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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日中戦争と郷土部隊⑥銃後の組織化 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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赤柴部隊の独流鎮の戦いの報道が、県民に伝えられている最中の、8月24日だけの記事のなかにも、凝縮して現れている。


まず、県知事以下県会議員が先頭になって「国威宣揚」「皇軍武運長久」の祈願を行う。吉備津神社。
総社町 帝国在郷軍人会吉備郡連合分会主催、郡下各町村分会長会を開催。


在郷軍人会を中心に市町村や警察が乗り出して、各地域に銃後後援会=軍人後援会あるいは国防婦人会が組織されていく。

倉敷市大高学区内 郷軍、消防、生徒、市議、町総代、国防その他の婦人団体、産組、宗教団体各総代50余名集合して軍務公用者並びに遺族家族の救護に関する協議会を開催。
金光町 金光町軍人後援会創立総会が町小学校講堂で開催。各代表120名。
刑部町 国防婦人会結成式結成式。会員450名出席。終わって武運長久祈願祭を村社で執行した


こうして、銃後における戦争熱が高まる中、次々と歓呼の声に送られて出征した兵士たちも、その多くが、やがて「白木の箱」で故郷に帰ってくる。
先の諸団体は、その戦死者を村を挙げて英雄として祀り、戦争熱をさらに増幅し扇動していったのである。


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日中戦争と郷土部隊⑤戦争報道 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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赤柴部隊の天津から徐州を経て武漢への、果てしない行軍は、そのまま、戦争目的もあいまいなまま、ズルズルベッタリに、戦争に深くのめり込んでいく日本の姿そのものであった。

合同新聞は「仰げ護国の人柱 碧血に輝く郷土将兵の偉勲」「あゝ○○大尉 我が赤柴部隊に鳴る勇猛果敢」と大きく報道した。
岡山市の留守宅を訪れると、夫人は流石に武人の妻らしく、
「かねて覚悟をしてゐました。お国のために立派に働いたのですから思ひ残すことはありますまい、私としても武人の妻としていま更何事も申すことはありません」
と、少しも取り乱すこともなく言葉少なに語ったという。

この後も一貫するワン・パターンの記事が載せられ、銃後の国民はそうした建前に押し流されていくことになる。
こうした記事が、次々と新たにセンセーショナルな形容詞を冠せられて、紙面を埋めつくしていくのである。
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日中戦争と郷土部隊④赤柴部隊 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月16日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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(昭和12年)

赤柴八重蔵大佐が歩兵第十聯隊長に発令されたのが、盧溝橋事件から半か月後の7月22日。
聯隊への動員下命が7月27日。
応召者およそ5千名。

天津到着が8月18日。
「支那駐屯軍」と合流、任務は北京・天津地区の支那軍を膺懲し、同地区を安定さす」
作戦地域は「概ね安定」していた。

ところが
中国中央軍の予想外の進出・抵抗のため支那駐屯軍は廃止され、八個師団の第一軍・第二軍からなる「北支那方面軍」が編成され、
赤柴部隊は第二軍に属することになった。

北支那方面軍は「敵の戦争意識を挫折せしめ戦局終結の動機を獲得する目的をもって、速やかに中部河北省の敵を撃滅すべし」という任務を与えられた。
第二軍は天津から南京に向かう津浦線方面を南下する作戦に従うことになった。

敵は一撃ごとに、抗日民族統一戦線の態勢を整え、ますます戦闘意欲を高めてきている。
敵の戦争意識を挫折するというのは、永遠に交わることのない背反関係にあった。

赤柴隊も津浦線に沿って、滄県→徳県→済南→徐州→漢口へと、「鬼の赤柴隊」との異名をとって、多くの犠牲を出しながら、
まさしく日本が泥沼の破滅へと歩んでゆくのと、行をともにしたのであった。


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日中戦争と郷土部隊③山陽新報の日中戦争観 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月16日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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盧溝橋事件勃発直後から、事件の原因は中国側の抗日姿勢にあるとして、連日センセーショナルな報道を続けている。

8月16日の社説「断固膺懲に決す」において
「今度という今度は、断じて支那の常套手段に乗ぜられて姑息不徹底な解決に堕してはならない。
膺懲の鉄槌は徹底的に下さるべきである。
国民は挙国一致、政府を支援し、しかして皇軍の武威をもってするならば目的達成は近くにある」
と戦争意欲を宣揚している。

8月21日の社説「支那の実態暴露」では、いっそう露骨に表明している。
「事変発生以来今日まで支那軍の行える暴虐行為は枚挙に遑なきほどで、文化の光に浴したることなき蛮人と何等選ぶところはない。
こうした支那軍の狂暴性、残虐性は他面からすれば、支那軍隊の無規律、不統制によるものであり、更に進んでいえば、支那がまだ政治的にも、経済的にも、社会的にも、文化的にも、独立国家たるの資格を有せず、その実質を欠如せるによるのである」

