しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

毛野無羅山の植林と砂防ダム

2019年08月28日 | 大正
いったい山陽地方の山々は、どれだけはげ山だったのだろう?

「里庄町誌」 昭和46年発行より転記
xxxxxxxxxxxxxx

小川郷太郎教授の砂防論
新庄出身の京大小川教授は、明治39年ドイツへ留学、その後オーストリア・イタリア・フランス・ベルギーと各国を歴巡した。
ある日母校新庄小学校で講演した。
「私は子供の時から郷里の山や川を見て育った。
だから山ははげたもの、川は天井川ときめていた。
この度の留学で欧州各国の山や川を見ると山は黒々としており、川は底を流れているのであります。
はげ山の下の村では何年経っても、発展の見込みが無いという事をつくづくと感じました。
諸君!
この村の近き将来ないし永遠の将来を思って、あのはげ山を真っ黒な山にしてみようではありませんか。
わが庭に植える一本の松の木があったら、その木を山へ持って行って植えてください」と。
小川教授の話は村民に大なる感動を与えた。
大正初年、毛のむら山の砂防工事の設計がたち、県と農林省の荒廃地復旧事業となった。
山へは松とサンカイ(ハゲシバリ)をいっしょに植え、過リン酸を一株五寿ずつやったところよくきいた。
谷口には石堰堤を造ったので土砂流出の憂いがなくなった。
県知事も毛のむら山に登山した。
岡山県の砂防は全国的に有名で、視察に来ると里庄村を指ざされたので、全国や朝鮮からも視察に来た。
昭和3年、農林大臣から褒章を授与された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする