場所・広島県福山市内海町横島 うつみ市民交流センター
曲がった橋、福山市の「内海大橋」。
橋は本土と、田島・横島の2島を繋いでいる。

網を使った捕鯨は紀州の太地で始まったが、「しばり網」の伝統漁法をもつ田島・横島・鞆の漁師は、
九州の鯨組から重宝されたようだ。
笠岡の漁師も江戸期に九州捕鯨への出稼ぎがあるか調べてみたが、記述は出てこなかった。
「えっと福山 ふくやま観光・魅力サイト」
内海町には、水軍時代から明治末期にかけて、約300年にわたり九州西海の捕鯨に参加した歴史があります。
それは、鯨を追う操船の技術やこの辺りで製作された鯨網の精度の高さと、独創的な技を買われてのことでした。
現在、商業捕鯨は禁止されていますが、かつてあったその歴史をいまに伝えるため、捕鯨網船「双海(そうがい)船(ぶね)」を復元しようとするプロジェクトがあります。
内海町田島出身で、現在はスタンフォード大学の客員教授を務める宮本住逸さんにお話を伺いました。
≪インタビュー企画≫
内海町田島出身、スタンフォード大学客員教授・宮本住逸さん

捕鯨文化が生んだ技術と組織産業の礎
日本人は鯨の肉を食べるだけでなく、油は灯明やウンカ駆除に、ヒゲは文楽人形を操るひもに、さらに骨や皮も有効利用し、余すことなく活用したということ。
そして戒名を付けて葬っていたという話に、スタンフォードの研究者が興味を持ったようでね。
鯨に対する敬意や感謝、愛情を感じます。
けど、捕鯨に対する日本と諸外国との認識には大きな溝がありそうですね。
民俗学で扱う信仰と、なによりも備後の生業の歴史の中に大切な要素があるということ。
そして日本の捕鯨文化の特殊性です。
日本には世界に例のない鯨に対する鯨霊供養という文化が根付いています。
日本の開国をプッシュしてくれたのが鯨なんです。
当時の日本沿岸には多くの鯨が回遊していました。
欧米は多い年では700隻以上の捕鯨船が日本沿岸の沖合で鯨を取っていたのです。
乱獲ですね。
幕末まで鎖国日本はその事実を知りませんでした。
日本の鯨組は、櫓漕ぎ船で網とモリを使って鯨を取っていた状態ですから、欧米の近代化された捕鯨船には追い付かない。
そんな中で九州鯨組からオファーを受けた備後田島・横島の「鯨網づくり」集団は頑張っていたのです。
その技は当時の九州各藩の鯨組に採用され、日本の古式捕鯨業に大きな足跡を残したということです。

内海町歴史民俗資料展示室に展示している「双海船」の縮小模型
日本の沿岸は鯨が多かったんです。
季節によって鯨の通るルートは違うんですが、旧暦でいう11月は日本海側を通ってアラスカ方面に向かう。
そして、向こうで出産し、対馬・五島を通って南下してくる。
それを追いかけまわすのではなく、待ちぶせして捕るんです。
日本は長らく鎖国していたため技術の発展が遅れ、当時は手漕ぎと帆で走るような船で漁をしていました。
最初は突き取り式で漁を行っていましたが、突き取りと網掛け式を組み合わせるように発展したんです。