こうした戦争観と中国観からする、「正義の皇軍」「暴戻の支那軍」という戦争報道がされた。

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日中戦争と郷土部隊②暴支膺懲(ぼうしようちょう)  岡山県史近代Ⅲ

2018年02月15日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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(昭和13年7月)

現地では、ともかく11日午後8時に停戦協定にこぎつけた。

ところが、同じ日
軍中央では「三個師団か四個師団を出して一撃し手を挙げさせる、一部兵力を残せば北支から内蒙古は思うようになる」
という拡大派が大勢を制し、近衛内閣は「重大決意」のもと華北へ派兵を決定、事件拡大に大きく踏み出した。

「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す」という、
極めて道徳的で感情的な戦争目的しか掲げることができなかった。

近衛内閣や軍人たちの、中国に対する優越意識は、万世一系の天皇を頂点とする国家が「面目」や「威信」を傷つけられた時、「反省を促す」ために「膺懲する」。


中支那方面軍司令官松井石根大将の言は認識の構造をよく示している。

「日華両国の闘争は「亜細亜の一家」内における兄弟げんか。
一家の兄が忍びに忍び抜いても乱暴を止めない弟を打擲(ちょうちゃく)するに均しく、可愛さ余っての反省を促す手段たることは余の信念なり」

ほんの一撃で降参するはずの中国軍の、予想以上の抵抗で大打撃を被った上海戦の後、いきあたりばったりで充分な補給もなく、略奪・強姦・虐殺を続けながら南京に殺到した日本軍の、あの南京大虐殺は「可愛さ余って憎さ百倍」の結果であった。


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日中戦争と郷土部隊①盧溝橋の銃声  岡山県史近代Ⅲ

2018年02月15日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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盧溝橋事件は偶発的な事件であった。
日本軍の満州での傀儡国家樹立とそれ以後の華北への侵略行動に対して、中国は、いつ何時でも日本軍に反撃を加え追い出す正当な権利を有していた。

「日本軍の面目が立てればよい」「軍の威信上奮起した」「我が軍を冒涜するも甚だしい」
というのである。

実際に損害を受け危険が迫っているとか、戦略・戦術上必要であったからというのは全くない。
非合理的な日本軍の優越感情、裏返して言えば、中国人に対する侮辱意識が、日中全面戦争の起点にあったのである。
非合理的なナショナリズムが、最低限の軍事的な意味での合理性さえ損なっていた。


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漢口攻略戦その五 北支への転進と凱旋

2018年02月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

父の所属する部隊の記録を転記する。

「岡山県郷土部隊史」より転記

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(昭和13年)

師団は11月29日漢口に着き、
翌30日鴨井丸・黒姫丸等四隻に乗船下航し、
12月5日南京に着き浦口より徐州を経由して12月11日石家荘に着く。

北支についた各部隊はそれぞれ、石家荘を中心として南北の各主要都市に分散して守備につく。
昭和14年にはいって第一期粛正作戦を四次に分けて行い、第二期粛正戦を行う。
8月11日復員下令をうけ、9月下旬から石家荘付近に集合し、
10月初旬青島を出発して10月中旬晴れの郷土に帰還した。

満二箇年聖戦の名の下に支那各地に転戦武勲の数々の中にとうとい犠牲となった勇士は七百余人、
第一中隊の如きは在籍者四百人のうち健在者はわずか七人にすぎなかったという。
戦いの現実は実に生命のやりとりで、残酷極まりないとの感を深くする。


昭和14年10月郷土に帰還した歩兵第十連隊はしばらく兵舎で英気を養っていたが、
翌昭和15年8月1日満州派遣の編成下令があり、8月7日編成完結し、いよいよ岡山を後に出陣し、8月12日宇品で乗船、8月16日羅津に上陸して、8月20日佳木斯(ジャムス)に着く。

佳木斯では対ソ戦車戦闘等に専念し、精鋭を誇っていた。
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漢口攻略戦その四 平靖関の攻撃

2018年02月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の所属する部隊の記録を転記する。

「岡山県郷土部隊史」より転記

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(昭和13年10月)

大迂回作戦の栄誉を樹立した毛利部隊は、戦塵を洗う暇もなく、霖雨で泥まみれとなって疲れた身体を10月16日より平靖関の攻略にとりかかった。
平靖関は武勝関と共に漢口北方の護りであった。

