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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

お城の石垣

2022年06月06日 | 江戸~明治

 


石材と大坂城

秀吉は、天下統一のため天正11年に、海陸交通の便利な大坂の地に居城を築こうと考えて大坂城の築城に着手した。
秀吉は、まず西国30余国の大名に命じて、大きな石を運搬させようとしたので、
日夜3万の人夫が使役されたと伝えられる。

「大坂城誌」には、「普請の石材は御影・加茂・小豆島より殊に数多く取り寄せた」とある。
天守閣や大手門の大石は小豆郡土庄町小瀬より採掘し、運んだものである。
この採掘にあたり加藤清正・片桐且元・黒田孝高らが砕石奉行として来島した。
大筏を組み、これを載せて大坂に運んだ。
これらの石材を採ったあとの残石は、現在でも海岸近くの山中や、海辺に累々と横たわっていて、当時の壮観をしのぶことができる。


当時、採石を運搬するには、大木のロクロをすえ、そのうえに採石をのせ、海岸に引きだしたという。

 

(岡山市・石山公園)

 

採石を大坂表へ運搬する仕事には、小豆島・塩飽島などの水夫が従事したことが記録にある。
船に積みあげられぬ巨石は、竹の筏にしばり、樽受けとしたり、あるいは二艘の舟を横木につらねて、その中間から水中につりさげて運んだという話がのこっている。

 

「香川県の歴史」  市原・山本共著  山川出版社  昭和46年発行

 

・・・・・

 

 

城の歴史

安土桃山時代から江戸初期にわたる数十年間が城つくりの最盛期で、大小3.000の城がつくられた。
しかし、元和一国一城令が出され、約140に整理された。
江戸時代に戦の場となったのは原城、会津若松城および五稜郭だけである。
明治6年、いわゆる廃城令で約1/3が取り壊された。
残された城の多くは軍用施設として使用されていたため、太平洋戦争のさなかに空襲により焼失した。

 

石垣の石材

曲輪(郭)造成の際に掘削した岩盤を石材として利用した。姫路城、盛岡城、竹田(岡)城。
遠方からも運ばれてきた。大坂城では小豆島石(花崗岩)が船で運ばれてきたことは有名で、小豆島などには石が残されていて大坂城残石記念公園となっている。
寛永年間に再築された大坂城は、伏見城の廃石や六甲、小豆島、前島(牛窓沖)北木島から船で運ばれた花崗岩である。
近くに花崗岩のない江戸城は大部分伊豆半島に産する安山岩である。
船の場合は遠方からも運ばれたが、陸上での運搬の場合は、大部分が10キロ以内の距離から運ばれた。

岡山城、福山城、岩国城の石垣は花崗岩である。
高松城には庵治石が使われた。
丸亀城は本島石で築いた。

(福山城は笠岡諸島の白石島などから運ばれた)

 


石積


多層の天守閣を支える基礎の石垣は大きな荷重に耐えなければならない。
そのため石材の質と、積み方が問題になる。

 

(切込ハギ、布積、の江戸城天守台)


空襲で焼失した名古屋城の復旧の際には、石垣がその荷重に耐えられないので、ケーソンを埋め込んで支持基盤にした。
安土桃山時代までは野面積が主で、慶長年間には打込みハギ、江戸時代に入ってからは切込みハギが多くなった。
しかしこれは一般的な流れで、一つの城でもすべて同じ石積とは限らない。
石垣はまず胴木を並べ、そのうえに根石を置き、その上に石を積み重ねる。
外側は各種の石積となっているが、内側は割栗石で裏込めされ、さらに内側に土砂が詰められ、土となじませている。

 

「日本の石文化」  島津光夫  新人物往来社  2007年発行

 

 

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金毘羅大権現は金刀比羅宮になった

2022年06月06日 | 江戸~明治

(金刀比羅宮=旧称・金毘羅大権現)

 

「香川県の歴史」  市原・山本共著  山川出版社  昭和46年発行

明治元年、新政府は神仏混淆を禁止した。
以後、廃仏毀釈の運動が全国におこるようになった。

仲多度郡琴平の金毘羅大権現は金比羅宮と改められ、
別当寺の金光院松尾寺の、その末寺とともに廃寺となった。
金光院住職の名を改め社務職となり、社地を管理した。
そして祭神を大物主神とし、すべての境内の仏式を廃し、
神社として再出発した。

 

白峯寺も危うく廃寺となるところであった。

 

(白峯寺)

 


神道もさかんになり、教派神道では天理教・金光教・黒住教・大社教などがさかえた。
外国公使の強い抗議があり、明治6年政府は信教の自由を認めた。

 

 

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矢掛町の古墳散歩④番外編・茶臼山城本丸の石垣遺構

2022年02月10日 | 江戸~明治
場所・岡山県小田郡矢掛町矢掛・東三成
名称・茶臼山城跡「茶臼山文化の丘」
訪問日・2022年2月9日


これより矢掛・茶臼山城へ登城する。小田川の流れと矢掛市街地を見ながら登る。






春は桜の名所、茶臼山城跡。

今日は茶臼山城の石垣遺構を見に来た。春になって若葉が出る前に来ようと思っていた。




・・・・・

茶臼山城跡

天正12年(1584)毛利元清は標高96mの茶臼山へ移城した。
そして慶長5年(1600)関ケ原のの戦に西軍が敗れ、毛利氏が萩へ西帰するまで16年間在城した城跡である。
その間には九州征伐や征韓の役で三度の往復の途次、
豊臣秀吉が再三立ち寄った史実がある。
更に築城史的にも中世の山城から近世の平城に移る過渡期の枡形を持った平山城の典型的な形式を遺し周囲に濠を廻らし、
本丸、太鼓丸、二の丸、三の丸、小丸と幾段にも曲輪や櫓を設け、
山陽道の要衝をおさえる見事な城構えを今に遺す貴重な史跡なので、
矢掛町合併30周年を記念して「茶臼山文化の丘」として整備したものである。

(現地説明板)

・・・・・・



茶臼山城本丸の石垣↑。

もう少し石垣に近寄れるのだが、枯れ枝に服が引っかかったり、枯葉に滑ってひっくり返るのもイヤだからここまでにする。




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「童謡」と「唱歌」

2022年01月18日 | 江戸~明治
「童謡の百年」  井手口彰典  筑摩書房  2018年発行

童謡と唱歌

童謡と唱歌は同じものだろうか?
違うとすれば、どう違うのか?
どちらにしても、それがどうした

今の日常生活には何の関係もないことだ・・・といったところが自分を含む大多数のように思う。








2018年は「童謡誕生百年」だと言われている。
大正7年鈴木三重吉が児童向け雑誌「赤い鳥」を創刊し、そこを舞台に多くの童謡が生み出されました。
鈴木は、わざわざ「童謡」という言葉に、新しい意味を込める実践を始めた。
その背景には、子供たちに提供されていた歌、すなわち唱歌に対する鈴木の強い反発意識がありました。
 

明治政府と唱歌

明治5年近代的な学校制度である「学制」を発布します。
この学制の中に「唱歌」があり、今の「音楽」に近いものでしょう。
この科目に子供たちにうたわせる歌曲の総称としても「唱歌」の語は使われるようになりました。
明治17年までに『小学唱歌』三編を発表します。
これら3冊のなかには、今でもうたわれる「仰げば尊し」「アニーローリー」「蝶々」「庭の千草」「蛍の光」など含まれています。
多くが外国の旋律を借用したものです。

明治44年から大正3年にかけて文部省が刊行した『尋常小学唱歌』(全6冊)は、歌詞も旋律もすべて日本人によって作られた唱歌集でした。
政府の主導によって作られた唱歌集の他に、
民間で作られたものもありした。
たとえば「故郷の空」を含む『明治唱歌』、「お正月」を含む『幼稚園唱歌』、
「箱根八里」や「荒城の月」を含む『中学唱歌』などが編纂されました。

そこには重要な特徴があり「ヨナ抜き長音階」を使ったものが多い、
当時の文部省は日本の音楽と西洋の音楽を「折衷」するものとして利用しました。

第二の特徴として日本の成員たるにふさわしい国民を育てるための格好のツールとして導入された。


「わが日の本」や「皇御国(すめらみくに)」などストレートな部類や、

ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉にとまれ
なのはにあいたら 桜にとまれ
さくらの花の さかゆる御代に
とまれよあそべ あそべよとまれ

この歌詞からは、御代、つまり天皇の治世のもとでこそ、
蝶たち(=国民)も楽しく遊べている、そんなメッセージを読み取ることができそうです。


童謡は先行する唱歌との「対決のなかから生み出された」ものであり、
『赤い鳥』に多くの童謡を提供した北原白秋も、しばしば激しい口調で非難しました。

興味深いのは、当の唱歌関係者もある程度認め受け入れている、という点です。
今日では「故郷」「紅葉」などの作詞者として知られている高野辰之は1929年、
「凡そ学校の教科書ほど自由を拘束されるものはない。
唱歌にしても、文字文体よりはじめて、終身歴史地理理科等の他のあらゆる学科と阻隔させてはならぬのである。
自由と解放と希ふ詩人が、どうしてこれに満足しよう」

童謡は、従来の教訓的で子供の心に沿わない唱歌を批判的に乗り越えようとするなかから生まれてきた音楽でしたが、
唱歌と童謡を繋いだり、また双方の創作に携わった者もいた。
たとえば、童謡「夕日」で知られる葛原しげるは唱歌集にも関わってきます。
童謡「春よこい」「靴が鳴る」の弘田竜太郎は、唱歌「鯉のぼり」の作曲者の可能性が指摘されています。
さらに音楽面においても決定的に異なっていたわけでありませんでした。

鈴木三重吉は1919年東京丸の内の帝国劇場で「赤い鳥音楽祭」というイベントを開催し、プログラムに童謡を加えた。
「かなりや」や「あわて床屋」などを歌った。
1920年「かなりや」を含む数曲をリリースした。
そこで歌唱を担当したのは少女唱歌会で、大人の歌手ではなかった。

