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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

捷平さん、爆弾かかえて戦車に飛び込む「特攻兵」となる

2021年08月20日 | 昭和20年(終戦まで)
満州の吉林市に住んでいたおば(父の妹)の話では、
「戦争が始まった」とは昭和20年8月9日のことを指す。

その日までは、満州帝国は平穏な・・・日本人限定だが・・・”王道楽土”的な日々であったようだが、突然に、
戦争とロシア兵が大波のように押し寄せ、「平穏」から「生命の危機」の日々に一変していった。

捷平さんは、そうゆう満州帝国と大日本帝国の命運が尽きる直前に、兵にとられ、
一夜漬けの訓練で、あっという間に戦車体当たり”特攻兵”となった。







「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行

「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。
午後1時令状受領、午後6時入隊というあわただしさ。
一人でヤケ酒を飲み、気を大きくし
即日帰郷になるであろうことを予想して出かける。
深夜某小学校の教室に宿泊。
翌朝、身体検査なし、朝食ぬきで街頭での穴堀り作業。

「おい、そこの眼鏡のおっさん、しゃんしゃんやらんかいな」と私は引率役の上等兵に叱りつけられた。
「ああ、だが上等兵、僕は持病に神経痛があるから、腰がうずいて仕様がないんだよ」
「こくな、上等兵とは何だ?上等兵殿と言え。ここは軍隊だぞ」
「ハ。それはどうもすみません。・・・それでは上等兵殿、そのここには軍医はおらんのかネ。自分は一度診察して貰いたいと思うんだが・・・」
「バカ。そんなゼイタクなものが、おるか。神経痛ぐらい、今度、戦争が始まれば、いっぺんにすっ飛ぶ」
上等兵はスッパ、スッパ、煙草の煙を吹かすだけなのである。
なんの為に、こんな穴をほるのかとほかの新兵がきけば、敵の戦車がおし寄せて来た時、この穴の中にエンコさせて見せるのだと言うのである。

だが、穴掘りが上がらないうちに、命令がきて、私たちは再び小学校によび戻された。
学校の玄関では、古参兵が数人、せかせかと出刃包丁を木銃にくくりつけているのが見えた。
これが翌日になって、新兵唯一の武器として、私たち老兵に配給せられたのである。

間もなく講堂で部隊長の訓示が行われた。
部隊長というから、どんな、堂々、たる男かと待っていると、檀に上がったのは,まだ碌に毛も生えていないような18,19の見習い士官だった。

この見習い士官が、
「事態はまことに急迫しとるのである。
今夜、本首都に於いて戦闘が開始せられる。
お前たちは大日本帝国の軍人として、一命を陛下のために捧げられたい。
生きて囚虜となりて異郷に恥をさらすではない」
と言ったような司令官の命をつたえて、すぐに実地訓練が始まったのである。
その実地訓練は、-----どこからか古参兵が持ってきた乳母車に、フットボールを投げるという簡単なもので、学校の屋根で遊んでいる雀などには、
いい年をしたおっさんが幼稚園の生徒の真似をしているように見えたかも知れない。
が、本当のところは敵の戦車にバクダンを抱えて飛び込む練習であったのである。
いいかえるならば、私ども老兵は、入隊早々,着のみ着のまま、戦車飛込肉弾隊に編入されていたのである。


このように、「私」は日本の軍部が身体検査もせずに入隊させる横暴さを繰り返し語って、執拗に不満と反抗を試みる。
敵国であったソ連の女士官でさえ、「私」の貧弱な体躯を見ただけで放免するという人道的な扱いをした。
今夜の戦闘で老兵を肉弾として使おうという魂胆から、身体検査を省いただのと決めつけ、その間ぶりを非難する。
それにしても、侵攻してくる戦車を穴の中に頓挫させようという馬鹿げた作戦。
出刃包丁を木銃にくくりつけ、これを新兵に配るという稚拙きわまる戦争準備。
さらには拾ってきた乳母車を敵の戦車に想定し、爆弾に擬したフットボールをかかえて飛び込むという幼稚な戦闘訓練。
作戦といい、武器といい、訓練といい、一瞬のうちに壊滅する様子を克明に描いている。
ちなみに6年後に発表された「大陸の細道」でも、
威厳や品位を欠く日本の軍隊幹部の言動や、稚拙で滑稽な戦闘準備、戦闘訓練などを克明に描き、戦争への怒りと国家権力への反骨ぶりを示している。




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