しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平越県合併事件

2015年06月19日 | 昭和36年~40年
昭和35年(1960年)当時、笠岡市の人口(73.000人)は福山市の人口(85.000人)とほぼ拮抗していた。
翌昭和36年、福山市に日本鋼管の進出が決まり、昭和37年より水野組(五洋建設)による大規模な埋立工事が始まった。

茂平の西隣野々浜は、山陽本線以南は一面が水田と塩田跡地であったが、大型道路が出来て、市街地化へと変化し始めた。
それに伴い土地価格も上昇し、急に生じた資産価値の格差への羨望もあり、福山市への合併により地域の変貌を期待する住民の声が高まった。

昭和38年、茂平銅山と西ノ谷地区民を中心に福山市への合併協議会ができた。
協議会は茂平に縁故関係がある福山市区選出の中川弘県会議員を訪問し、協力と今後の運動展開を相談した。中川県議は同氏支援の福山市会議員数人を紹介し、市議が窓口になり合併運動に協力することとなった。

茂平の越県合併運動は新聞やテレビでも取り上げられた。

昭和38年7月20日、岡山県議会では「広島県側に近い茂平地区は福山へ合併アンケートをとり、近日とりまとめるという。これは、岡山県政がへき地の者を軽視して・・・」という質疑があった。(この項伊藤大孝著・人生不屈より)

昭和39年4月の笠岡市長選挙では現職・新人の2人が立候補し、新人候補は茂平地区の越県合併に賛同する事を表明した。(新人候補は落選した)

合併運動は同じく県境の用之江に広がり、福山市へ「合併請願書」が出された。

昭和39年9月に三木行治岡山県知事が急逝した。
三木知事は水島の発展に尽力してきたが、他方(県南以外の地)からは不満も生じ、茂平の越県合併事件の遠因にもなっていた。
突然の県知事選挙に用之江出身の自民党加藤武徳参議院議員が立候補した。選挙は社会党候補と争い加藤氏が当選した。

新岡山県知事は早々に地元入りし、地元での「越県合併騒動」を憂慮し運動を止めるよう懇願した。“武徳さん”の岡山県知事就任を祝う合併協議会員は、頭を下げる知事の意を汲み、以後運動を中止する事にした。
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2 コメント

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Unknown (野々浜小学区に住んでいます)
2019-02-17 03:51:36
地元のすぐ近くの話で非常に興味深いです。それに僅か50年ほど昔の話。続報を期待しています。
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Unknown (管理人)
2019-02-23 09:29:52
投稿ありがとうございます。
越県合併事件は当時、新聞テレビでも報道されましたが、遠い過去になってしまいました。
誰かが書き残さないと、あった事がなかった事になってしまうと、ひとりよがりの義務感でページにしました。
今後もし、資料等を発見できましたら続編を書き残したいのですが・・・・、
難しいような気がします。
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