1925年(大正14)年JOAKのラジオ放送が始まった。
初期から子供の声によって歌われた。

昭和になりレコード会社が増え、ラジオが普及した。
童謡は市井に響き、一部の限られた人から、一般大衆が日常的に聴いて楽しむものへと変質していきました。
唱歌と童謡の境界がぼやけ、区別されないようになっていった。


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ひいひい祖母さんの機織り

2022年01月17日 | 江戸~明治

ひいひい祖母さんは弘化3年(1844)に生まれ、昭和18年(1943)に死んだ。
今風ならば岡山県知事か厚労大臣からの長寿表彰や全国紙の新聞記事になるくらいの長寿だったが、戦時中のことでもあり、塵のように去っていったようだ。



ひいひい祖母さん=母の話ではいつもの時間に起きてこないので見に行くと亡くなっていたそうだ。
ボケもなく、病気もない、完全なる(?)老衰死。)


父の話では、家に長く機織り機があり、ひい祖母さんや、ひいひい祖母さんが使っていたそうだ。

・・・

(母の話)
機織り
賀山(実家のこと)にゃあ、もう棄ててないかもしれんが
ええ機織があった。ぎったんぎったん踏んで反物ができる。
それで縞の着物ができょうた。
糸は買ようた。
着物から織ったそれで学校に着ていきょうた。
談・2004.9.5



・・・・


機織り
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

ハタオリ(機織り)

女の仕事で、家族の着物から、布団、蚊帳、手拭にいたるまで全部織り出した。各戸に機があって、冬の農閑期には賑やかな機の音が聞こえていた。
女は明けても暮れても、糸引きと機織りで、機が織れねば嫁にもらい手が無いとまでいわれた。
明治中期ごろから腰かけて織る高機(たかばた)になった。



・・・・

糸つむぎ・ハタ織り (神島村史)


衣類は自給自足で、ほとんど女性が手がけた。
明治時代までは女は綿を畑で作り、それをつむいで家中の者の着る物、フトン、カヤ、前掛、手拭、穀類を入れる袋まで自分で織ったのである。
家の者に四季着せたものを傷んだら解いて洗い直し、繕いをしてよれ替えて縫い直し、着れなくなるまで着た。
少しでも無駄な布は無く、古くなって使えなくなったらぞうきんや、草履あみに組み入れた。
野良仕事、寒気の機織り、夏期の真田編み、縫い物、育児洗濯、台所仕事、養蚕と、女は働き通しであった。


・・・・


「女子衆が織った木綿で家族みんなの着物をこしらえるのが、
戦前まで当たり前の時代でした。
木綿は、
まず着物で着て、
次に野良着、
その後赤ちゃんのおむつ、雑巾になって
最後は壁に塗り込んで終わり、
と最後まで使いきる。」

「井原の歴史 第3号」  


・・・・

「金光町史」

機織り

明治期までは家庭で機織りをしていた。
農閑期の冬は、外の仕事が出来ない時期で機織りをした。
着物から布団、蚊帳、手ぬぐいまで、
衣類はすべて手織りであった。
明治以前の地機(じばた)から、腰掛て織る髙機(たかはた)になる。
さらにそれにシャクリという装置を取り付けると、
上から下がった紐を引っ張るだけで、緯糸(よこいと・ぬきいと)を入れた杼(ひ、さいともいう)が左右に自動的に動いていくシャクリ機になった。
高機では2~3日で一反、シャクリ機では1日一反織ったという。
機織りの上手な娘は良縁が得られるといった。



・・・


「暮らしの世相史」 加藤秀俊 中公新書 2002年発行

機織りと裁縫

農家で木綿をみずから栽培し、それを織って衣料品を作る、というのはついこのあいだまでごくあたりまえのことであった。
明治末期の村では、一家の主婦のしごとのなかでは機織り、裁縫というのがおおきな比重をしめていて、彼女たちは毎晩のように機を織り、針仕事をして家族成員すべての衣料品を用意することが期待されていたし、
婦人たちもそれを当然の作業としてみずからに課していたのである。
かつての農村では老若男女をとわずハダカに近い恰好をしていたようである。
機織りの音と裁縫する主婦のすがたは明治の文明開化によってもたらされた「ゆたかな社会」の象徴であったのかもしれない。
みずから機織りをしたり、あるいは綿布を購入して着物を縫ったりするようになったのはせいぜいここ百年ほどのあたらしい現象だったのだ。

「味噌や醤油、豆腐や漬物などの一切を自給し、家族全員の外出着や仕事着を夜なべに織る。
蚕の屑繭から袖や羽二重の背広布地を織り、綿を紡いでは縞の着物やモンペを作る。
母は愚痴一つこぼさずやってのけた。
その織物は7人兄弟の上から下に着継がれても破れないほどの厚地であった」


針仕事は、かつての日本の婦人にとっての最低必要な技能のひとつでもあったのだ。
裁縫の腕は娘たちの競争の領域であり、また結婚にあたっての資格でもあった。
嫁入り道具のなかには、かならず「針箱」があったし、「絎台(くけだい)」もすべての家庭の常備品だった。
技能さえしっかりしていれば、女性にとっての数少ない「内職」のひとつでもあった。
主婦の仕事のなかに、つくろいというのがあった。
穴のあいた靴下にツギをあてたり、ほつれをなおす作業があった。

 

・・・

 

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国を守る ~ お台場~

2022年01月15日 | 江戸~明治
第二次大戦末期に日本国内では、あわてて本土防衛の備えをしようとしたが、
当然ながら役に立つ物は何一つできなかった。
半年で国土防衛施設を造ろうとした幕末の「お台場」も、事情がなにかとよく似ている。




「武器が語る日本史」  兵頭二十八  徳間書店 2019年発行

江戸湾の品川沖「台場」築造は、無駄な努力だったのだろうか。

嘉永6年6月、ペリー艦隊が江戸湾を去った直後、幕府老中の阿部正弘は、緊急に日本国として採るべき軍事外交の策について、広く国内から意見を求めた。
上は大名から下は庶民まで、八百余通の意見書が幕府に寄せられた。
中でも、旗本小普請組の勝麟太郎による上申は抜きんでて具体的・現実的だった。

勝は、必要な中期の軍制改革とともに、江戸湾に築造されるべき台場の位置と規模を列記した。
いずれも、埋立工事の必要はない。現に陸地であるところを速やかに要塞化するという、費用と時間の面で現実的な提言である。

問題は、当座与えられた時間はわずか1年未満しかなかったことだ。
蒸気エンジンも西洋型軍艦も、そこに配乗すべきクルーも,基盤ゼロの現況から半年かそこらで整うわけがない。

ちなみにペリー艦隊の備砲は(すべて前装式)、最大射程距離が3.000m~3.500mあり、それを意識して敵性海岸からは2km沖まで近寄った。

それに対して、当時、関東沿岸に配されていた和製大砲の射程は400m~800m。
いちばん先進的だった佐賀藩の大砲でも1.400mにとどまっていたという。
江戸湾の奥は水深が6mもないために、艦砲が届く距離まで進入することは実は不可能であった。
しかし再来航の米軍艦が新型火砲を搭載していない保証も、どこにもなかった。
それに岸から2km程度に黒船が近寄れる水深の海浜は、江戸湾にはいくらでもあった。
そのどこかに陸戦隊が上陸してしまえば、近代地上兵力の前に、幕府軍はなすすべはないと見込まれた。

昼夜連続の突貫工事の結果、嘉永6年中に第一・二・三・五・六台場が竣工した。
ペリー艦隊は年明け早々、陣容を増強して江戸湾に再結集した。
その無言の圧力の下、日米和親条約は嘉永7年3月に締結された。
幕府が75万両も投じたという「お台場」は、このように、米国艦隊の意志を、いささかも怯ませられずに終わった。



大砲の鋳造

反射炉から取り出せる鉄の量は多くない。
半年間フル操業したとしても、江戸湾防備の面目を一新するような大砲の量産は困難であったろう。
砲身内の中グリ切削仕上げが不可欠だが、その工作機械がなかった。
「着発榴弾」、敵艦の船体を直撃した瞬間に爆発する砲弾の発射は、もう最初から諦めるしかなかった。
江川担庵の信管は尖鋭型の砲弾でなく球形の砲丸で、陸戦以外は役に立たない。

佐久間象山が製作した大砲は、砲身が破裂した。
高島秋帆が輸入した洋式砲は、いちばんよく飛んだのが2.000mという。



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浅口市指定史跡「青佐山台場跡」


(浅口市青佐山台場跡 2021.4.1)


嘉永6年(1853)のペリー来航以来、
外国船が日本近海に出没するようになると、幕府の対外政策が強化された。
攘夷論が盛んになると鴨方藩は、文久3年(1863)10月に青佐山台場と長浜台場の築造を始め、浅口郡沿岸の警備の任に当たった。
同年10月に鴨方藩主がこの台場の実地検分に訪れ、寄島(三郎島)へ向けて試射を行った。
砲弾は寄島まで届かなかったという逸話が伝わっている。

この台場は、水島灘を一望できる海に向けて張り出した場所に築造され、構造は半円形。
高さ約2mの防壁土塁が周りを囲んでおり、東方向に二つの砲門を備え、北側には通路が附属する。
このことから、青佐山台場は岡山池田藩の異国船に対する海上防衛のため築造した砲台跡である。
土塁や砲門の構造をよく残しており、幕末の岡山本藩と支藩連携の海防政策について物語る貴重な史跡である。

浅口市教育委員会
浅口市文化財保護委員会



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国指定史跡「境お台場跡」


(境港市・境お台場跡 2011.8.30)

