陳舜臣「中国の歴史14」平凡社1983年発行 より転記
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1914年8月ヨーロッパで戦争が起こりました。
日本は日英同盟でドイツに宣戦布告して、ドイツの租借地である青島一帯を占領し、軍政を施行したのです。
世界の目がヨーロッパにむけられているのは、日本の対中侵略には絶好の機会でありました。
北京駐在の日本公使の日置益は「対支交渉案件解決上の絶好の機会なり」と東京に進言しています。
これにたいして、東京は過剰反応をしたようです。ぜんぶぶっこんで、二十一ヶ条の要求となりました。
旅順、大連を含む関東州租借地は1923年に返還しなければなりません。満鉄の安奉線他も、買い取り請求があれば応じななければならない期日が迫っていました。
日本はそれらの権益を永久に確保するために、99年延長することを要求しました。
要求の膨大さに、進言した日置公使も困り果て、その「減量」を東京に求めましたが大隈内閣の加藤外相はうけつけず、原案通りに中国に提出したのです。
袁政権も抵抗し、交渉を重ねる事25回、日本側は最後通牒をつけつきた。
その後、中国各地に澎湃(ほうはい)としておこった排日運動は、この21ヶ条の要求が呼びおこしたものです。
清朝倒壊の原因は、国民の広範な「利権回収」運動が、とくに鉄道敷設権に集中され騒乱がおこりました。
そのことを知れば、外国が新たな利権を要求すれば、中国人民がどれほど敏感に反応するかが理解できたはずです。
近代の日本で、これほど大きな外交の失敗はなかったといえるでしょう。