小学校の一年生の時だったと思うが、
屋根の葺き替えをした。
近所の大人たちが来て、10人くらい、屋根に上って古い藁を取りはずした。
その時は家の中から、青い空が見えた。
すぐに、その個所に新しい藁を差し込んだ。
大人たちの顔は古い藁の煤やほこりがついて、墨を服や手や顔だけでなく
鼻の穴や、耳の穴まで塗ったように黒くなっていた。
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(父の話)2003・5・18
小麦藁を屋根にしとった。小麦でなきゃあつかえなんだ。細いし大けい。
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家では、ご飯(麦飯)ように裸麦が多く、小麦はあまり作ってなかった。
小麦粉やお菓子やパンやうどんとトリカエで使用する程度だった。
従って小麦の藁は大事にして、屋根裏に保管していた。
言ってみれば、麦藁のために小麦を作り、食用は副産物的だったのかもしれない。
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「矢掛町史・民俗編」 矢掛町 昭和55年発行
屋根の葺替
田植え時や稲狩り頃には少なかった。
屋根替には人手がいる。
内輪だけでは手が足りない。
わらを切るもの、
わらを背負って屋根に上がるものなどで近所の人をテゴに頼む。
テゴに来る人は縄一束を持ってきたし、何も持っていかないところもある。
屋根葺きにはまずミチとかバと言って、足場をこしらえる。
屋根をはがしてノベウラといって、底へ入れるわらは、いったん使った分を再利用するものであったが、悪い分はノシへ入れた。
軒端(けんば)から葺き始め、一ホコ子麦藁を並べると、真竹でしめ、
二ホコ、三ホコと葺いて上がる。
小麦藁葺きの屋根は十四、五年の耐久力がある。
十五年ほど経つと雨漏りのするところが出てくるのでサシワラをする。
一ホコみな抜き出して、たがいちがいに入れる。
こうしておくと、このあと十年ぐらいはもつ。
よって一生に二、三回、葺き替えればよいことになる。
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「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行
天井
奥の土間には、ふつう(天井がなく)屋根裏が見通せる。
クドから出た煙が屋根裏を回り、破風から出る。
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「昭和の消えた仕事図鑑」 澤宮優 原書房 2016年発行
屋根葺き
葦であれば40年以上持つが、高価なため庶民は安い藁を多く用いた。
藁は3年ほどで腐ってしまうので、定期的に葺き替えを行う必要があった。
屋根葺きのときは「結」といって、村人が共同で作業を行うのがふつうであった。
技術を習得して、その地域に居住する屋根葺き職人が出てきた。
屋根ばさみ、屋根叩き、鉈、ノコギリ、鏝を使って軒先から藁を積む。
一層積む毎に竹で縛る。
この手順で5層積むと、次に上段へ同じように積んでいく。
この時、鏝で叩いて、形をしっかりと固定する。
昭和20年代になると、屋根瓦の家が増え、瓦葺職人が登場した。
西洋風住宅が増えてくると、屋根葺きだけでなく、外壁工事も手掛けるようになった。
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「新修倉敷市史8」
かつて倉敷の農村では、麦藁葺き屋根や葦(よし)葺き屋根などの草葺き屋根が主流を占めていた。
冬は温暖で収穫期に降雨も少ないことから、二毛作として麦作りが盛んであった。
一般の農家では自家製麦で賄われた。
葦は連島のすだれ屋に頼んで購入する場合もあった。
葦の方が耐用年数は長いが費用がかさんだ。
屋根の上をトタン張りにしたり、新築の家が瓦葺きにされていった。
昔は倉敷周辺にも草葺き屋根職人が30人ほどいた。
普通家屋で5~7人、大きい家では8~10人ついた。
農村は「モヤイ」として近隣の手助けが行われた。
今日では、草葺き屋根はすっかり減少してしまい、その下でいろりの火が燃やされることもなくなって、傷み方は早くなっている。
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