しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

犬養木堂①木堂と笠岡

2021年05月14日 | 昭和元年~10年
犬養木堂は明治の初め、小田県庁に勤務し笠岡に住んでいた縁と、衆議院選挙が1区2区制のときは笠岡も木堂の選挙区内だった。





「犬養毅 党派に殉ぜず、国家に殉ず」 小林惟司 ミネルヴァ書房 2009年発行

若き日々

犬養毅は安政2年(1855)備中国賀陽軍庭瀬村川入に大庄屋犬飼家の二男として生まれた。
維新前後に犬飼家は没落し、姓は犬養となった。
明治5年、17歳になった犬養は小田県庁で地券局の書記に勤めることにした。
この当時の犬養は、県庁の小使や給仕に対して極めて親切で、菓子などを買ってやったり、
とにかく目下の者には親切であった。
これは犬養の晩年になっても変わらぬ特徴であった。

小田県では西洋書の論議が流行っていた。
明治7年小田県庁を辞め、西洋書の英語原書を読むためには、どうしても東京に出なければならない。
上京した、明治8年21歳のとき。


東京では、「郵便放知新聞」に原稿を書き、慶応義塾に入った。
明治10年、西南戦争の特派員で「戦地直報」で文名をあげる。

慶応義塾を退学し、東海経済新報で経済学者になる。
東京府会議員になる。
朝野新聞社の幹部になる。
衆議院議員で初陣を飾る。

明治23年(1890)、
36歳になった犬養は、この年7月実施された第一回総選挙に
郷里岡山県第3区、改進党から立候補。
当選、それ以降連続19回の当選を果たした。





(小田県庁門 2021.3.31)



犬養木堂(小田県時代)

明治5年2月、政府は全国に地券の発行を公布したが、小田県は同年9月地券局を設置し、9人の官員を任命した。
この時、若干の筆生を募集したが、犬養毅も応募して採用された。
木堂はどのような条件で小田県庁に奉職したのであろうか。

休暇願によると一か月契約のパートであったことが判明する。

明治45年に記した自叙伝によれば、
学費をつくるためであったが、予想に反して月給わずかに6円であった。
食費と雑貨をまかなうのがやっとであった。

しかし、その間に「書を読み、文を綴り、独学のできる」限りを全力でしたという。

県庁所在地の笠岡に居住したため、新しい洋学を習得する機会に恵まれた。
大きな影響を与えたのは坂田丈平(警軒)と多田省一であった。
「漢学」を棄てて、洋学という「新学問」を修めることをつよく決意した。
慶応義塾の福沢諭吉から洋学を学ぶ決意をするにいたった。
笠岡は彼の新しい思想形成・学問構築の出発点になった。

「おかやま人物風土記」 岡山県広報協会  平成14年発行








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