しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「南洋航路」(ラバウル小唄)

2021年08月11日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
〽さらばラバウルよ又来るまでは、で有名な「ラバウル小唄」。
この歌は替え歌で、元歌は「南洋航路」。

実際は”さらば南洋”と、島々から帰ることはできず、
軍人・民間人とも玉砕したり、棄民となって倒れていった。





「忘れられた島々」  井上亮 平凡社 2015年発行

日本は太平洋戦争に敗れるまでの約30年間、
現在ミクロネシアと呼ばれる、この「南洋諸島」を事実上の領土として支配した。
”楽園”といわれた島々は戦争で玉砕・集団自決の悲劇の舞台となった。


赤い夕陽が波間に沈む
涯は何処か水平線よ
今日も遥々南洋航路
男船乗り鷗鳥

波の響きで 眠れぬ夜は
語り明かそよ 甲板(デッキ)の夜風
星が瞬く あの星見れば
くわえ煙草が 目に泌みる

流石男と あの娘(こ)が言うた
燃ゆる生命を マストにまかせ
揺れる心に 憧れ遙か
明日は赤道 椰子の島



昭和15年「南洋航路」が発売された。
1521年スペインの探検隊が”発見”し、イギリスを含め発見した島々に勝手に命名していった。
19世紀末よりドイツ時代が始まる。
1914年、日本海軍が2週間で無血占領した。

1914年8月4日イギリスはドイツに宣戦布告した。
青島のドイツ艦隊がイギリスの租借地を攻撃するのを恐れた駐日イギリス大使は、
加藤高明外相にドイツ艦隊の捜索と破壊を申し入れた。
日本側は参戦要請と受け取り、対ドイツ戦を決意する。
日本の積極姿勢に疑念を抱いたイギリスは8月10日申し入れを取り消した。
しかし加藤外相は要請をはねつける。
日本の戦闘区域を制限する提案も拒否。
ヨーロッパの混乱を奇貨として領土への野心を秘めた「押しかけ参戦」ともいえよう。

日本の南洋諸島占領に欧米各国は警戒感を強める。
オーストラリア、ニュージーランドは安全保障上目睫の問題となる。
オランダは、インドネシアに野心があると疑った。
アメリカも激しく反発した。

「委任統治制度」
常に国際連盟の監視下にある。
日本は戦勝5大国として、国連の常任理事国となった。
委任統治の受任国は、当時大変なステータス。ほかにはイギリスとフランスだけだった。
日清、日露につづき「戦争は国益」という成功体験が積み重なった。
日本はのちに国連を脱退したあとも、年報を送る続けた

「冒険ダン吉」
昭和8年講談社の「少年倶楽部」に連載が始まり「のらくろ」と人気を二分していた。
「島の王さまになったダン吉は、島のため、蛮公のために、なにかいいことをしてやろうと考えていました。
蛮公たちもかなり利口になってきましたが、それでもまだ学問がないので、知識が文明国の子供にも及びません」




島民教育
軍政を担う海軍が力をいれたのは教育だった。
日本語教育が進められ日本への帰順と同化を徹底しようという方策である。

「国策移民」により人口は増大
南洋諸島全体の邦人人口は占領当初200人、昭和5年に約2万人、昭和10年5万人を超えて島民人口と逆転、昭和18年には10万人弱と島民の倍近くまでふくれあがった。

南洋群島にはチャモロ人、カナカ人という先住民がいた。
チャモロ人はスペイン人と混血したといわれる。
カナカ人は現在カロリン人と呼ばれており先住者だ。人口ではチャモロ人が圧倒的に多く、カナカ人を蔑視していた。
島民の子供たちは、小学校段階で日本人より「下等」であることをいやがうえにも学ばされた。




「北の満鉄、南の南興」
南洋群島はこれといった資源もなく、大地も豊かな場所ではなかった。
台湾の製糖業松江春治が台湾から転進し「南洋興発」を設立した。
松江は沖縄県から大量に移民を採用する計画を立てる。
南興は製糖事業の成功により、鉄道、船舶、製氷、漁業、缶詰、などへ進出する。
飢餓地獄の沖縄に比べると南洋群島は楽園=パラダイスだった。
 


