場所・滋賀県長浜市北船町 JR長浜駅前
製造・1981年(昭和56年)
有名な、ぬるい茶→ふつうの茶→あつめの茶のお話。
(現地案内板)
秀吉公と石田三成公 出逢いの像
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。
汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。
秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。
そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。
秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。
この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。
三成公は、ここから五キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官名にちなんだ治部という小字が残っています。
また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。
「日本史探訪12」角川書店編 角川文庫 昭和58年発行
石田三成
石田三成はある寺の童子也。
秀吉一日放鷹に出て喉乾く。
其寺に至りて、誰かある、茶を点じて来れと所望せり。
石田大なる茶碗に7、8分ぬるくたてて持まいる。
今一服とあれば、又たててこれを捧ぐ。前よりは少し熱くして茶碗半ばに足らず。
又試に一服とある時、
石田此度は小茶椀に少し許なるほど熱くたてて出る。
秀吉、これを飲み、其気のはたらきを感じ、住持にこひ、近侍に使うに才あり、
次第に取り立てて奉行職を授けられぬ。
「武将感謝状」
五大老・五奉行
(北条誠)
普通、五奉行というと、五大老の下に付くように考えられていますが、
あれは今流に考えれば、
五大老というのは諮問機関で、
五奉行といのは執行機関だったと、私は思うんです。
そうすると、筆頭奉行の石田三成というのは、非常に高い地位と権力があったといえます。
撮影日・2011年8月6日
製造・1981年(昭和56年)
有名な、ぬるい茶→ふつうの茶→あつめの茶のお話。
(現地案内板)
秀吉公と石田三成公 出逢いの像
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。
汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。
秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。
そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。
秀吉公は、茶の入れ方ひとつにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。
この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。
三成公は、ここから五キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官名にちなんだ治部という小字が残っています。
また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。
「日本史探訪12」角川書店編 角川文庫 昭和58年発行
石田三成
石田三成はある寺の童子也。
秀吉一日放鷹に出て喉乾く。
其寺に至りて、誰かある、茶を点じて来れと所望せり。
石田大なる茶碗に7、8分ぬるくたてて持まいる。
今一服とあれば、又たててこれを捧ぐ。前よりは少し熱くして茶碗半ばに足らず。
又試に一服とある時、
石田此度は小茶椀に少し許なるほど熱くたてて出る。
秀吉、これを飲み、其気のはたらきを感じ、住持にこひ、近侍に使うに才あり、
次第に取り立てて奉行職を授けられぬ。
「武将感謝状」
五大老・五奉行
(北条誠)
普通、五奉行というと、五大老の下に付くように考えられていますが、
あれは今流に考えれば、
五大老というのは諮問機関で、
五奉行といのは執行機関だったと、私は思うんです。
そうすると、筆頭奉行の石田三成というのは、非常に高い地位と権力があったといえます。
撮影日・2011年8月6日
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