼畜”であると思ったのだろうか?


・・・・・



「にっぽん俘虜収容所」 林えいだい著 明石書店 1991年発行


泰緬鉄道


キャンプに収容された日、日本軍の捕虜に対する乱暴な態度にオランダ兵たちは驚いた。
監視兵に文句を言ったり反抗すると、いきなり銃殺されることもあった。
捕虜たちは恐怖の日々を送った。

突然、移動命令が出て貨物船に積み込まれた。
少量の水と握り飯だけを与えられ、約百数十時間かけてシンガポールのチャンギキャンプへ収容された。

泰緬鉄道建設のため貨車でマレー半島を北上、タイ側の山岳地帯からビルマへ向かって工事を始めた。
栄養失調と伝染病、荒れ狂うモンスーンで捕虜たちが倒れると、クワイ河へ投げ捨てられた。
レール1本に1人の人柱といわれるほど、多くの犠牲者を出した。
”戦場に架ける橋”のようなヒューマンな物語ではなかったのである。



強制労働

日本国内の労働力が不足して、1942年7月、シンガポールやマニラから第一次として、
比較的健康な捕虜1万人を輸送することになった。



偽りのメリー・クリスマス



二瀬俘虜収容所
この写真は、キャンプの責任者の命令で、ある日本人が撮ったものである。
捕虜に対する日本人の「良い待遇」を宣伝するための偽装写真である。
撮影後、食べ物はすべて取り上げられてしまった。






生きていてよかった

日本軍は明らかに、収容する戦時捕虜の食糧の供給をはじめ、医療に関する計画を立てていなかった。
国際協定では、捕虜1人について1日1.800カロリーを与えねばならなかった。
捕虜あての救恤品(きゅうじゅつひん)は、アメリカを経由してソ連のウラジオストックに送られてきた。
国際赤十字では、日本の船で輸送していくれといってきたが、政府は船腹がないといって断った。
最終的には白山丸が受けとりに行き、一旦門司港まで運ぶと、あとは阿波丸が南方の俘虜収容所へ配った。
キニーネ、マイシン、総合ビタミン剤、軍服、靴などが送られてきたが、実際には捕虜たちには少量しか与えられなかった。
解放された捕虜たちは、骨と皮だけに痩せ衰えていた。
戦争の終結も知らずに彼らは死んでいったのである。



帰国

終戦翌々、輸送機が上空を旋回しながら、パラシュートで物資を投下した。
9月に入ると捕虜たちの帰国が始まった。
西日本地区では長崎から軍艦や輸送船で沖縄へ送り、そこからフィリピンのマニラへ輸送機で送られた。
マニラは栄養補給と社会復帰するための休暇で、そこで数週間過ごすと輸送船や輸送機で故国へ向かった。



進駐軍


GHQ戦犯調査委員会によって、全国的に戦犯調査が始まった。
横浜裁判では、俘虜収容所関係のケースが多い。
全ケース307件の中で、242件と捕虜虐待が占めるウエイトが高いのは、戦時捕虜の取り扱いに問題があったからである。


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