行軍二日突然山から砲弾が飛んできた。
平靖関の鉄壁にぶつかったのだ。
10月19日より、右第三大隊、左第一大隊で血闘の幕は切られた。
右第三大隊は右に第9中隊左に11中隊が二手に分かれて全面の高地に進出した。
第9中隊は10月22日から連日敵の逆襲を受け、集中砲火を浴び生地獄と化した。
この時生き残ったのは僅か17人。
壮絶な一夜が明けて第10中隊主力が来援して高地の死守に当たったが敵の逆襲は止まず白兵死闘のるつぼであった。
左第一大隊でも595高地を占領したが、それからはどうすることもできない。どの山にも敵がいる。

25日に漢口陥落のニュースが全軍に伝わり、苦戦の第10連隊各部隊に歓声が挙がり、兵隊の目に涙がにじんでいる。

大別山にわけ入って死闘10日間食糧は不足し籾から飯までにつくらねばならぬ兵站の兵の苦労も一通りでなかった。

10月27日夜敵は総退却した。
28日第10中隊を一番乗りに平靖関を通過して29日応山を通過し、付近に駐留する。
11月6日馬坪を出発し7日は徳安北方に露営し、8日徳安に入り、城内に駐留す。
11月12日各連隊より一箇中隊を抽出して漢口警備に当たることとなり13日孝安に宿営して16日漢口に着き特別第三区の警備につく。


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漢口攻略戦その三 信陽南方への迂回作戦

2018年02月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の所属する部隊の記録を転記する。

「岡山県郷土部隊史」より転記

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(昭和13年9月下旬)

羅山を出発した第33旅団は右・歩兵63連隊、左・歩兵10連隊が進むと、わずか5粁南進して王家湾で、北側斜面から急射を受け、逐次敵は兵力を増してきた。
歩兵は猛射のため前進できない。

10月1日頃より羅山西方8粁の八里店付近で敵は重砲・山砲を配して猛撃を繰り返し、信陽の攻防戦は最高潮に達する。
わが方は万全の準備を整えてじりじりと進み10月5日欄行舗を占領し、南方迂回の33旅団は10月5日青山を占領し京漢線へ後20粁に迫った。

10月6日京漢線は爆破され、敵の退路は遮断された。

6日間の山岳踏破の苦心を重ねた毛利部隊は突如信陽の南方に出現し、休む暇なく北上して山又山をこえて721.5高地に迫ったが、敵大軍の後方に進出したのであるから四面楚歌で、毛利部隊は死傷続出で信陽攻撃で最大の苦戦となった。
10月11日、戦車隊が少数の兵力で城門を爆破し、城壁の一角を占領する。

信陽陥落まで毛利部隊が払った犠牲は戦死57、負傷者111人に達した。

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漢口攻略戦その二 光州の攻撃

2018年02月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の所属する部隊の記録を転記する。
煙弾とはどうゆう類のものだったのだろう?

「岡山県郷土部隊史」より転記

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(昭和13年9月)
固始の堅塁は第8旅団が攻撃しこれを占領する。

固始を出発した第33旅団は、9月15日毛利部隊栗栖大隊が先頭となって第一中隊が尖兵となって前進する。
戦闘が開始されると行軍に疲れた兵士も緊張して落伍者は一人もいない。
七里崗が光州の前衛陣地である。ここではじめて煙弾を使用した。
しかし敵も防毒マスクを用意しており、煙弾の効果は薄い。

当時ノモンハンでソ連軍と激闘し第23師団はほとんど全滅、北支の重砲はこの方面に集中移動していたので砲兵がこの爆弾を使用した事も状勢やむを得なかった事かと想像される。

第一中隊は味方砲兵の突撃支援射撃に夢中で踊り込み敵の散兵壕を占領し、光州を眼下に見下ろす位置に立つ。
光州城へは後2粁。

次は第四中隊が進み、軽戦車が先頭に立ち9月17日午後クリークを境にして光州大城壁とにらみ合った。
夕刻栗栖大隊長は薄暮攻撃を命じ、第四中隊が城門に突進し、敵は逃げこれを占領した。

第二大隊は光山を占領する。
光州守備は第33旅団があたり、第8旅団が羅山に向かって進撃し9月21日これを占領する。

信陽を守備していたのは中央軍直結の師団、四川軍の師団が必死の防衛線を張っていた。
羅山に迫ったわが軍に対し、敵は信陽→羅山に向かって援軍を送り逆襲に転じて来た。
「岡田支隊(第8旅団)危うし」の報に毛利部隊も9月28日光州を出発して30日羅山に着く。
羅山に着いた毛利部隊は、第63連隊とともに大別山系に入り、信陽の南方に出て敵の退路遮断に挺進する。
当時羅山の第8旅団は26日から約3.000人の敵に包囲されたが、敵の機先を制して猛烈果敢な火蓋を切った。
このため敵の企画は画餅に帰し、算を乱して敗走し始めた。




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