鯨組
沖組といわれた役割におよそ400人を越える漁民が従事していました。
一艘の乗組員は約10人。
勢子船といって、キャッチャーボートの役割をするのが20艘くらいで、
捕った鯨を船に縛り付けて帰ってくる持双船が3艘、
網船(双海船・双海付船)が12~24艘、万一の際の代替船などを合わせると50艘ほどの船団を編成していました。
それらがすべて連携を取って、一頭の鯨を追尾するんです。
元水軍出身者の一糸乱れぬチームプレイですよ。
当時、日本最大であった平戸生月島の益富鯨組は2000人をゆうに越える規模の大組織でした。
これは世界初で最大のマニュファクチュアといわれています。
元禄期に益富鯨組が五島列島で87頭の鯨を捕獲しています。これはやや多い頭数です。捕れない年は0です。
呼子の中尾鯨組などは「田島納屋」を建ててまで優秀な網職人の確保に腐心します。
福山藩の脇港に指定されていた田島浦は北前船の出入りが許され、網製品の取引で活況を呈していたといわれています。
江戸期の絵図に描かれている軒を連ねる街並みが現在の姿と変わりない。
鯨は20メートルから30メートルに達する巨大なもの、網に掛かると必死で暴れますね、
1000メートル以上の長い網を三枚かぶっても、すさまじいパワーで逃げようとします。
切れた網は鯨の体からは決して離れません、鯨は息継ぎをしますから網が抵抗の役目をし、浮かび上がったところを仕留めるという具合ですね。
九州の海に合った網を作った、我々の先人の仕事ぶりに勇気と誇りを覚えます。
復元した双海船は1/10サイズの模型です。
それをここ歴史民俗資料展示室にある資料と共に常設展示しています、多くの市民に鯨漁の歴史を知ってもらえたらと思います。
少子化による人口減少問題が顕在化しています。
身近な故郷の歴史を通して、一人でも多くの子供の、「聞く耳を育てていく」お手伝いができればこの上ない幸せと考えています。
ふるさとの歴史はふるさとに学ぶことが必要なのではないでしょうか。

古式捕鯨300年の歴史
(田島・横島・鞆・常石)
備後田島の鯨網
1600~1900年の間の約300年間、北部九州各藩で盛んに鯨を捕っていた時代がありました。
田島横島は、しばり網の歴史が古く、鯛・いわし等の漁が盛んにおこなわれ、
田島鯛・田島イリコなどが、古い文献に記されています。
鯨網は、この「しばり網」を改良したものと考えられ、網の長さや、2艘の船で網を広げていく方法が鯨網に引き継がれており、
北部九州の鯨組資料の中にも「鯨網職人は、まず備後田島の者から雇う」と記されています。
福山藩第3代、水野勝貞は「藩主覚書」という法令の中で、
「・・・毎年、287人のものが平戸・五島・対馬などへ鯨取りに出かけている」と諫めている。

(阿伏兎観音)
撮影日・2020年9月14日
曲がった橋、福山市の「内海大橋」。
橋は本土と、田島・横島の2島を繋いでいる。

網を使った捕鯨は紀州の太地で始まったが、「しばり網」の伝統漁法をもつ田島・横島・鞆の漁師は、
九州の鯨組から重宝されたようだ。
笠岡の漁師も江戸期に九州捕鯨への出稼ぎがあるか調べてみたが、記述は出てこなかった。
「えっと福山 ふくやま観光・魅力サイト」
内海町には、水軍時代から明治末期にかけて、約300年にわたり九州西海の捕鯨に参加した歴史があります。
それは、鯨を追う操船の技術やこの辺りで製作された鯨網の精度の高さと、独創的な技を買われてのことでした。
現在、商業捕鯨は禁止されていますが、かつてあったその歴史をいまに伝えるため、捕鯨網船「双海(そうがい)船(ぶね)」を復元しようとするプロジェクトがあります。
内海町田島出身で、現在はスタンフォード大学の客員教授を務める宮本住逸さんにお話を伺いました。
≪インタビュー企画≫
内海町田島出身、スタンフォード大学客員教授・宮本住逸さん

捕鯨文化が生んだ技術と組織産業の礎
日本人は鯨の肉を食べるだけでなく、油は灯明やウンカ駆除に、ヒゲは文楽人形を操るひもに、さらに骨や皮も有効利用し、余すことなく活用したということ。
そして戒名を付けて葬っていたという話に、スタンフォードの研究者が興味を持ったようでね。
鯨に対する敬意や感謝、愛情を感じます。
けど、捕鯨に対する日本と諸外国との認識には大きな溝がありそうですね。
民俗学で扱う信仰と、なによりも備後の生業の歴史の中に大切な要素があるということ。
そして日本の捕鯨文化の特殊性です。
日本には世界に例のない鯨に対する鯨霊供養という文化が根付いています。
日本の開国をプッシュしてくれたのが鯨なんです。
当時の日本沿岸には多くの鯨が回遊していました。
欧米は多い年では700隻以上の捕鯨船が日本沿岸の沖合で鯨を取っていたのです。
乱獲ですね。
幕末まで鎖国日本はその事実を知りませんでした。
日本の鯨組は、櫓漕ぎ船で網とモリを使って鯨を取っていた状態ですから、欧米の近代化された捕鯨船には追い付かない。
そんな中で九州鯨組からオファーを受けた備後田島・横島の「鯨網づくり」集団は頑張っていたのです。
その技は当時の九州各藩の鯨組に採用され、日本の古式捕鯨業に大きな足跡を残したということです。

