しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」象潟や雨に西施がねぶの花   (秋田県象潟)

2024年08月27日 | 旅と文学(奥の細道)

----ひそみにならう----


      「小説十八史略」  陳舜臣 毎日新聞  昭和52年発行

絶世の美女。その名を西施という。
夫差はどんなに美人でも、道理のわからぬ愚昧な女はきらいであった。
たおやかな賢女。
それが夫差の理想の女性である。
彼は西施に夢中になった。
夫差は出征のときも、陣中に西施を伴っていた。
片時も離さなかったのである。
西施は眉をひそめると、一そう美しくみえた。
眉のあたりに、ひきしまったポイントがつくられ、それが新しい魅力を生む。
呉王の宮殿では、宮女たちが西施を真似て、悲しくもなんともないのに、
眉をひそめるポーズをつくるのが、流行ったという。
「ひそみにならう」という諺がある。
自分にアウカドウカ、まるで考えないで、他人の真似をすること、
つまり猿真似のことをいう。


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中国五千年の歴史でも、「呉」と「越」の故事は今も日本に伝わって残る。
「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」、夫差や伍子胥や范蠡や勾践。
岡山県では児島高徳の、「天勾践を空しゅうすること莫れ時に范蠡無きにしも非ず」も有名。
なかでも絶世の美女と言われた西施の話は小説や絵画で「傾国の美女」ぶりが伝わっている。

 


象潟には、是非とも合歓の花が咲いているときに、訪れたかった。
国道沿いに多くの咲いた合歓が見えたが、蚶満寺に着くと盛りを過ぎていた。
でも、
境内の「西施」と「合歓の花」を同時に見ることはかろうじて実現できた。

 

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旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島・蚶満寺    
旅の日・2022年7月11日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

象潟や雨に西施がねぶの花

六月十六日の昼、芭蕉は象潟のほとり塩越村に到着し、十七日は滞在、 十八日酒田に帰着した。
この句は、象潟の印象を、折から雨中に咲いていた合歓の花に託して詠んだもの。
季語は「ねぶの花」で夏五月。 
象潟の風景を眺めると、雨に煙って朦朧としており、その中から美人西施が目を閉じて悩んでいる面影が浮かんで来るような感じがするが、
それは雨に濡れそぼった合歓の花が、美人西施の憂いに沈んだ様子そっくりの感じだったからで、
雨中の合歓の花は、よく象潟を象徴しているように思われる、の意。

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行 


六月十六日のおひるごろ、芭蕉は雨中を歩いてきて汐越についた。
その日は象潟橋まで行って、雨中の暮景を見た。

翌朝は、まだ小雨が降っていたが、道々入江のけしきをながめながら、干満寺へ行った。
ここの方丈にに通されて、彼は九十九島・八十八潟の景と称されたけしきにながめ入った。

太平洋岸では松島、日本海岸では象潟の景をたずねることが、芭蕉の旅の目的といってよかった。
「松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」と紀行に書いているが、
どうも象潟はかれに女性の面影を連想させたらしい。
杭州の西湖の景を、蘇東坡が西施にくらべて詩を作ったことがあり、 
芭蕉も、ここではそれにならっているのである。

西湖には私も先年遊び、湖上に舟を浮かべ、また、靄にけぶる蘇堤を歩いた。
水の浅い湖で、なるほど女性的な感じといえばいえる。 
象潟も、文化年間の地震で地底が盛りあがって水が干上がり、
島を残してあとは田圃になってしまったくらいだから、そこにある類似は成立しただろう。

西施は「呉越軍談」の美女である。
いくさに負けた越王が、国中第一の美女として呉王に献じた。
なにか心に病んで、面をひそめたさまが美しかったので、
国中の女たちがあらそってこれにならい「西施の顰」という故事が生まれた。
それを少しばかりひねって、芭蕉は「西施の眠り」とした。
半眼の美女の憂い顔に、うらむような象潟の雨中のけしきをたとえたのである。
雨中に葉を閉じた湖畔の合歓の花が、かれの目にはいったらしい。
「西施の眠り」を合歓の花にかけた。
最初 は「象潟の雨や西施が合歓の花」と作った。

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


象潟や雨に西施がねぶの花

この句に誘われて象潟まで行く人が多くなった。 
象潟は南北三・三キロ、東西二・ニキ口にわたる入江で、芭蕉が旅したころは九十九島、八十八潟があったが、
その後百十五年めの文化元年(一八〇四)の大地震で隆起して、入江は陸地になってしまった。
いまは小島の周辺がタンボとなっている。

芭蕉が象潟へ行ったときは雨が降っていた。
雨に濡れてさく合歓の花は、悲運の美女西施(西湖を美人西施にたとえた)が、物うげに目を閉じている姿を思わせる。
西施が「眠る」と「ねぶ」が掛け言葉になっている。
地の文に「松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」と出てくる。
「象潟の雨」「西施が眠っている姿」「雨に濡れている合歓の花」の三つが一句の中に、し っとりと混じり、
寂しさに悲しみを加えた象潟の情景が示される。

 

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文化の大地震と蚶満寺

(Wikipedia)

象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、
かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だったが、文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で干潟に変わった。
陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、
二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。

象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、
覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、
文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。
覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。


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