ふつう、土塁を築いてその上に大砲を据えた砲台を「お台場」と呼んでいる。
黒船の来襲に備えて、幕末期に各藩の重要な港の入口に築かれた海防上の軍事施設であった。
ここ境お台場は、文久3年(1863)に構築されたものである。
その当時の海岸線に、広さ約1.45ヘクタールの地を土塁で囲い、土塁の上に18斤砲2門、六斤砲1門、五寸砲5門を据えていた。
同じ年に築かれた鳥取藩8ヶ所の台場のなかでも一番規模が大きくかつ厳重に装備された台場であった。

弓浜地方の村人を総動員して半年ほどで完成させ、また農兵隊が組織され守備に当っていた。
境お台場跡は、今も遺構をよく残しており、台場公園として市民に広く親しまれている。

昭和62年3月25日  
境港市指定史跡 境港市教育委員会

追記・ 
この史跡は、昭和63年7月27日「境台場跡」として、国の史跡に指定された。



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追記・
大戦末期
父が、渥美半島の砂浜に基礎工事を無視した高射砲工事に赴いたことや
おじが、野呂山に丸太の(ダミーの)高射砲を据えていたことと比べると、
幕末の方が、まだ少しまともだったような思いがする。


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2022.2.26-2  食べる物(農産物・さかな)

2022年01月02日 | 江戸~明治



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小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行

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トマト
明治時代に栽培されるようになり、
サラダで食べるようになったのは、戦後のことです。

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ナス

一年草。
初夏から秋まで実がつきますが、若い果実を収穫します。
日本では奈良時代に最初の記録があります。
「奈須比」と呼ばれ、煮物や漬物に人気のある野菜でした。

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キュウリ
昔のキュウリは味が苦く人気はありませんでした。
生で食べるようになったのは、戦後に品種改良されてからです。
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オクラ
日本には明治に入りましたが食べる人は少なかったようです。
ふつうに食べられるようになったのは、近年のことです。
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茂平の磯で食べれるもの
2022年01月02日 | 江戸~明治
海で捕るもの

あさりとつぶくれぃじゃ。

ところてんは拾いにいきょうた。
毎年できるゆうもんじゃあ、無かった。

藻の先にできる。
まちごうて他のを採ったりする。

たべるものがないのでそれでも食びょうた。

作者の小学時代、何回か採取してつくってたべて。もちろん、子供だけで、すべて(採る、作る、食べる)

2000・12・24

たいらげ
三角形のような。ねべぃ所におった。
砂のあるところにゃぁおらん。

つぶ

つぶはなんぼうでもどこでも。石があるとこ。


こおまい蟹がおった。そりょを獲ってたいてたびょうた。
ちいとの時はたかん。なんぼかようけい獲った時にじゃ。
親指くれいじゃ。おいしかった。

漁師が「こりょを獲ってたべりゃあうめんど」ゆうてようた。
こまいんで、獲るのが(ある程度の数まで)たいぎじゃった。

(母の話)いしもち蟹をたびょうた。


2001年10月7日
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芋飴
2022年01月02日 | 江戸~明治

母の話)
芋あめは売りにきょうた。

たくみさんのとこで。戦後神戸から帰ってきて。
おばさんは「テンプラはどうですか?」いうて売りにきょうた。

おじさんは自転車でトウフを売りにきょうた。
トウフは朝作って、それから芋飴をつくりょうた。

子供のいーさんは1番じゃった。中学を卒業する時に引揚げて神戸にいんだ。


金浦からは小麦を買いにきょうた。小麦を出せば、ちいとばあ「せんべい」をくれてんじゃ。
大事にしておやつにして食びょうた。

そのころはポン菓子が来ればようしょうた。


(父の話)
さつま芋で。芋を買うて作りょうたんじゃけい、高いもんにつく。

狭い家に住んどったが、なんでもやりょうた。

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2002年10月14日
ひしおを作る
2022年01月02日 | 江戸~明治

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岡山ふだんの食事
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行

昭和40年代にはいると、米は過剰となる。
昭和45年頃から、麦飯や雑穀食、サツマ芋食はしなくなっていった。
昭和46年から、稲作転換が行われた。麦類の栽培はやめた。


海の魚
刺し身、塩干物
一般に刺し身を食べるようになったのは明治時代からである。
それまでは生ものを食べる習慣はなかった。
江戸時代以前は、魚は塩干物であった。
明治以降も塩干物が主体である。
生魚(鮮魚)は無塩(ぶえん)といって、尊ぶ風があった。
無塩は,日もちがよくないので、遠方まで運ぶことができなかった。
塩物や干物は、焼いたり、焦がしたりしたが、
味付けする時には、塩物は水につけて塩抜きし、干物は水でもどした。

県南の海の魚
瀬戸内海に近い村々でも、普段には、塩サバとか塩イワシなどを月に1~2回買う程度であった。


カツギ(担ぎ)
結婚式とか建前には、例えば笠岡市西浜(ようすな)の漁村で買い求めてのカツギ(担ぎ、担ぎ人)は魚籠を一荷にして、オーコ(天秤棒)で担ぎ、何人かのカツギがリレーで駆けて交代で吉備高原まで運んだ。
カツギは、運んだ距離によって賃金をもらった。
昭和10年頃までのことである。

サワラ
5月初め魚島でよく捕れる。
寄島町安倉などの漁港に荷揚げして、何人かのカツギがリレー式に魚籠を担いで、県中部(吉備高原)の村々に春のサワラを売った。
刺し身、煮つけ、塩焼き、なます、あら煮、吸い物、茶漬け、味噌漬けにする。
寒ザワラは、脂がのっておいしい。

ブリ
出世魚で祝い品、贈答品として使われる。
正月における本来の年玉である。


江戸時代末期に国民的飲料になった。
畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。
春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。


岡山の食風俗
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

米飯
米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。
一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。

米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。

糧飯
少量の米飯とか麦飯の中に、多くの野菜とか山菜とかをいれて塩とか醤油で味付けして食べる。
大根飯、菜飯、栗飯、蜂の子飯、稗飯、粟飯、黍飯、芋飯、豆飯、鮒飯、・・・・。

子供の間食

冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、
春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フームーサー、野苺、イタドリ、竹の実・・。
夏には、桑の実、野苺、オオカワイチゴ、ホンボロイチゴ、ビワ・・・。
秋には、トウガキ、ザクロ、アサダレ、ヤマブドウ、ナツメ、ニッケー・・。
冬には、アラレ。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

雑炊
ゾウスイ、ゾウシイという。オジヤは現代風で上品な呼び名である。
羽釜に2~3合の米と水を一杯いれ、野菜を沢山いれる。
団子や餅をいれれば団子雑炊という。大根が多ければ大根雑炊・・・・。


白粥
水文の多少によって三分粥、七分粥などの区別があり。
梅干しとかコーコとかがあう。

小豆粥、ササゲ粥、ブンドウ粥、芋粥、栗粥、黍粥がある。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

薩摩芋
サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。
笠岡市には芋博物館があった。


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

食用油
昭和20年代までは、庶民は1~2合、油を買ってきて、
ごく少しずつ大事に使ったものである。
ナスビとかタマネギに一滴か二滴落として食べたものである。



庶民は橙酢、柚、梅酢などを用いた。

砂糖
江戸時代末期になってサトウキビが作られ、砂糖の製造が始まった。
大正時代までは黒砂糖、昭和になって白砂糖をも買うようになった。
紋日のほかはほとんど用いなかったものである。

大根
秋大根、夏大根、時無し大根などあって、年中生大根を食べることができるが、
大量に利用するのは秋大根である。
冬季期間食べる分は畑に残しておき、必要に応じて抜いてくる。
輪切りにして醤油か味噌で炊いた大根煮や味噌汁にいれる。
保存用としては干し大根、沢庵漬など大量に行う。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

捩干し
畑から抜いてきた小さい屑大根を窄るまで稲架または柿の木などに架けておく。
ネジボシとなる。
からからになるまで干す。

大根切干し
主として屑の大根を奇麗に洗って包丁で縦に二つか四つ割にして厚さ一分くらいに横に小さく切って蓆の上で干す。
糸に通して干すこともある。
乾燥した切干は保存しておいて煮つけにしたり雑魚と一緒に煮る。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

提灯切り
生大根を俎板の上で、ぐるぐる回しながら包丁で切れ目を入れていく。(笠岡市吉田)
熊山町では大根の両方に棒をあて、これを斜めに切り、再び裏返して斜めに切る。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


カブラ、カブともいう。
主として冷涼な地方で栽培されている。

茄子
ナスともいうが、ナスビと呼ぶことが多い。
平安時代すでに栽培されていた。

胡瓜
キュウリ、
日本には10世紀に伝わった。

唐辛
トウガラシ、
日本には桃山時代に伝わった。
辛くない唐辛はピーマンという、第二次大戦後広く食用とされるようになった。

カボチャ
南瓜とも唐茄子、サツマ、ボウブラともよばれている。
日本には16世紀に渡来した。
一般には味噌か醤油で煮て、おかずにして食べる。

トマト
明治に渡来し、昭和期になってから急速に普及した。

干瓢
夕顔の果実を細長く切って干したもの。
カビが生じやすいので保存する前に硫黄で蒸したりする。

蓮根
蓮根はハスの地下茎で、古く大陸から渡来した。
池、沼などに植えられ、水田の端で作ることもある。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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果物


日本に原生していただろうといわれている。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


日本の中部以南に原生した日本梨、すなわちヤマナシが明治30年代に改良された長十郎や二十世紀が作られている。
岡山県では桃や葡萄とともに作られている。

ミカン

種種は多い。
庭木の菜園に一本とか二本、または畑の隅に一本とか植えておいて自給する。

イチジク
笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。

枇杷
日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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漬物
庶民にとっては極めて重要なおかずであった。
「糠味噌くさい」というが、家伝ともいうべき漬物の味があり、匂いがあっても主婦の腕のみせどころであった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

沢庵漬
笠岡市吉田では秋、畑から抜き取った大根を木にかけて干し、しなびた大根を樽に漬けるのであるが、樽の底に大根をぎっしりつめて並べ,糠と塩をまぜたものをふりかけ、適当に唐辛をむしって入れる。
二段目にまた大根を並べ、糠と塩をまぜたものを、という具合にしながら足で踏みつける。
よく踏みつけておく方がよい。
一番上にはハブサといって大根葉を並べ、その上に板または蓋をして大きな石を置き重石とする。

四斗樽に二・三本漬ける場合が多い。
味噌と違ってコーコはその年漬けた分を食べるのであって、前年のものは古ゴーコといって焚いて食べたりする。
大根葉
純農家では大根葉は兎や鶏、牛に与える。

漬菜
白菜が多くなっているが、白菜が日本に入ってきたのは新しい。
栽培が普及したのは大正初めである。
笠岡市吉田では一斗樽程度のものに漬け、なくなればまた漬けるというふうに追加していく。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

梅漬

奈良時代には既に花をめでていたが、梅漬は江戸時代からである。
梅漬には、シソやショウガをいれる。
五升から一斗程度の甕に漬けておいて年中利用したものである。
弁当箱の飯に梅干一つを埋めて国旗弁当などと言ったものである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

里芋
里芋は腐りやすいので、一日くらい干して裏山などに横穴を掘ってスクモをいれてかこっていることが多い。
繁殖した子芋を食べるほか、親芋も食べるし、ズイキ(芋茎)も食べる。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

ジャガ薯
ジャガタライモともいう。
県内ではキンカ薯、弘法薯、二度薯、三度薯、ジャガ薯、馬鈴薯などという。
笠岡市吉田では主として弘法薯と呼んでいる。
春、秋の二季の他に初夏の候に一番多く収穫するが、種取り分といって秋にも収穫する。
主屋や納屋の土間隅などに、そのまま置いて保存していることが多い。

・「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
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魚肉

無塩
生魚はブエン(無塩)といって尊ばれるふうがあった。
吉備高原や中国山地の村々では塩鰯や塩鯖またはイリボシなどの干物の魚を行商人がまれに売りに来る程度であった。
刺身を食べるようになったのは明治以後のことである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

鰯と鯖
鰯と鯖は庶民にとって、最も代表的な魚である。
高瀬舟の復り荷物に積載した物資は塩鰯、塩鯖、イリコ。
月に一回も買わない家もあった、昔は米で支払ったものである。
塩鯖は年に5回くらい買ったという。塩鰯や塩鯖についている塩がまたよい麦飯のおかずになったという。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


5月初め魚島には、出買船が海上でサワラを買い集めて笠岡市西浜とか寄島町安倉などの漁港に荷揚げしてそれを何人かがリレー式に魚篭を担いで吉備高原まで運んだものである。
高原の村々では春の鰆として買ったものである。

その他
打瀬漁師が打瀬網でとったシャコなどをその日とれた分を売りに来たり、鯖、ボラ、メバル、アジ、カレイなどを行商に来た時、少しずつ買っていた。
秋には児島湾産の塩アミとか笠岡湾産のモガイまたはアサリなどをまれに売りに来ることがあった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


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古代の日本は牛をイケニエ(生贄、犠牲)として神に捧げ、
酒を振舞い、肉を食べた。
中世以降、獣肉食の衰退は、仏教の殺生を嫌ったこと、土公神信仰の影響が大きい。
明治になって徴兵制が施され、軍隊内では獣肉食をさせた。
兵隊帰りが軍隊でおぼえた肉食を秋祭りなどでするようになり、庶民の間に広まっていった。
牛肉の鋤焼は大正中ごろ大阪でその名が起こったといわれる。
ごく新しい名称である。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


明治以後各地で普及した。
トンカツにキャベツをそえて食べるようになるのは昭和7~8年以後のことであり、
キャベツは明治以降普及した野菜である。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

山羊
明治以後飼育の家畜である。
第二次大戦以降、欧米食の浸透が獣肉食を普遍化していった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

鶏肉
かつて民家では2~3羽の地鶏を放ち飼したものである。
夜になると鳥屋にはいってねたのである。
一羽は必ず雄鶏を飼い、自然交配で孵化させた。
一番ドリが鳴いた、二番ドリが鳴いたで、などで仕事に出かけた。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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ハレの食事

県南地方ではバラ鮨を作り、全県的に巻鮨、狐鮨、押抜鮨が作られる。

赤飯
赤飯はオコワともウムシ(蒸し)ともアカメシともいう。
糯米とタダ米(粳米)を混ぜて甑で蒸す。
別の釜で煮た小豆またはササゲを上から入れてしばらく蒸す。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行



正月用や節句に搗くほかクゲイ(クガイ)の贈答に用いる。
自分の家で食べる米の餅はなるべく倹約をして黍餅や粟餅を多く用いるようにした。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

柏餅
カシワともいう。
米の粉の団子の中に餡をいれる。木の葉につつむ。
5月5日の節句に作る。
甑で蒸すことが多いが、羽釜の底に簀の子をいれて蒸気で蒸すこともある。

清酒
正月、節句、田植、秋祭、亥の子などの日や結婚式、建前などの他は、ほとんど買わなかった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

甘酒
笠岡地方では、旧1月11日の鍬ぞめにはカドに並べた農具や門松に甘酒を少しずつ供え、人も飲んだ。
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ヤッコメ
やっこめ・焼き米・・おやつにつくりょうた。生でも、湯にかけても食べれる。ササゲを混てもしょうた。

 やっこめを漢字で書くと『焼き米』です。
 保存食として作られるようになったのが始まりのようですが、お菓子の代わりとして食べられることもあったようで、岡山県では主に県北で食べられてきました。
 
作り方

 青刈りしたもち米、うるち米を水に浸けておきます。
 1昼夜ほど寝かしておいて、これを釜で煎ります。

 煎った米を臼でつき、その行程で籾殻を除去しておきます。
 この臼でつく行程で、独特の平べったい形が出来上がります。

 早めに食べる場合は茹でた大豆やササゲを入れておきますが、保存食として長く置いておく場合はそのまま保管します。

 保存食としてのやっこめの食べ方は、お湯と塩を加えて戻した上で食べます。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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秋祭
一年中での、一番のご馳走を作るのが秋祭である。
何日も前から準備し、女は忙しい。
早朝に鮮魚の行商人が魚市をたてたりする。
カニ、イカ、タコを買う。
その他エビ、鯖、ナマコを買う。
揚げ芋を必ず作った。
狐鮨、巻鮨も作った。
お客には重箱へ一杯鮨を入れ、もう一つの重箱へ揚げ芋、魚、リンゴなどを入れて土産とした。
昭和36年頃から祭の客をしない家が多くなった。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
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「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

キャベツ
大正時代以来品種改良が進み、急速に各地に広がって、
品種や種まき期、栽培地などの生み合わせで周年生産ができるようになった。
現在ではダイコンに次いで第二位の生産高になっている。
キャベツは、健康野菜として古代ギリシャ、ローマ時代から知られていた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

エンドウ
江戸時代には栽培も広まり完熟果を利用するほか、青刈りの緑肥としても用いられていた。
本格的な栽培は明治時代から。

イチゴ
江戸末期、長崎に伝えられた。
「福羽」が明治32年生まれ以後、70年間作り続けられる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ジャガイモ
慶長年間に長崎に伝えられた。
わが国で本格的に栽培が始まるのは明治以降で、北海道の開拓と共に進められた。
岡山県南では3月初めてと9月初めが植え時で、「彼岸の20日目になったら種芋を植える」とおしえられた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

スモモ
すでに「古事記」や「日本書紀」に登場している。
江戸時代の食べ方は生食が中心であるが、いろいろな加工もさえていたようでもある。
「三太郎」はサンタローザのなまりである。
.....................
スイカ
中国では西域から来たことから「西瓜」と名づけられ、
わが国の呼称はこの漢名によるものである。
中国からわが国への渡来は南北朝時代と思われる。
スイカ栽培が普及するのは江戸時代の寛文年間(1670年頃)以降で、食用もこの頃から。
明治になると欧米から色々な品種が導入され、在来種との交配によって今日の栽培種のもとが生まれた。


(スイカを食べる人・松竹映画「馬鹿っちょ出船」)


「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ヒョウタン
「ひょうたんの里」として知られる岡山市灘崎町では、ヒョウタンの生産組合を作って生産と加工に力を入れている。
近年、青森県三内丸山遺跡の貝塚からもヒョウタンの種子が発見されたことから、
縄文時代すでに渡来しており農耕も始まっていた。
果実の外皮が硬いので、乾燥させて水や酒などの容器として、あるいは二つに割って水を汲む道具として利用されてきた。

サトイモ
わが国への渡来はイネよりも早く、稲作以前の主食であったとする説もある。
鍬を入れると、親イモのまわりに子イモがたくさんつき、さらに孫イモもついている。
その様子は子孫繁栄を象徴するようで、これも縁起のよい食べ物とされた。

アズキ
昔は祝い事がると必ず赤飯を焚き、親類や知人に配ったり、配られたりしたものである。
この赤飯やぜんざい、餡や和菓子などの原料として広く用いられているアズキは重要な食べ物である。
弥生時代遺跡からアズキが出土している。
江戸時代には菓子としての用途が広がった。
岡山県の中山間部でも良質のアズキが生産されている。
かつてアズキは作柄が不安定で投機の対象となって「赤いダイヤ」と呼ばれたことがあった。
今は外国産の輸入によってダイヤではなくなった。

ダイズ

煮豆や炒り豆をはじめ、
豆腐、納豆、湯葉などの加工品、醤油、味噌のどの調味料として、
大豆食品はどこの家庭でも必ず毎日の食卓にのぼっている。
わが国ではイネやムギと並ぶ五穀の一つに数えられている。
イネに次ぐ重要な作物として認識されていた。
栽培の容易なダイズはわずかな土地でも有効利用することができ、田のはぜにも良く植えられた。
かつては、どこの農家でも収穫したダイズで自家製の味噌、醤油、豆腐などを手づくりしていたものである。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

シイタケ

かつて、わが家の晩秋の仕事の一つにシイタケの菌の植え付けがあり、
子どもの私もかり出された。
ドングリの木(アベマキ)を切り出すことからはじまり、原木を担いで下す。
手回しドリルで穴をあけ「種駒」を詰め込んだ。
かつてはコナラ、シイ、クヌギの風倒木や切株に自然発生するものを採取していたが、
江戸時代に菌の発生を促進する方法が述べられている。
昭和18年に「種駒」を原木に植え付ける方法が開発されて、シイタケ栽培は飛躍的発展を磨げた。

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

コンニャク
五穀の収穫の少ない山村を中心に栽培された。
庭先に堀り上げたコンニャクの球茎が、クワイほどの小さいものからカボチャ大のまで、大きさによって仕分けられている。
コンニャクの球茎は肥大が遅いので、出荷できる大きさに育つまで四年ほどかかる。
その間、毎年掘り上げと植え付けを繰り返すのである。
集荷できる四年玉の他は、すべて来春の植え込み用に貯蔵しておく。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ダイコン
人々は古くから体験的にその栄養と薬効を知っていたのであろう。
ダイコンの料理法の多様さは他の野菜の追随を許さないものがある。
栽培面積も生産高も、わが国の野菜のなかでは群を抜いている。
ダイコンは日本を代表する野菜なのである。
わが国へは中国から渡来し「古事記」に登場している。
ダイコンは品種も多いので、播種期も収穫期もいろいろで、年中栽培することができる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行


クワイ
クワイが正月のおせち料理に用いられるのは、「芽が出るように」という開運の縁起をかつだものである。
クワイが数多くの子球を増やすことから、子孫繁栄の願いも込められたのだろう。
植え付けは6月下旬、田ごしらえした水田に種球を一個ずつ手植えする。
11,12月に収穫・出荷する。泥の中から拾い集めるという手間のかかる重労働である。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ゴボウ
芳井地区では春から初夏にかけて播種し、晩秋から初冬に掘り上げる。
二本鍬で深く掘る作業は重労働で、現在は重機を組合で購入し堀り採るようになった。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
井原町史

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はっかと除虫菊は全町村で収穫されるという注目される特徴がみられた。
恐慌期に収穫は低迷したが、同八年から回復に転じた。

製糸業
昭和初期には
小田郡は養蚕業中心の地域、後月郡は製糸業中心の地域となる。

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矢掛町史


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養鶏
戦後養鶏規模が拡大され、
昭和45年では263羽になり、55年では2.016羽と驚異的に規模は拡大した。
逆に飼育農家数は低下の一途をたどった。
昭和48年のオイルショックによる飼料の高騰、卵価の安さは農家を苦しめた。
矢掛町史

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大正時代の城見村①生業
小田郡史(大正13年版)の城見村史より

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生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。

1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町  二毛作27町


主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。

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農業関係 肥料・野菜・果物その他
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
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トマト なすび 唐辛子
大根 レンコン
ほうれん草 ごま とうがらし
しゅんきく にがうり  にんにく 茶 綿 稲 麦 ふき
砂糖きび  繭(養蚕)  黍・粟(きび・あわ) へちま さとうきび
薩摩いも 薄荷・除虫菊その2
ひまわり 除虫菊 薄荷
葉タバコ ミツバチ ししゃ しいたけ ブンズ
ずいき かんぴょう

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城見の麦畑 
2022年02月15日 | 農業(農作物・家畜)
「井原の歴史」によれば、昭和30年代まで米麦二毛作が主流であったそうだ。
大正13年の「小田郡史」の城見村は二毛作は1/3。
麦作は畑で作るのが半分くらいだったようだ。

・・・・・

「井原の歴史」井原市史編集委員会・重見之雄    いばら印刷 平成13年発行

米麦二毛作
この地域においては昭和30年代頃まで、水田耕作の主流は米麦二毛作であった。
そこで米作と表裏の麦作について、その作付面積と収穫量は、
昭和23年には稲をかなり上回る約1800ヘクタールにも及んでいた。
当時は水田の裏作だけでなく畑でもかなり栽培されていたことを物語る。
しかし30年代から急速に減少しはじめ、50年代以降とるに足らない状況になった。


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小田郡史(大正13年版)の城見村史より

生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。

1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町  二毛作27町

主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。

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トマト なすび 唐辛子
大根 レンコン
ほうれん草 ごま とうがらし
しゅんきく にがうり  にんにく 茶 綿 稲 麦 ふき
砂糖きび  繭(養蚕)  黍・粟(きび・あわ) へちま さとうきび
薩摩いも 薄荷・除虫菊その2
ひまわり 除虫菊 薄荷
葉タバコ ミツバチ ししゃ しいたけ ブンズ
ずいき かんぴょう


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食事③果物・漬物・魚・肉   (吉永町史)
2020年08月31日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

果物

カキ
フユウガキや渋ガキがある。
渋ガキは、
ゆでて渋抜きをして食べたり、
皮をとって、干し柿にする。


ナシ
古くからある。買って食べる。


イチジクその他
気温が低いので育ちにくいといわれる。
柑橘類も育ちにくい。
ユズはユズ味噌にしたりユズ風呂にはいる。



漬物

沢庵漬け
コーコ(香香)といい、米糠と塩をまぜたものを、ひなびた大根にふりかけ、
四斗樽につめる。
毎年秋に、
四斗樽にコーコ2~3樽漬けた。
早く食べる分として、大根の浅漬けを一樽、白菜漬けを2~3樽であった。
漬物は主要なおかずであったので、味噌樽なども数えると10樽は並んでいたという。


海魚

昔は魚行商人が来なかったので、塩イワシとか塩サバなどや煮干し(いりぼし)なども、出かけたときに買ってきたという。
結婚式のなどの祝い事のときには、
片上や日生、赤穂や相生まで買いに行った。
ところによっては、行商人が天秤棒で担いで、煮干しなどの干し物や塩サバなどを売りにきた。
盆にはコブとかワカメなども売りに来た。
いつのころからか、無塩(鮮魚)のイワシやサバ、タコ、イカ、シャコなどを日生や片上から行商にきた。


淡水魚

フナ、白アエ、ウナギ、ジャコなどは谷川で釣るし、石垣の穴に手をいれて握り捕る。
竹串に刺して焼き、干す。
客がみえると、焙っておかずに出すとか、祭りに利用した。
半ば専業に川魚を捕って行商をし、生計を立てた人たちがいた。
川べりに、草ぶき屋根で、小屋掛け程度の簡素な家を建て、ウナギとかハエを捕って、無塩または干し魚にして売りにきた。


牛、馬、豚肉

牛肉、馬肉、豚肉は、かつては食べなかった。
百姓は牛を大事にし「牛は百姓の福虫」といった。
牛肉をクドで煮て食べるようになったのは、大正末から昭和初めという。
馬肉や豚肉の食用は第二次大戦後のことである。


鶏肉

鶏は、大抵の家で2~3羽飼っていた。
卵は保存しておいて、客がみえた時におかずにしたり、子どもの学校弁当に、時々いれたやった。
鶏肉は牛肉などより、早くから食べていて、正月、祭り、来客などの時に、殺して調理した。



・・・・・・・・・・・・・

(暮らし)


風呂

昭和の初期ごろまでは、木桶の五右衛門風呂を据えていたが、鉄(かな)風呂へとかわる。
かけ湯や、抜き捨て湯は、下に掘ってある壷に入る。
せわしい農家にとって、度々風呂を沸かすわけには、いかなかった。
クミイケなどから、水たごで2~3荷運んでいれる。
焚くには時間がかかった。
風呂を沸かすとお互いに、隣近所で知らせあった。
夏ならスイカを割って食べさせるとか、冬なら炬燵に入って、氷餅を食べながら世間話をする。
貰い風呂はコミュニケーションになった。



庭木

屋敷内に植えて、よい木とわるい木がある。
よい木としては、
松、竹、梅、カエデ、カシノキ、クスノキ、サルスベリ、モックなどである。
わるい木としては、
ザクロ、ビワ、イチョウ、フジ、ヤナギ、ゴヨウノマツなどだという。

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蚤(ノミ)を捕る
2016年07月10日 | 暮らし
母の話・2001.1.1

ノミを捕る

(母は蚤捕りの名人と思えるほどノミを捕るのが上手かった)
ノミは今はおらんようになったけぇようなった。


履物

女学校はズックじゃ、それより前は・・・もう、おぼえとらん。


米と麦

5部と5部なら「おお麦飯」じゃ。
7と3なら食べられる。

米の飯

隣の野々浜の親類のおばさんが、
「だまされた思うて米の飯を焚いてみなされい
麦飯は2杯も3杯もメシを食べんと腹がふくれんけど
米の飯は一杯で腹が膨れ、結局その方が安ぅつきます」

ほんとうじゃった。
(桃やビワの)袋掛けにきてくりょうちゃった。
そのたびに思いだしょうた。


乗り物で行く遠足
旅行の時は汽車に乗って笠岡の城山に行きょうた。
遠足は
嫁要らずの観音さま。ちょうどええ距離で定番じゃった。
美星の方まで歩いていきょうたこともある。


賀山の摩利支天さま
戦時中には、あれに大勢参りょうた。
それで、拝む人が要るゆうて
あがりこぐちのよねやんゆう人が専属で拝むようになった。
戦争の神様じゃゆうて、
「元気に帰れますように」拝みょうた。
郷の方からも拝みにきょうた。

今は正月3日に棟上げをするようになった。

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子供のおやつ
2015年11月29日 | 暮らし
おやつと言えば「ふかし芋」が一番多かった。
珍しいと言えば、カブトガニ。
美味かったのは、食用ガエル。
蜂の幼虫や雨蛙は遊びを兼ねて食っていた。


