しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

横島(福山市内海町)のタンク・鞆の高射砲

2019年08月12日 | 市町村史
岡山の記憶 第9号・2007年より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

「鞆後山高射砲陣地」探査記
昭和17年ドーリットル機の空襲で、呉鎮守府は初の空襲警報を発令した。
当時、高射砲陣地とする鞆・後山からすく近郊の横島(福山市内海町)に岩国陸軍燃料廠貯油槽を設置していた。
タンクは航空燃施設では国内最大規模で11基(円型・直径30m、高さ10m)を誇った。
のち計画される高射砲陣地はこの要地防空が主任務だったのは明白である。
8月8日夜、四国、荘内半島で福山へ針路をとったB29、91機は洋上4.000mの高度を保持し、福山に焼夷弾を投下した。
福山空襲時に対空発砲が行われた事実はつかめなかった。
一方、B29飛行58連隊の航空日誌には、対空砲火のあった記録が残っているが、反撃された砲台位置の記録はなられなかった。

武装解除
高射砲陣地の高射砲・付属機器はGHQの命令で解体されたり爆破された。
室浜廠舎は外地引揚者が入居した。
解体放置された鉄材は、朝鮮戦争の金ヘンブームで小片まで持ち去られ姿を消した。
それから高射砲陣地跡は放置され、まったく忘れられてしまった。
高射砲台座へは阿伏兎自然遊歩道東口から山林にはいればよい。砲座跡は保護のため粘土と土で覆っている。
証言 能登原
この村落に住む人は高射砲陣地や海後山(監視所)は日常的に望見することができた。
発射訓練は昭和11年11月ごろから。
風船(気球)を揚げ、それに向けて発射する砲煙を見た。
国民学校児童は慰問にいった。
昭和20年になると暁部隊が学校に泊まり松根油作業をしていた。

岩国陸軍燃料廠横島出張所・陸軍燃料廠航空燃料貯油所
昭和15年燃料廠が発足。
同時に陸軍により航空燃料貯油建設を開始する。
今もタンク防護壁と桟橋が残り、付近山間部には機銃座も最近確認された。
朝鮮戦争時には米軍が接収した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする