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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

重慶爆撃--長期かつ大規模な都市無差別爆撃

2020年05月02日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
武漢占領で日本国内はお祭り騒ぎ、
現地では、漢口から軍機による重慶への無差別攻撃が始まった。

日中戦争全史・下 笠原十九司著 高文研 2017年発行

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重慶爆撃--長期かつ大規模な都市無差別爆撃

1941年9月、海軍航空隊がアジア太平洋戦争の開戦準備で各地へ移動した。
それまでの4年間、ほぼ連日にわたり、中国全土の都市・鉄道・軍事施設などへの爆撃をおこなった。
なかでも、
中国の鉄道と駅舎、中国空軍飛行場、海軍の艦船、民間の船舶への回数が際立つていた。
走行中の列車への爆弾投下など、対米戦争にみたて、格好の爆撃訓練になった。
数十機、さらには100機をこえる爆撃機・戦闘機の航空燃料は軍事機密として、どこからもチェックされなかった。

空爆作戦
日本軍が武漢占領後、蒋介石は重慶を臨時首都として、長期抗戦の基盤とした。
1938年12月、陸軍が最初の重慶爆撃をおこなった。
1939年になると海軍航空隊が加わり、本格的な重慶爆撃を開始した。
重慶の首都機能を徹底的に破壊し、降伏を強いる作戦なのである。

1939年の「53.54大空襲」
5月3日、1時間余りの爆撃で674人死亡、350人負傷、数百戸焼失。
5月4日夜、先に爆弾投下、後に焼夷弾投下。3318人死亡、1973人負傷、
イギリス大使館、フランス領事館にも爆弾が命中した。
アメリカのタイム特派員がスクープし、「タイム」や「ライフ」に掲載された。

百一号作戦
1940年5月から9月まで、海軍と陸軍が協同で重慶爆撃をおこなった。
汪兆銘の南京政府を「唯一化」にする目的だった。
従来、漢口を基地化していたが、より重慶に近い宣昌に飛行場を建設し、
当時の日本海軍航空隊の全攻撃力を漢口に集中して、重慶政府の崩壊を企図したのである。
重慶爆撃により、市街は瓦礫の街と化したが、日本軍の期待に反し市民の間に講和を求める声は湧きあがらなかった。
アメリカの対日経済制裁を呼び込む一因となった。
101号作戦終了後、陸軍が1943年8月まで重慶爆撃をつづけた。

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武漢作戦

2019年07月22日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

「第百一師団長日誌」伊東政喜中将の日中戦争 中央公論社 2007年発行より転記

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武漢攻略戦の発動

1938年(昭13)6月18日、初秋に漢口を攻略する方針が示された。
その背景には、同時に実施される広東攻略作戦と合わせて、実質的に中国を支配し得ると考えられたこと、またソ連の参戦はないと判断された。
7月末の日本陸軍の師団34個の配置は、
北支9個師団
中支14個師団
満州9個師団となり、対峙する極東ソ連軍20個師団と比べ著しく劣勢になった。

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武漢作戦の結果

日本軍は1938(昭13)年10月27日、目標の武漢三鎮の占領に成功したが、目的とした蒋介石政権の打倒はならなかった。
そこで陸軍は諜略耕作によって、国民政府内の親日派の中心である汪兆銘を離反させて蒋政権切り崩しをもくろんだ。
しかし汪につづく中国側の動きはなく、汪は日本の庇護のもとに日本占領地の南京に親日政権を樹立する。
地域住民の支持も少なく、44年に病死した。

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「生きてゐる兵隊」

2019年01月25日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
第一回目の芥川賞作家・石川達三は、昭和13年(1938年)1月中央公論派遣で上海に行き、戦場を見聞きし「生きてゐる兵隊」を書いた。
中央公論の昭和13年3月月号に発表された。この雑誌は発売即日に販売禁止になった。
石川達三は裁判で禁固4ヶ月の判決を受けた。
戦後すぐ、昭和20年12月に単行本「生きてゐる兵隊」が河出書房から出版された。

「蒼氓・日陰の村」昭和47年新潮社発行 より転記

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「生きてゐる兵隊」

さすがに無錫の守りは堅く、二日目の戦闘にもついに城門をぬくまでには至らなかった。
西沢連隊はこの日連隊旗手を失った。
弾丸はただ一発で彼の左胸部をつらぬき、担架に乗せられたときにはもう息は絶えていた。
「連隊長殿に、残念ですと、伝えてくれ」そういったのが最後であった。

戦闘は夜を徹して行われ、翌26日の朝になってようやく無錫は攻撃軍の手に陥ちた。
永い戦いに疲れ切った兵は市街の家々を占領し市民たちのベッドにもぐりこんで眠った。

友軍はさらに敗残の兵を追うて常州に向い、西沢連隊は無錫にとどまって三日間の休養をとった。
生き残っている兵が最も女を欲しがるのはこうゆう場合であった。
彼等は大きな歩幅で街の中を歩きまわり、兎を追う犬のようになって女をさがし回った。
彼等は一人々々が帝王の暴君のように誇らかな我儘な気持ちになっていた。
そして街の中で目的を達し得ないときは遠く城外の民家まで出かけて行った。
道徳も法律も反省も人情も一切がその力を失っていた。
そうして、兵は左の小指に銀の指輪をはめて帰って来るのであった。
「どこから貰って来たんだい?」
と戦友に尋ねられると、彼等は笑って答えるのであった。
「死んだ女房の形見だよ」


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満蒙問題

2018年09月02日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

民間人として満州に行ったおば(父の妹)は、「(日本人は)偉い思うとったから、戦争に敗けたらその反動が全部でた」と話していた。
軍人として中国に行った父は「悪いことをしただけでなく、良いこともしとる。例えば道路を造ったが、今でも使っているはずじゃ」
と”悪いこと”をした思いを持っていた。

しかし
例えば戦後に、満州開拓団は被害者という面からでしか語られていない。


戦前・戦中を被害意識でしか見ない今の史書は、他国から浮いていた戦前・戦中と共通した面があるように思う。



日中十五年戦争史 大杉一雄著 中公新書 より転記する。

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満蒙問題
日本が日露戦争の勝利におごって、韓国に対して高圧的な態度で臨み、ついに植民地とし、帝国主義国家への道を歩むに至ったのは残念な事実である。
たとえ朝鮮半島が日本の対外関係上、防波堤であるとともに橋頭堡とならざるを得なかったとしても、友好的な同盟国として韓国と共存するという選択はあり得なかったのであろうか。

日清・日露の戦争の犠牲によって獲得し、かつその保有が国際的にも認められている、南満州の権益を中国に返還するなどということは到底考えられなかった。
しかも、満州に関する限り日露戦争の結果は、それを支那のためにロシアから取り戻してやったのだという意識があった。
「満蒙は日本の生命線」という言葉は、必ずしも軍部や日本居留民だけのスローガンではなかった。

このような観念が最も露骨に現れたのが例の二十一ヶ条の要求であり、とくにパリ平和会議において中国の要望を無視して、ドイツの山東省権益の返還を認めなかったことは、「5・4運動」(1919)に代表される中国国民の激しい反発となり、中国ナショナリズムの憎悪の的となってしまった。

「満蒙生命線」論は当時の日本国民の共鳴と支持を受けていたが、中国にとっても「支那人は満州を以って国防の第一線と考えるに居れり」(国連リットン報告書)。
それにもかかわらず日本側の議論には中国への配慮はまったく払われていなかったといってよい。

だからこそ柳条湖で「暴戻なる」中国人により、満鉄線が爆破され(事実は関東軍)、それにより「隠忍自重していた」関東軍も、ついに出動したと報じられとマスコミも国民も、これを一斉に支持し同調するようになった。
しかも満州国を「独立」させ、事実上の植民地としたこと、すなわち満蒙を掠め取ったこと及びそれに対して国際的な非難をこうむったことに、それほどの罪の意識をもたなかった。

以上の事は、平和憲法のもとに50年生活してきた戦後派の人々には、理解できない部分があるかもしれないが、否定できない歴史的事実である。
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軍神西住戦車長のこと② 「西住戦車長伝」

2018年07月29日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

徐州会戦を舞台の小説に日野葦平の「麦と兵隊」があり、菊池寛には「西住戦車長伝」がある。
麦と兵隊には文学作品の匂いがあるが、西住戦車長伝は、いかにも英雄ムードの最中に世にせかされて書かれた感がする。

「菊池寛全集」より「西住戦車長伝」平成7年 高松市発行・発売文芸春秋より転記する。

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発端
戦車隊を率いて、上海戦を初めとし、南京、徐州の攻略戦に参加した細見大佐は、昭和13年7月内地への転任を命じられた。
各地の戦闘において斃れた部下の将兵の事を考えると、忸怩たるものを感じた。
戦死した将兵のことばかりが胸に浮かんでくるのであった。
殊に西住大尉は軍神西住戦車長のこと② 「西住戦車長伝」
、上海上陸依頼あらゆる戦闘に参加ししていたので、その追憶の情は一層深かった。
どんな困難な任務を命じても、大尉は冷静に沈着に気がるに遂行した。

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父からの手紙
小次郎殿
重ねて申しますが、音信がなくても、家郷のことなど少しも気にかけることなく、所謂忘私奉公の覚悟で奮励されうよう希望致します。
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素朴にして多くを語らぬ母堂は、
愛児の壮烈な戦死についての話を聞きながら、目を輝かしたが、涙はこぼさなかった。
「小次郎の霊よ、貴方の魂は今すぐ母の膝元へ帰ってはいけません。
貴方の魂は、最後まで大陸にとどまって、貴方の戦車隊を護りつつ、あくまで戦って下さい。
小次郎が亡くなりまして依頼、あれに夢を一度も見たことがございません」
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当局が発表した西住大尉井の功績
☆忠烈鬼神を泣かしむる鉄牛隊長
功四旭五 歩大尉 西住小次郎 熊本
・・・、偉勲を立てた。
次いで南京城攻略戦に参加し、更に徐州へ向かい進撃中昭和13年5月17日、敵を認めるや、猛射を浴びせて、大打撃を与え、北方に四散潰走せしめた。
尚も追撃し、クリークの為前進困難になるや、敵前にあって戦車より躍り出で、通過点を偵察して中隊長に意見具申のため追及中、右大腿部に重傷を負いしも屈せず、中隊長に「中隊は左より敵を攻撃すること可とす。」との最後の意見具申をなし、後重症の為後送途中、戦車内において「天皇陛下万歳」を三唱し、護国の神となった。
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戦死
隊長戦車に追及せしが、不幸にして敵弾を右大腿部に受け倒れたり。時に午後6時30分。
西住中尉の戦車から砲手高松上等兵直ちに下車応急処置、次いで隊長戦車近づくや中尉は「大丈夫です。」と元気に報告したりしが、負傷は大動脈を貫通し出血甚だしく戦場を離脱するに至れり。
而もこの間隊長に対し「隊は左より敵を包囲するを可とす。」の意見具申をなし「傷は軟部ですから大丈夫です。」等極力隊長の指揮を容易にし、心配をかけざることに努力したり。

中尉は午後7時30分衛生隊軍医より確実なる止血を受けたるも、既に出血甚だしく再び立つ能はず、死生を誓いし戦車の中に名誉ある終焉を遂げられたり。
「西住はお先に満足して行きます。隊長殿しっかりやってください。」
「御母様小次郎は先にいきます。」
「姉さん色々・・・(言語逐次不明)。」
「弟・・弟・・・立派に・・」
「天皇陛下万歳」
なお当番兵なる高松上等兵に対して、
「わずか1年で別れるとは思わなかった。これからは軍人の本心、軍人精神を基幹として隊長はじめ幹部方の教えに従って立派な軍人になれ。」と諭したり。
午後11時過ぎ遺骸は、愛車に依り隊の待機位置に到着し、隊長以下之を迎えたるも、もはや声もなかった。



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軍神西住戦車長のこと①

2018年07月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

父は昭和13年5月12日に宇品から天津に着いた。
天津からは済南に向かい、
5月15日に戦場へ到着、赤柴部隊長に拝謁、配属された。
以後徐州戦から漢口戦まで戦線に居た。

絵本や映画になった西住戦車長は5月17日に徐州戦で戦死している。
部隊は違えど、同じ徐州戦争に3日間、戦さ時間を共有していたことになる。

父は生前、戦車隊のことも”軍神西住戦車長”のことも話したことはない。
おそらく関係も関心もなく、軍神のことも知らなかったように思う。

以下はウイキぺディアを参考転記。
司馬遼太郎の説が妥当に思う。
それにしても軍神になると国民に対するプロパガンダが大掛かりだ。

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西住小次郎


日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。

戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された。
以降、西住は「軍神西住戦車長」などと謳われ、広く国民に知られることとなる。

西住が乗っていた1,300発にも及ぶ被弾痕の残る八九式中戦車は靖国神社で展示され、大きな話題となった。

子供向け
子供向けの伝記が数多く作られている。
小説と新聞
菊池寛『西住戦車長伝』は1939年(昭和14年)、東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載。
映画
監督は吉村公三郎、脚本は野田高梧が担当し、上原謙が西住役として主演。主題歌は『西住戦車隊長の歌』

 


『西住戦車隊長の歌』 歌:徳山璉 作詞:北原白秋、作曲:飯田信夫。発売:ビクターレコード。
『軍神西住大尉』 歌:ミス・コロムビア/松平晃 作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而。発売:コロムビアレコード。
『軍神西住大尉』 歌:霧島昇 作詞:西条八十、作曲:江口夜詩。発売:コロムビアレコード。
『軍神西住戦車長』 歌:樋口静雄 作詞:佐藤惣之助、作曲:佐藤長助。発売:キングレコード。
『聖戦の華』 歌:東海林太郎 作詞:藤田まさと、作曲:紙恭輔。発売:ポリドールレコード。

 

評価(司馬遼太郎)
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、西住と同じ戦車第1連隊の機甲兵将校だった作家司馬遼太郎は、
戦後『軍神・西住戦車長』というエッセイを発表し、戦車学校では「一度も西住戦車長の話をきいたことがなかった」、
戦車第1連隊でも「逸話さえもつたわっておらず、その名を話題にする者もなかった」と述懐している。
また、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことは間違いない」と認めつつ、
「この程度に有能で篤実な下級将校は、その当時も、それ以後の大東亜戦争にも、いくらでもいた」とし、
それにも関わらず西住が軍神になりえた理由を「彼が戦車に乗っていたからである」
「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があったのだ」と推察している

 

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慰問団と慰安所④女衒(ぜげん)

2018年05月30日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「人物日本の女性史」集英社・昭和53年発行
「からゆきさん」より転記

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女衒(ぜげん)
(明治中期ごろ、島原天草)
12、3才になると男も女も奉公に出した。
少女の働き場所と言えば子守が女中ぐらいであった。
貧しい娘たちが女衒(女を誘拐することを職業にしている男)にねらわれた。
女衒たちは立派な身なりをして、貧しそうな娘を見ると道端などで話しかけた。
女衒が狙うのは15.16才の少女たちであった。
「仕事が楽で、給料は3~4倍もらえ、仕送りが沢山できる」
「昼間働き、夜は裁縫や編み物を習わしてくれる」
と出鱈目を並べ、もの優しく話しかけた。

女衒たちは村々をまわって歩き、親をさそうこともあった。
貧しい親は、どうせ奉公に出さなければならない娘なので、つい金に手をつけてしまう。
村の娘はさそいあわせて、数人がいっしょに村を出ることもあった。

外国(上海・香港・シンガポール等)に着くと、お化粧し、三度三度白いご飯を食べさせてもらった。
娘たちが食べたご飯も、宿も、無料ではなかった。船員の買収費や、見張り番もみんな計算され、娘たちの借金として背負い込まされた。

せりにかけられ、売られ、借金はさらに水増しされた。

妓楼に売られも、まだ女中と信じたり、売春を拒否する娘には計算書をつきつけ、「この借金を払いさえすれば自由にしてやる」と言った。

楼主は休日を与えなかった。
からゆきさんたちは一晩中客をとらされた。
生理日は膣の奥に海綿をつめて客をとった。性交のたびに、性病をため洗浄液で局部を消毒し身体を冷やした。

マラリヤその他風土病や結核が多かった。立つことができる間は客をとらされた。
倒れると僅かな食べ物でほっとかれた。
享年は19、17,20とか、20歳以下である。
つまり30歳まで生きのびた女は数少ないという。

亡くなったからゆきさんの後には、また新しく誘拐されたからゆきさんが連れてこられた。
その頃、東京の吉原では南方へ売るとおどされると、怖れてふるえあがったという。


日露戦争は朝鮮・満州へつれていかれるようになった。
日本人の多くなった地域には、必ず料理屋、妓楼が開業して日本人の女が働いていた。
京城には、公認娼婦150~160人、非公認の娼婦1.000人以上になった。
大連に遊廓ができ、芸者160~170人、酌婦283人、娼妓113人、支那人娼妓76人、無許可・無届の売春婦は想像もできないと言われた。

盧溝橋事件後、日本の軍隊が駐屯して軍司令部ができると、間もなくして慰安所ができ、慰安婦と言う名の売春婦が送られてきた。

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慰問団と慰安所③慰安所

2018年05月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の話しによると
駐屯地に慰安所はあり、慰安婦は
日本人・・若くない(国内の遊郭からくる) 高い
朝鮮人・・若い 安い 日本語カタコト
中国人・・若い 安い 日本語駄目
ほかに
慰安所の外で中国人がいた。いちばん安いが、安全地帯でない。


人物日本の女子史11巻 「からゆきさん」池田みち子 昭和53年発行より転記


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日本人のいるところ何処にでも日本人の経営する花街があり、妓楼があった。
但し、日本人売春婦が相手にしたのは現地人ではなく、在留日本人であった。
かつては15,16歳の少女が女衒(ぜげん)にだまされて密航させられたが、日本内地の遊郭で借金がかさんで困っている娼婦がつれていかれたようである。

昭和12年(1937)
盧溝橋事件が勃発して以来、日本の軍隊は中国各地を攻撃して戦線を拡げた。
日本の軍隊が駐屯して軍司令部ができると、間もなく慰安所ができて、慰安婦が送られてきた。
日本人の女性だけでなく、朝鮮人の女も現地の女もいた。
慰安所が妓楼と違うのは、日本軍の直接の保護下にあって、慰安婦は日本の軍人だけを相手にしたことである。
兵隊が慰安所の前に並んで順番を持っているという話を聞いたことがある。慰安婦は食事をする閑がないので、寝たまま握り飯を食べたという話も聞いた。
昭和13年、
私は漢口にいた。街を疾走してきたトラックに、女が満載されていたのだ。トラックの中にたち、派手な着物をだらしなく着て、白粉気はなく、虚ろな目をして、疲れ果てた顔をしていた。
漢口で慰安所を開くか、もっと前線に送られるかだったろう。

日本人海外売春婦が完全に一掃されたのは昭和20年、大戦で負けてからである。
慰安婦たちも、慰安婦以外の売春婦たちも、内地へ引き揚げてきた。

日本内地で売春防止法が施行され、妓楼が取り潰されたのは今から僅か19年前であた。この時も反対する勢力があった。
つまり一般婦女子を性の被害から救うことができるという差別の考え方であった。


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慰問団と慰安所②麦と兵隊

2018年05月18日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記

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 7月7日の盧溝橋事件以来、朝日新聞が「皇軍慰問資金」を募集していた。
その総額が32万円にもなったという。戦争に対する国民のなみなみならぬ想いを知らされる数字で、
「今回、更に軍当局の援助を得て北支戦線および中支戦線へ慰問映画班ならびに慰問演芸班を派遣することに決定せり」

北支那・・・金語楼・アチャコ・ほか
中支那・・・石田一松・エンタツ・エノスケ・ミスワカナ・神田ろ山・林正之助ほか

兵隊落語で売り出し中の金語楼が団長で、エンタツ・アチャコがそれぞれに新しい相方と北・中支に行くという仕掛けのうまさが吉本興業らしかった。
吉本社長の林正之助は戦争が始まると同時に、一冊10銭の「読む漫才=皇軍慰問特選漫才集」を企画した。
慰問袋に入る薄さと手軽さが好評で、前線の兵士に人気を巻き起こした。兵士が欲しがる慰問品では、キャラメルに次いでいつも上位を占めた。
新聞記事は最後をこう結んだ。
「わらわし隊、いよいよ、1月15日出発」

わらわし隊北支班は、1938年1月15日、下関から大連に出発した。
大連で慰問演芸後、北京丸に乗って天津へ向かい、石家荘、彰徳、太原、ユジと中国奥深く入り込み、寒さに震え、死骸に脅えながら、慰問演芸をつづけた。
2月12日、天津に戻り約1ヶ月の公演を終了した。


わらわし隊中支慰問班は
長崎から上海に出発した。
3ヶ月の激戦後、前年11月12日に日本軍の手に陥落したばかりの上海の荒廃した様子に、一行は衝撃を受けた。
帰国後発売された『皇軍慰問の旅 わらわし隊報告記』で石田一松は「町はボロボロだった」と書いた。
一週間の上海滞在で21ヶ所の慰問を行った。
エンタツは朝日新聞の取材に「こんなに喜ばれるのは初めて。こんなに引っ張られては僕の細い腕がちぎれそうです」

エンタツ、エイスケ、一松、林正之助の四人は戦闘機で上海から南京に向かった。
飛行服を着てパラシュートまで背負った。ピストルを渡された。天蓋のない操縦席は吹き晒しで、怖さと寒さに脅えた。

ミスワカナの芸は、戦場各地でもっとも受け、笑いと共に迎えられた。
男尊女卑が当然の戦前に、相方で夫である玉松一郎を、テンポよく大阪弁で言い負かす可笑しさがあった。
一郎は反論もできず、ただ立ち尽くし「それは、それは」と繰り返すと、兵隊たちは手を叩いて喜んだ。
上官の言うことが絶対の軍隊にあって、日ごろ言えない不平不満を、兵隊たちに変わってぽんぽんと言い返す快感が、ミスワカナの話芸にはあった。

朝日新聞の成功に東京日日新聞もさっそく慰問団の企画を立てた。
慰問団長・東海林太郎、漫才、浪曲、曲芸師を加え陸軍省後援「在満皇軍勇士芸術慰問団」が新聞紙上で華々しく伝えられた。
東海林太郎は陸軍から呼び出され「いやしくも皇軍を慰問するに、日ごろ着ている燕尾服はやめていただきたい」
たずねると、
「ばかもん。この非常時に敵国の服を着ていいと思っているのか」

釜山から鉄道で満州に入った。
ハルビン、チチハル。チチハルからは軍のトラックで黒竜江に向かった。黒竜江に沿った黒河で「国境の町」を歌った。兵士たちの嗚咽で、太郎は歌いつづけることができなかった。


日野葦平は杭州にいて芥川賞が決まった。委員の小林秀雄が杭州まで来て授賞式を行った。
5月4日から徐州作戦に参加した。
5月16日夜襲を受けた。砲弾と負傷者のうねり声の中で夜が明けた。

麦畑の中を歩きつづけた。
どこまでつづいているのか想像もつかない。大麦、燕麦、小麦の海だった。
5月22日、葦平は上海に帰り、帰国後『麦と兵隊』を発表した。
9月に出版されると、120万部の大ベストセラーになった。
国民はだれもがなまなましい戦地の現実を知り、興奮したがっていた。
そこへ陸軍報道部が眼をつけた。
ポリドールの制作部長・藤田正人(まさと)は売れっ子の作詞家でもあった。
小説と音楽の一体化は成功すると直感した。
~徐州徐州と人馬は進む 徐州居よいか住みよいか・・・~
東海林太郎は「歌う兵士」の座をゆるぎないものにし、
藤田まさとは、「股旅もの」ジャンルとともに「前線歌謡」というジャンルを切り拓いた。
東海林太郎の歌は戦況の深まりとともに、奥深くへ進攻していった。






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慰問団と慰安所①

2018年05月17日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の話しでは、
父が北支や中支での野戦中、至るところに「慰問団」が訪れ
至るところに「慰安所」があったそうだ。
これは慰問団の話し


「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記

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それぞれの戦後


山田耕作は1948年脳溢血で倒れた。以後身体が不自由になった。

古賀政男は玉音放送を聞きながら引退を考えたが1946年5月歌謡界に復帰した。
「湯の町エレジー」「無法松の一生」など数々のヒット曲を出し1977年国民栄誉賞を贈られた。

渡辺はま子は慰問中で天津で捕虜。
1946年5月帰国、戦後もヒット曲を生み出した。

東海林太郎は、やくざと兵士ものを多く歌い要注意人物として、レコーディングの機会も阻まれた。1947年復帰、戦前の持ち歌を亡くなるまで直立不動で歌った。

西條八十はある日の新聞に、『比島決戦の歌』で進駐軍によって絞首刑にされるだろうと出た。
GHQはいちばん多く軍歌を書いた作者を調べ上げた。佐々木信綱と西條八十だった。一時、GHQは追放を決定した。しかし佐々木信綱が高齢のため施行されなかった。
石坂洋次郎の「青い山脈」が映画化されることになり、その主題曲を57才の西條八十が作詞した。
「若鷲の歌」で「七つボタンは桜に錨」と制服を歌ったが「古い上着よさようなら」とつづけた。
時代と併走しながら、人々の心に深く届くその時々の言葉を、いつでもやすやすと八十は紡ぎ出した。
「王将」では八十自信を語った。
~吹けば飛ぶよな 将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え
うまれ浪花の 八百八橋 月も知ってる 俺らの心

古関裕而は疎開先で、伊藤久男の様子を心配した。
戦時歌謡を歌いつづけた責任感からアルコール中毒になっていた。
「イヨマンテの夜」でようやく戦後を復活した。
「栄冠は君に輝く」「とんがり帽子」「長崎の鐘」「君の名は」「高原列車は行く」などの他、「東京五輪マーチ」など、戦後も名曲を残した。
戦後壊れても「比島決戦の歌」だけは、放送を許可しなかった。
1989年、没後、国民栄誉賞が内定したが、遺族が辞退した。



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