岡山県史・民族1より転記

大正の初め頃まで田舎の農家では、盆正月・祭り・婚礼・葬式・祝い事などや、町からの来客のみやげのもらい物の生菓子、饅頭が口に入るくらいだった。
食い意地盛りの子供たちは、家のまわりの柿・梨・栗・ナツメ・ビワ・グイビ・ユスラ・山ナスビ・野イチゴ・スカンポ・万太郎ミツ・松緑・ガブ(野ぶどう)・アケビなどに気を配っていた。
栗の木の虫を焼いて食べたことなど今の子供にはないだろう。

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昭和20年 農作物9月12月 報告表
2015年07月18日 | 昭和20年(戦後)
小田郡城見村の役場綴りに保管されている。
終戦当時の畑作物がわかる。



小田郡城見村 昭和20年9月末日

作物名 面積 実収高・貫
タマネギ 2反 450
キュウリ 7 1600
カボチャ 3町0 5800
スイカ 1 400
トマト 4 1230
秋播キャベツ 1 285
マクワウリ 0 0
ユウガホ 1 16
ラッキョウ 9 1800
エンドウ 2 400
ソラマメ 3町4 32石
ジョチュウギク 栽培面積6町9 収穫面積 14.町9 1242貫
タケノコ 1町 1町 850貫
コウゾ 0 0
ミツマタ 0 0
モモ 16町2  40750貫
ビワ 4町5  7200貫
ウメ 0 0 110貫(畦等で栽培)
イチジク 4町1 83000貫


小田郡城見村 昭和20年12月末日

秋植馬鈴薯 9町8反 18620
小豆 13町3反 10石
キビ 3町0 30
アワ 6反 7
ヒエ 0 0
ソバ 3町5反 34
サトイモ 7反 1190貫
ダイコン 1町9反 5700
カブラ 0 0
ニンジン 0 0
ゴボウ 7反 2400
ナス 5反 1500
春播キャベツ 1 400
結球白菜 4 1200
非結球漬菜 1 350
トウガラシ 0 0
ヤマイモ 0 0
ゴマ 1 1石
イチビ 0 0
ワタ 0 0
ミカン 3町1反 ○540貫(注・ミカンの数量は間違いもあり)

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「金光町史」
昭和恐慌

金光町、鴨方町辺でも麦稈真田の輸出減退により価格が大暴落した。
麦稈真田の不振と養蚕業の低迷から抜け出す方途として製帽工業や葉煙草に見出そうとする農家が増えている。

岡山県でも、農業の不況と農村の疲弊が深刻化する中で、
農家経済を維持するため各種の商品作物、家畜などを導入し経営の多角化を図り、
副業の奨励を図った。
農家にとっては別の自衛措置への道でもあった。
葉煙草などと共に、桃、ブドウ、日本ナシ、西洋ナシ、カキなどの生産にも力が入れられ、岡山の「果樹王国」への基礎がつくられた。
・・・

「金光町史」

戦時中の食生活

日中戦争が始まり、食べものが不足し、配給制度ができた。
金光町のほとんどが農家であったので、十分とはいえないが食べるぐらいのものはり、保有米を残して、あとはすべて供出した。
配給の主体は主食で、醤油や酒も配給であった。
農家でも米は小米を使い、半麦飯であった。
サツマイモ、ジャガイモ、南瓜も主食代わりになった。
農家では自家栽培ができたので有利であった。
サツマイモはたくさんゆでておき、ご飯代わりに食べた。
またタマネギと南瓜をよく炊いて食べたが、甘い物がなかった時代なので、甘くておいしかった。
昭和23、24年ごろまで食糧難は続き沙美まで行って樽に海水を汲んで来て煮詰め、塩の代わりにしたこともあった。
また、砂糖の代わりにサッカリンも使用された。
戦中戦後の食糧難とはいえ、自給できる田畑をもっていた金光町では、
芋の茎や野草を食べるほどの極度の食糧難はなかったようである。


・・

「真備町史」  真備町史編纂委員会  昭和54年発行

隣組の班長
隣組の班長は重大な責任があった。
この隣組は戦時中大政翼賛会下部組織として制度化されたのが昭和15年3月。
その後内務省令により全国的に組織され、毎月何回か常会を開いて物資の配給の仕事や国債の割当や国防献金、金属の供出、出征兵士の見送り、防空演習など近所同志助けあう手段であって、これに回覧板がよく廻ったもので、それが現在まで尾をひいている面もあり、各地区ごとにこの町でも行政連絡員が居り、諸種の伝達事項を扱ったりしている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「日本歴史21 近代8」 岩波講座  1977年発行

開戦後の大政翼賛会第二次改組

翼賛会はすでに、もっぱら内務官僚が主導する上意下達の行政補助機関さらには戦意昂揚のたまめの国民運動機関となっていた。
東条内閣は開戦後、翼賛会強化のための機構改革方針を示した。
それが42年5月15日の機能刷新に関する閣議決定である。

要点は、
第一に
官製国民運動を一律に翼賛会の傘下に統合すること。
戦意昂揚の啓蒙運動や増大する戦時行政事務を、国民に負担させる中間組織としての性格を強めた。
第二に
町内会・部落会・隣保班(隣組)を直接に翼賛会の指導下におくことだった。
約154万人の世話役と世話人が誕生し、翼賛会は部落会・町内会・隣組の指導者を丸抱えすることになった。

こうして国民は、居住地において世話役と世話人をつうじて内務官僚と警察の支配下におかれ、
隣保によって相互に監視させられ戦争協力にかりたてられることになった。
・・・・
とくに戦時下の国民生活において部落会・町内会・隣組のはたす役割は決定的であった。
急増する戦時下の行政事務はいっそう部落会・町内会に転嫁され、末端の隣組をつうじて国民に伝達された。

その内容は、住民の登録、生活物資の配給、国債の割当消化、貯蓄の奨励、金属回収、一部税金収納事務、労働力提供、政府の宣伝の普及、警察情報の提供、出征兵士の歓送、戦災の証明、防空活動など国民生活のあらゆる側面にわたった。

しかもこれらの動員のため国民一人々々の私生活の監視・干渉がすすみ、
日常生活の画一化が極端におしすすめられた。
同調しなければ周囲から「非国民」「国賊」の避難をまぬがれないという社会的雰囲気がもたらされた。

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「岩波講座 日本歴史21」 1977年発行

1945年8月の第二次世界大戦における日本の敗北は、日本歴史上もっとも大きな転換点であった。
政治、経済、社会のあらゆる面に、敗戦がもたらせた衝撃は、かつてどのような事件にもまして大きいものがあった。
戦前と戦後の日本を比較すると、短時日の間におこったその変動の量と質は、
他に比べるものがないほど大きい。
しかし一面からいえばその変化は、8・15によって突然もたらされたものでないことはいうまでもない。
この変化を生み出す条件は、未曽有の大戦争をたたかい続ける中であらゆる面にわたって進行していたものであり、
それが敗戦によって行われたのである。

。。。。。。。。

本土決戦は全国民を死のみちづれにすることが明らかでありながら、
戦争指導者たちは具体的な戦争の終結への動きを示さなかった。
それが始まるのは、本土空襲が激化し、民心の離反が明らかになり、
体制存続の危機を感じとった時以後であった。

1944年11月7日のロシア革命記念日の演説で、スターリンは日本を侵略国と呼んだこと、
1945年2月ソ連の極東兵力の増強が見立ちはじめたこととあいまって、
ソ連の対日参戦の危機がせまっていることを陸軍は強く憂慮しはじめた。
4月27日チタにいた中ソ大使館対武官浅井中佐から
「1日12~15列車におよび開戦前夜を思わしむものがあり。
ソ連の対日参戦は今や不可避と判断される」との電報が参謀本部に到着していた。
5月にはいると極東ソ連軍の兵力増強はますます顕著になってきた。
こうしたソ連軍の増強にたいして、関東軍の兵備はとうていこれにたちうちできない状態になっていた。
大部分は南方、沖縄などに引き抜かれていたが、残っていた3個師団を本土に転用したことによって、常設師団は皆無となった。
この穴埋めに新たに装備の劣る新設師団を作り、在留日本人を根こそぎ動員して、
ようやく16個師団となったが、その実態は装備も劣り、とうていソ連軍の攻撃に耐える力を持たない状態であった。

大本営は45年4月末から本格的な対ソ戦の検討を始めた。
中国戦線を放棄するか、満州をも放棄して本土決戦に専念するか、結局は東南部の山岳にたてこもることになった。
いずれにせよソ連の参戦は、日本の戦争遂行にとって最悪の事態をまねくという認識では一致していたのである。

..................................
「日本軍事史」  高橋・山田・保谷・一ノ瀬共著 吉川弘文館  2006年発行

戦死者の墓はなぜ大きいか

日中戦争期、戦死者用の墓の建て方「マニュアル」として編まれた『遺族よ墓は斯う建てよ』なる書物は、その理由を端的に示す。

ある戦死者の母が「尽忠報国の武勲は対等であっても、富めるが故に墓石が大きく、貧しきが故に小さければ,後代への心残りも伴ひます」、
国が墓石の規格を決めてくれないか、というのが要旨である。

戦死者には「賜金」、正式には死没者特別賜金が、戦死・戦病死者の遺族に国から与えられる金で、
陸軍一等兵で1.300円と当時としてはかなりの大金であった。
遺族たちが墓の大きさを競争に走り得た背景には、そうした事情があった。

遺族たちが墓の大きさにこだわったのは、「みすぼらしいものでは故人に申訳ない」という心情によるものだった。
だが、それは
「遺児の養育,其他、将来益々家門を顕揚する為」という賜金本来の趣旨にも、
戦死者の意にも添わなかっただろう。

心情は、近隣間の体面、名誉の競争という横の方向へと向かい、
けっして”反戦”というかたちで上に向かうことはなかったのである。

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。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会 
自家製塩の奨励
塩田労働者を徴兵・徴用に奪われて、塩の生産も落ち込んだ。
前年晩秋から、漬物用の塩不足が問題となり、この年5月国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家製塩の奨励を始めた。
燃料不足で、鹹水(かん水)をそのまま利用せよ、という指導に変わった。
さらに輸送不足も加わり、漬物用塩の特配が遅れ、山間部で深刻な問題となった。

・・・
「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会 

学校農園
前年から始まった空地利用の食糧増産は、県下の中等・青年・国民学校700余校の校庭に及び、学校農園と呼ばれた。

中等学校・青年学校は教練・体操用に必要な最低面積を残し、
国民学校は一人当たり0.8坪分を残し、すべて掘り返され畑になった。
甘藷、ジャガイモを栽培した。
玉島高女では馬糞拾いに精出した。

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「岡山県史 現代Ⅰ」

1944年(昭和19)より未利用食糧の供出運動が起された。
さらに1945年11月に岡山県は未利用食糧資源集荷促進要綱を定め、
カンショ茎葉・葉柄・ドングリ・大根葉などの米の代用品としての供出出荷が促進された。
なお1946年1月からは、
ミカン皮・クズ根・クズ澱粉、同年7月からは
ニンジン葉・ゴボウ葉・里芋葉・カボチャ種子・ヨモギ・茶がらなどが
米の代用品として追加指定され、政府買い上げ対象となり供出された。
これらの未利用食糧は主に乾燥され出荷され、
製粉して干パンやパンに混入されたが、
特に芋づるやドングリ・米ぬかなどの多く混入されたパンなどを「ドンツク」または「ドンツクパン」と呼び、味はともかく多くの人々に親しまれた。

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「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行
 
小麦

小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。
麩(ふ)は精進料理の素材として重宝されてきた。
醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。
製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。
醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、
それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。

小麦粉を水に溶いて作る食品は、
うどん、そうめん、ほうとうなど。
焼く、煮る、ゆでる、という方法があり
豚まん、あんまん、ワンタン、餃子、ドーナツ、揚げパン、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃ焼き、などがある。
「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行

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女の一生

2022年01月01日 | 江戸~明治



(以下母の話・2001年1月1日 )


朝飯は朝炊く、昼の分もあわせて炊く。

足らにゃあ昼にも炊きょうた。

大勢のうちにゃあ、昼も炊きょうた。

丸山にゃぁ、是ッピ、昼になると炊きょうた。
主婦の朝・・・(いまでいう主婦でなく、農婦とでもいったほうがよいか?)


朝は起きて、まず「くど」の火をつける。

朝飯は(どこのうちもそうしょうたが)、前の晩にしかけとく。

米をといで釜にしかけとく。そうしたら米もやおうなってエエゆうてようた。

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「昭和の仕事」

2022年01月01日 | 江戸~明治
「昭和の仕事」 澤宮優 弦書房 2010年発行

綿打ち直し屋
昔の敷布団は綿花の綿が詰まっていた。
湿気と体の重みで綿が固くなってしまう。
いわゆる煎餅布団の状態になる。
綿を機械でほぐして、ふくらませるのを打ち直しという。
これによって綿の体積が4~5倍に膨れあがり、再び布団の中に戻す。
4~5年に一回は打ち直しをやっていた。

純喫茶
音楽を聴きながらコーヒーが飲める店。
バーやカフェーなどの特殊喫茶と区別していた。
昭和30年代には歌声喫茶など、歌う喫茶戦もあった。
個人経営だから、喫茶店も一軒ごとに顔があった。

八百屋
野菜、果物を売る店。
昭和60年代までどこでも八百屋は見られたが、大型チェーンスーパーの進出によって姿を消してしまった。

訓導・代用教員
訓導は小学校の正規の教員のこと。
代用教員は、正式な教員免許を持っていない人。
一年契約で、旧制中学出身者に多かった。

自転車預り所
地方の駅に行くと、自転車置き場がないので、自転車を預かる店があった。
かつては社会人の利用も多かったが、今は高校生が利用している。

銭湯
昭和20年代、30年代がもっとも客足が多かった。
昭和60年代まで学生は、ほとんど下宿住まいで、銭湯を使った。

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「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優 原書房 2016年発行


馬方(馬子)
馬に荷物や人を乗せて商売する人。


炭鉱夫
三井三池炭鉱は、昭和前期まで囚人労働が主で、女性の坑夫、朝鮮人労働者もいた。
「掘進」と「採炭」に分かれ、
掘進は坑道を掘る仕事である。火薬で岩を崩し、崩れた岩を運びやすいように小さく砕く。トロッコで運ぶと、天井が崩れ落ちないように板や木で枠組みをする。
採炭はツルハシとスコップで炭層を掘り、トロッコに載せ坑道出口まで運んだ。
1日に3m進んだ。「採炭」は炭鉱夫にとって花形で、給料もよかった。
1日3交替の1週間交代。
現場は通風も悪く、暑くなった。
昭和30年代半ばになると政府が、エネルギーの中心を石油に替えたことから、石炭は重視されなくなった。

傷痍軍人
人通りの多い場所に立ち、アコーデオンなどで軍歌、哀調のある曲などを演奏し、通りがかった人から賽銭を貰う。
これが儲かると知った失業者達も、どっと参入して、傷痍軍人の木綿の白い服さえあれば生活費を稼げると思い、街角に立つようになった。
昭和50年代でもよく見かける光景だったが、
さすがに平成に入ると姿を見ることはなくなった。

女衒(ぜげん)
遊郭など性的産業に人を売る人買いのこと。
売春を専門に娘を女郎屋に売る仕事。
女衒は日中戦争、第二次世界大戦の時期は、兵隊の慰安のために娘たちを日本軍の占領地に運んだ。
東南アジアに売られた女性を「からゆきさん」と呼ぶ。
女衒は江戸時代に「忘八」とも呼ばれた。儒教の徳目を忘れた人という意味で、
まさにその本質を突いている。

「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優 原書房 2016年発行

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「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行

和傘職人
和傘づくりには100以上の工程があり、完成するまでには数か月かかりました。
それぞれの工程に高い技術が必要で、十数人の職人による分業でつくりました。
1・骨を組み立てる
竹を削って太い軸と細い骨をつくり、糸でつないで組み立てる。
2・傘張り
骨に和紙を張る。
3・油ぬり・乾燥
傘の表面に防水のため、植物からとった油をぬり、天日で乾燥させる。

養蚕農家
大正から昭和初期にかけて、生糸は日本の重要な輸出品であったため、
日本各地の農家が専業や副業で養蚕をおこない、収入を得ていました。
桑を畑で育て、日に何度も桑の葉を摘んでカイコに与えなくてはいけませんでした。
カイコは35~45日ほどで繭となり、仲買人を通して製糸業者に売られました。

畳屋
畳は芯の部分の畳床に、イグサで織られた畳表(ゴザ)をかぶせ、ふちに畳べりという布をぬいつけてつくります。
畳屋は、畳を家に敷く作業や、古くなった畳表の張替もおこないます。

塩づくり職人
海水から水分を蒸発させて、塩をつくる仕事です。
まず、海水の塩分濃度を高くして、煮詰めて塩をとる、という方法で塩をつくりました。

炭焼き職人
木炭は、山でナラやカシなどの木を切り倒し、小さく木を切りそろえたあと、
炭焼き窯で焼いてつくります。
窯の入口を土でふさぎ、蒸し焼きにすることで、木材は燃えても灰にならず黒い塊になります。

鍛冶屋
金属を打って強くし刃物などをつくる
鍛冶屋は、熱した金属を打ってじょうぶにしながら形成し、農具や刃物などをつくったり、修理したりする仕事です。
農具をつくるのを「野鍛冶」、包丁をつくるのを「包丁鍛冶」、つくるものによって呼び名が違いました。

桶屋
木の板をぴったり並べて水も漏れない桶や樽をつくる。




桶屋
桶は、丸みがつくように削った何枚もの細長い板を円筒形に並べ、箍(たが)と呼ばれる部品で、外側をしばってから底板をはめ込んで作ります。
水を一滴ももらさない桶をつくるには、板をていねいに削る作業や、板の組み合わせを見極める職人の技術が必要でした。
箍屋
箍屋はい竹を割って細く削って編み、箍をつくる仕事です。
桶は使っているうちに箍がゆるむので、箍をつけかえる修理もしました。

豆腐屋
豆腐を手づくりして売り歩く。
豆腐屋の朝は早く、早朝の4時や5時には豆腐づくりが始まりました。
豆腐は日持ちがしなかったため、毎日つくる必要がありました。

金魚売り
金魚を売り歩く仕事です。
水を張ったたらいに金魚を入れて、金魚鉢といっしょに天秤棒で担いで運びました。
思いたらいを運ぶのは重労働だったため、金魚売りには若者が多かったと言われています。

蒸気機関車
機関士
速度計を見ながらハンドルやブレーキを操作し、時刻通りに列車を走らせた。
機関助士
石炭をくべる機関助士。
機関助士の顔は、石炭が燃やしたときにでるすすで真っ黒になった。

蒸気機関士への長い道のり
蒸気機関士になるには、まず駅員としてはたらきながら、機関車についての勉強をしなければなりませんでした。
機関助士を数年務めたあと、試験を受けて機関士になるまでには5年から7年もの時間がかかりました。

渡し船の船頭
小さな船をあやつる人のことを「船頭」といいます。
多くの場合、水の事故を防ぐため、川の水位の変化に詳しい地域の住民が先祖代々務めました。
年中無休で地域の人達を運びました。