あまたなる 命の失せし崖の下 海深くして 青く澄みたり
           2005年6月28日  平成天皇




「お国ために美しく死ぬ」
日本の南洋群島統治30年の行きついた先は、あまりにも無残だった。
乳飲み子を抱いて飛び込んだ母親、家族ともども自決した人々。
「美しい死」が目的化した。

南洋群島での玉砕・集団自決には、徹底した軍国教育、捕虜を許さない軍のおしえ、敵は残忍という宣伝、自立した判断を否定した付和雷同の空気、沖縄県民のナショナリズムなど、様々な要因が考えられる。
昭和17年12月から邦人引揚が始まった。
民間人の安全のためでなく、戦時の食糧確保、要するに口減らしが目的で、戦闘の役にたたない者は足手まといの邪魔者であった。
引揚は数が少なかった。制空・制海権をアメリカに握られた状況で海を渡るのはリスクが高すぎた。
一方で16歳以上60歳未満の男子は引揚から除外された。
戦闘要員として島と運命をともにするよう命じられた。

サイパン戦直前陸軍の輸送船が到着するが、途中攻撃された重傷者、武器は海中に沈んだ「はだか部隊」で戦う前に雑軍の様相を呈していた。
お粗末だったのは島の防備体制。
無防備であることを敵に知られるのを恐れ、各所に模擬砲台、模擬機関砲陣地、模擬高射砲陣地が造られる始末だった。

昭和19年6月、重傷者約2.000人が命令により自決した。
大本営はサイパン放棄を決定した、「帝国はサイパン島を放棄することとなりし、
来月上旬にはサイパン守備隊は玉砕すべし」
2万余の民間人の安否を気遣う記述はいっさいない。

サイパン戦は7月7日、生き残った陸海軍約3.000人の絶望的なバンザイ突撃で組織的戦闘が終結した。
前日海軍の南雲司令官が発した玉砕命令文には、「生きて虜囚の辱めを受けず」
「身をもって太平洋の防波堤たらん、敵を求め進発す、我に続け」
司令官の言葉は絶大である。この命令文は兵士だけでなく、日本人すべてに発せられたと受けとめられた。そもそも非戦闘員は最初から保護されるべき対象であえい、国際法もそう定めてある。
それを無視して老人や女性、幼児にいたるまで死を強要している。

南洋群島の戦いは被害の実態を見れば沖縄戦である。
沖縄県人は沖縄戦を含めて二度「防波堤」としての戦いで犠牲になった。

赤誠隊
赤誠隊は全国の刑務所から選抜された囚人。
南洋での海軍航空基地建設を担った。
勤労奉仕隊
朝鮮人労働者が政策的に大量動員された。
農業移民、鉱物など資源の増産として送り込まれ、「日本の軍人・軍属」として徴発された。日本軍と運命を共にせず”捕虜”の大半は朝鮮人軍属だった。

いまはとて 島果ての 崖踏みけりし をみなの足裏(あうら)思えばかなし
                2005年6月28日  平成皇后




「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

内外航路の途絶

日本は遠方の航路から順次に放棄することになった。
まずラバウル・クェゼリン・ニューギニア航路が空襲激化とともに放棄され、
護衛艦節約のためパラオ航路は内地直航から台湾またはサイパン経由に変更された。
昭和19年トラック・サイパン・パラオと連絡が途切れた。
マニラも潜水艦のため途絶し、石油はシンガポールに送られ
上海は揚子江に機雷が敷設された。
昭和19年7月タイ、仏印からの外米輸入が閉鎖された。
南洋航路は石油船団だけにしぼられたが、昭和20年2月南方からの石油輸入は途絶えた。
3月にはシンガポールとの連絡も途絶えた。

ついに、食糧輸送と兵器輸送が競合し始めた。
本土決戦のため、在満兵力内地帰還により、大量の軍事米が必要となり、端境期までもちこたえる見通しがたたなくなった。
昭和20年4月の沖縄戦以降、ついに軍需品の輸送はほとんど中止され、
船舶は華北・満州・朝鮮からの穀類と塩の輸送に集中された。
6月華北航路は途絶した。
内地航路も安全でなく、5月から日満支航路と九州炭の関西輸送が困難になった。
7月青函連絡船が全滅した。
戦時経済は、船舶不足によって崩壊していた。





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