場所・山形県酒田市二番町
「本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に」で知られる、
庄内藩の本間家。
多くの地主が明治以降に土地を増やしたのと違い、本間家は増やしていないそうだ。
本間家三代目の光丘が隆盛を築き、その時代に日本海の庄内砂丘に植林した功績が今も住民に感謝されているようだ。
酒田市役所”酒田さんぽ”Web
本間家旧本邸
武家造りと商家造りが1つになった珍しい建築様式
1768(明和5)年、本間家3代光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造したお屋敷で、
書院造りの武家屋敷と本間家が生活した商家造りが一体となった全国的にも珍しい建物です。
その後拝領し、本間家代々の本邸として使用されてからも、武家造りの建物は特別な時にしか出入りできない場所でした。
商人が幕府巡見使を迎える藩のためにこのようなお屋敷を建造して献上するのは珍しいこと。
本間家の繁栄ぶりをうかがい知ることができます。
※幕府巡見使…将軍の代替りごとに特派された役人
※書院造り…平安時代の公家住宅の寝殿造りを基とし、近世初頭に確立をみた武家住宅
「山形県の歴史」山川出版 昭和45年発行
本間光丘の登用
本間家は明治2年に、小作米31.000俵をもって、日本一の大地主といわれた。
光丘(1732~1801)は本間家の3代目にあたり、
それ以前は酒田の一問屋商人として、資力をのばしつつあったが、地主としては光丘の代にはじまっている。
光丘は明和4年(1767)庄内藩の藩政に参与することになった。
地主王国
地主の系譜はいくつかの類型にわけられるが、日本一の大地主として有名な、酒田の本間家の発達過程をみることにしよう。
同家は元禄頃、商業と海運業をいとなみ、18世紀中ごろの庄内藩財政窮乏には酒田36人衆中、最高の合力金をだしている。
近代地主の基盤ができたのは、三代光丘の時代で、一代で一万俵以上集積した。
その後、幕末まで庄内から秋田まで三万俵の年貢米を収納するに至っている。
本県全体としては明治20年代から30年代において大地主の成長が決定的であった。
大地主の系譜は江戸時代に土台を築いたものが極めて多い。
日本一の大地主として有名な、酒田の本間家は幕末には庄内一円から秋田にわたり、31.000俵の年貢米を収納するにいたっている。
明治以後は土地購入は消極的になり、近代地主とことなる。
酒田市役所”酒田さんぽ”Web
山王森
本間家の植林の功績を伝える。
風砂の被害に悩まされていた人々のために私財を投じて2kmもの距離に松を植林した本間光丘。
訪問日・2022年7月11日