沖仲士
貨物船の荷物を陸へ運ぶ、きびしい肉体労働でした。
「沖荷役」ははしけで陸まで運び、「沿岸荷役」ははしけの荷物をトラックなどに移しました。

灯台守
灯台守は一日たりとも灯台を離れることができませんでした。
2006年最後の灯台守がいなくなりました。


電話交換手
市外への接続は電話交換手の仕事でした。
昭和401年代中期になると、市外への電話も自動化され交換手の仕事はなくなりました。

タイピスト
大正4年漢字とかなを印字できるタイプライターが発明され、役所や企業で公文書作成に用いられるようになりました。
大正から昭和初期にかけて、女性の花型仕事でした。

靴磨き屋
大正から昭和にかけてさかんになりました。
とくに第二次大戦後には、戦争で家族を失った戦争孤児や女性の多くが、靴磨きで生計を立てました。

下駄の歯入れ屋
すり減った歯を交換したり、鼻緒のすげかえをしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


羅宇屋(らうや)
煙管(きせる)は、「火皿」「羅宇」「吸い口」という部品でできています。
羅宇は使っているうちに、ヤニがつまったり折れたりするので、羅宇を修理したり、新品と取り換えたりします。
羅宇屋は熱い水蒸気でつまりを取り除いたほか、新品の煙管も売っていました。


鋳掛屋
直すものは、鍋ややかん、釜などが多かった。
昔の鍋ややかんは、今より質が悪く、よく穴があいた。
鋳掛屋は,火を起こす小さなふいごなどを乗せた自転車やリヤカーで、町を回りました。

蹄鉄屋
馬のひずめの裏には、補強の為に蹄鉄(ていてつ)というU字型の金具がつけられています。
この蹄鉄をつくり、
馬のひづめに取り付けるのが、蹄鉄屋の仕事です。
それぞれの馬のひづめにあわせて作り、定期的に交換していました。

貸本屋
昭和30年代には「貸本漫画」と呼ばれる子供向けのマンガが一大ブームになり、
貸本屋は多くの子供でにぎわいました。

質屋
質屋は質草の価値をその場で見定め、客にお金を貸します。
期限までにお金が返せない場合には、あずけた質草は質屋のものとなり、「流れる」といいます。
質屋には火に強い蔵や保管庫を備えることが法律で決められています。

下宿屋
大家さんが一緒に住み、トイレや洗面所は共同。
多くの下宿屋は、民家を改造したもの。
2階はすべて貸し出されていることが多かった。

紙芝居屋
紙芝居の道具を乗せた自転車でやって来て「はじまり、はじまり」と拍子木を打って子供たちを集めました。
観覧料の代わりに駄菓子を買って、それを食べながら紙芝居を見ました。
声の調子を上げたり下げたり、臨場感たっぷりに演じた。
紙芝居は決まって「つづきは明日」と話を終わらせました。

屋根葺き職人
屋根の葺き替えは、職人を中心として、村の人々が協力しておこないました。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ここまで、
↑↑  「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


「失われゆく仕事の図鑑」  永井・高野共著  グラフィック社 2020年発行

キャバレーのホステス
キャバレーチェーン「ハリウッド」を経営してキャバレー太郎の異名をとっていた福富太郎に著作「昭和キャバレー秘話」によると、
ホステスという呼び名が使われるようになったのは1964年の東京オリンピックからで、
不幸な家庭や男女関係、恵まれない環境など、人生の暗い影を背負った女たちが多いと書いている。

屋上遊園
百貨店が、それまでの木造の建物から高層ビルに建て直されたときに生まれた。
百貨店は出入り自由、商品を見るだけも、屋上に行くのも自由。
大食堂で食事をしたり、おもちゃ売り場で買い物をしたりすれば経営者の思うつぼ。
屋上庭園はやがて、子供向けの遊具などを置いて客を惹きつけるようになる。
観覧車、コースター、豆汽車もあった。

踏切番
踏切の操作を手動で行っていた。
早く閉めても、遅く閉めてもいけない。

バスガール
バスの車掌は主に女性の仕事だった。
未舗装の道で、クッションも効いていない車両、長時間の立ち仕事に耐えられる体力、精神力が必要だった。
ガマ口のようなバッグをかけ、乗ってくる利用客に切符を売った。
「お降りの方はございませんか」と確認し、客の乗降のたびにドアを手で開け閉めし、運転手に「発車オーライ」と合図する。
狭い道路で対向車があるときは、バスを降り、周囲の安全を確認しつつ運転手を誘導した。
都内で初めてワンマンカーが登場したのは1961年。
「降車ブザー」「運賃箱」が登場した。


食堂車・ビュッフェ
特急・新幹線にあった。
ビュッフェは軽食やコーヒーを立食できる。
新幹線の食堂車は2000年3月に姿を消した。

アイスキャンデ-売り
自転車の荷台に大きな木箱を乗せ、のぼりを立てて、チリンチリンと鐘を鳴らせて売り歩く。
昭和の夏の風物詩。実はそれほど長くはない。
1950年代後半から強力なライバルが登場する。雪印、森永、共同乳業などの大手メーカーがアイスクリームや氷菓の大量生産を始め、冷蔵庫が普及し、冷たいお菓子の選択肢はひろがっていった。
1960年代の後半には、もはや懐かしい存在になっていた。

映画看板師
映画館は近くにある看板屋に発注していた。
昭和30年代は週替わりで新しい看板を描かねばならないので、映画以外手の回らない看板屋がいた。

傷痍軍人
白い衣類に身を包み、残った片方の脚を投げ出して、もう一方の脚が失われていることが見る人にわかるような姿勢をとってゴザのうえに座っていた。
楽器にはアコーディオンが多かった。

成人映画館
1960年代、テレビ時代の到来で映画会社がつぶれ、多くの映画館が成人映画に切り替わった。
新東宝が1961年に倒産、多数のスタッフ等が宙に浮き,彼らによって『肉体市場』がその1号といわれる。
1971年には日活ロマンポルノが始まった。

遣り手婆

やりてばあ
長屋のように並ぶ遊郭の店には、それぞれに遣り手婆がいる。
遊郭の女性が、自から客引きをすることは決してない。
彼女らが客の相手をするのは、あくまで遣り手婆が客を引き込んだあとからだ。

灯台守
灯台守の特色として僻地勤務と転勤の激しさが挙げられる。
田舎の人里からはるか離れた、岬の先端や孤島がざらだ。
買物も不自由なために、魚を釣り、小さな畑を耕し、雨水を貯め生活用水にする生活だった。
転勤は数年おき、北海道から沖縄まで広範囲で、半自給自足生活が待ち構えていた。


コンパニオン
1964年、東京オリンピックの際に29名のコンパニオンが選ばれた。
コンパニオンは、英語が堪能であり、知的で、柔軟で、対応力があり、
あこがれの職業となった。

表具屋
床の間や襖に飾られた書画。

サーカス
はっきりと覚えているのは、
オートバイが網目状の鉄球のなかをぐるぐる回る演目だ。
エンジンの爆音と排気ガスの匂いがすごかった。
60年ほど前には、20本以上のサーカスが、全国を巡演していたが、
現在も活動をつづけているのは木下サーカスただひとつ。


レコード屋

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綿を作る②機織り、その後裁縫

2022年01月01日 | 江戸~明治
「暮らしの世相史」 加藤秀俊 中公新書 2002年発行

機織りと裁縫

農家で木綿をみずから栽培し、それを織って衣料品を作る、というのはついこのあいだまでごくあたりまえのことであった。
明治末期の村では、
一家の主婦のしごとのなかでは機織り、裁縫というのがおおきな比重をしめていて、彼女たちは毎晩のように機を織り、針仕事をして家族成員すべての衣料品を用意することが期待されていたし、
婦人たちもそれを当然の作業としてみずからに課していたのである。
かつての農村では老若男女をとわずハダカに近い恰好をしていたようである。
機織りの音と裁縫する主婦のすがたは明治の文明開化によってもたらされた「ゆたかな社会」の象徴であったのかもしれない。
みずから機織りをしたり、あるいは綿布を購入して着物を縫ったりするようになったのはせいぜいここ百年ほどのあたらしい現象だったのだ。

「味噌や醤油、豆腐や漬物などの一切を自給し、家族全員の外出着や仕事着を夜なべに織る。
蚕の屑繭から袖や羽二重の背広布地を織り、綿を紡いでは縞の着物やモンペを作る。
母は愚痴一つこぼさずやってのけた。
その織物は7人兄弟の上から下に着継がれても破れないほどの厚地であった」

針仕事は、かつての日本の婦人にとっての最低必要な技能のひとつでもあったのだ。
裁縫の腕は娘たちの競争の領域であり、また結婚にあたっての資格でもあった。
嫁入り道具のなかには、かならず「針箱」があったし、「絎台(くけだい)」もすべての家庭の常備品だった。
技能さえしっかりしていれば、女性にとっての数少ない「内職」のひとつでもあった。
主婦の仕事のなかに、つくろいというのがあった。
穴のあいた靴下にツギをあてたり、ほつれをなおす作業があった。




「金光町史」

裁縫

機織りが終わると、裁縫が女の仕事のように言われた。
明治末から大正にかけて女の子は女学校か、高等科2年がすむと、裁縫学校へ行ったり、近所の仕立物をしているところで裁縫を習ったりした。
布は織らなくなっても、衣は手縫いであった。
和服は仕立て直しが出来るし、当たりを替えるといい、
すり切れた個所は、着物の別の個所の布と交換して縫い直した。
子供は成長が早く、
着物はすぐ着れなくなる。
幾人もの子供を持つ母親は、祭り、正月等の行事に新しいものか、さっぱりしたものを着せるに忙しかった。

裁縫は小学4年生ぐらいから、運針、雑巾、前掛け、一つ身の着物など、
女学校では大人の本裁ちの浴衣、単衣や袷の着物、羽織、袴なども雛形を作って一通りは習った。
当たりを替えて着物の仕立て直しの出来ることが一人前だった。



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