内海町歴史民俗資料展示室に展示している「双海船」の縮小模型
日本の沿岸は鯨が多かったんです。
季節によって鯨の通るルートは違うんですが、旧暦でいう11月は日本海側を通ってアラスカ方面に向かう。
そして、向こうで出産し、対馬・五島を通って南下してくる。
それを追いかけまわすのではなく、待ちぶせして捕るんです。
日本は長らく鎖国していたため技術の発展が遅れ、当時は手漕ぎと帆で走るような船で漁をしていました。
最初は突き取り式で漁を行っていましたが、突き取りと網掛け式を組み合わせるように発展したんです。

鯨組
沖組といわれた役割におよそ400人を越える漁民が従事していました。
一艘の乗組員は約10人。
勢子船といって、キャッチャーボートの役割をするのが20艘くらいで、
捕った鯨を船に縛り付けて帰ってくる持双船が3艘、
網船(双海船・双海付船)が12~24艘、万一の際の代替船などを合わせると50艘ほどの船団を編成していました。
それらがすべて連携を取って、一頭の鯨を追尾するんです。
元水軍出身者の一糸乱れぬチームプレイですよ。
当時、日本最大であった平戸生月島の益富鯨組は2000人をゆうに越える規模の大組織でした。
これは世界初で最大のマニュファクチュアといわれています。
元禄期に益富鯨組が五島列島で87頭の鯨を捕獲しています。これはやや多い頭数です。捕れない年は0です。
呼子の中尾鯨組などは「田島納屋」を建ててまで優秀な網職人の確保に腐心します。
福山藩の脇港に指定されていた田島浦は北前船の出入りが許され、網製品の取引で活況を呈していたといわれています。
江戸期の絵図に描かれている軒を連ねる街並みが現在の姿と変わりない。
鯨は20メートルから30メートルに達する巨大なもの、網に掛かると必死で暴れますね、
1000メートル以上の長い網を三枚かぶっても、すさまじいパワーで逃げようとします。
切れた網は鯨の体からは決して離れません、鯨は息継ぎをしますから網が抵抗の役目をし、浮かび上がったところを仕留めるという具合ですね。
九州の海に合った網を作った、我々の先人の仕事ぶりに勇気と誇りを覚えます。
復元した双海船は1/10サイズの模型です。
それをここ歴史民俗資料展示室にある資料と共に常設展示しています、多くの市民に鯨漁の歴史を知ってもらえたらと思います。
少子化による人口減少問題が顕在化しています。
身近な故郷の歴史を通して、一人でも多くの子供の、「聞く耳を育てていく」お手伝いができればこの上ない幸せと考えています。
ふるさとの歴史はふるさとに学ぶことが必要なのではないでしょうか。

古式捕鯨300年の歴史
(田島・横島・鞆・常石)
備後田島の鯨網
1600~1900年の間の約300年間、北部九州各藩で盛んに鯨を捕っていた時代がありました。
田島横島は、しばり網の歴史が古く、鯛・いわし等の漁が盛んにおこなわれ、
田島鯛・田島イリコなどが、古い文献に記されています。
鯨網は、この「しばり網」を改良したものと考えられ、網の長さや、2艘の船で網を広げていく方法が鯨網に引き継がれており、
北部九州の鯨組資料の中にも「鯨網職人は、まず備後田島の者から雇う」と記されています。
福山藩第3代、水野勝貞は「藩主覚書」という法令の中で、
「・・・毎年、287人のものが平戸・五島・対馬などへ鯨取りに出かけている」と諫めている。

(阿伏兎観音)
撮影日・2020年9月14日
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