しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

北木島の生活④北木島海水浴場ほか

2019年02月06日 | 昭和31年~35年
北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。
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楠は石の地区、
石船の人もおった。

(北木島・楠 2018.10.25)

楠のフグ養殖
(問)楠の北側の海にパイルが並んでいるが、あれは何?
楠のフグ養殖。
初代の村長が始めた。
ワシも夏休みにアルバイトで餌を蒔きにいきょうた。
金網で柵をして、フグのほんまもんがいっぱいおったんよ。
チヌもおったが、フグの毒素で死んでしもうた。
3年か4年かで止めた。

小学校の遠足
笠岡でサーカスがある時出て来たことがある。
他には・・・・、
弁当持って本土へ渡ったゆう記憶はないなあ。

(笠岡へ行くことは?)
歯医者じゃなあ。
内科と眼科は島にあった、歯医者だけはなかった。

小学校も中学校も弁当を持っていってない。
昼になると家に走って帰って食びょうた。

(先生は?)
学校の中へ寮があった、そこへ泊まりょうた。
(地元の)島からの先生は代用教員じゃった。


高校への通学
6時半の船に乗ったら8時前に(笠岡港へ)着きょうた。
船で通ようたが、何人かは寄宿しようた。
大浦の人は、笠高の人も、商業の人も、淳和の人も、工業の人も船で通うた。
工業の人は瀬戸の渡しで降りょうた。
豊浦と金風呂は通学船がなかった。
豊浦や金風呂からの女性は千草寮におった。


北木島の海水浴場

下浦
昭和35~36年からはじまった。
それまではなかった。大浦が(砂が無くなり)止めてから始まった。

水の浦
交通の便が悪いから人はいかない。道が無い。

大浦
流しびなのところ。
砂がなくなって、するもんがおらんようになった。
それで下浦にかわった。

楠(海水浴兼キャンプ場)
キャンプ中の人に悪さをする地元の人がいた。
それで廃れた。
それに加えて松林の松が枯れた。
両側が海で綺麗なところじゃったが。
いっときは岡山会館が国民宿舎を造るようた。
今だに土地をもっとる。

北木島の経木流し・臨海学校
府中の奥の上下の人が200~300人で海水浴に来ょうた。
経木流しをしながら。
学校の臨海学校も来ょうた。(白石でなく)大浦で。
天野屋とか、しまず、たまや、いせや、みなとや、・・おおかた10軒あった。
木造三階建てが二棟ならんどった。
金風呂や大浦にはなかったんじゃ。


土葬・火葬

30~40前、大雨で土砂が崩れ、(墓から)土左衛門が出て来た。
それから火葬しょうやあゆうことになった。
昭和47.8年か50年頃まで土葬じゃった。
それまでは、結核で死んだ人が縦(島)で火葬しょうた。




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