しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「斎藤のラーメンは汁に指を入れたまま・・・」客に出す

2024年02月07日 | 昭和36年~40年

戦後の笠岡では、”斎藤”といえば、それは中華そばを意味していた。
支那そば、中華そば、ラーメンと40年間ほど笠岡の中央でお店を出していた。


昭和が終わる頃、斎藤ラーメンもお店を終い、以後は現在まで笠岡ラーメンの超有名な”伝説の店”となった。

 

 

「斎藤のラーメンは指を汁に入れたまま・・・」客に出す

 

今から数年前のこと、雑談中に、年齢からみて実食の経験はないであろう方から
「斎藤のラーメンはどんぶりの汁に指がはいったままテーブルに置いてたんですよね」
という話が出た。
そうだった。
思い出した。
”斎藤”に行くと、いつも、という程ではないが、置く時に、よく汁に指をつっこんでいた。
でもそれは、見慣れてきた光景だった。
小学校の脱脂粉乳をアルミに注ぐ先生や生徒は、
注ぐ方も受け取る方も、指が粉乳に浸かっていた。
それは毎日毎日の日常風景だった。
ついでに言えば、自分はその頃
朝、歯をみがいたり、顔を洗ったりするのも稀だった。(週に2~3度)
母方の祖父母宅では箱膳で、椀も箸も洗わずに再使用していた。 

 

 

「斎藤のラーメンは客の残した汁を、・・・次の」客に出す


高校生の時、隣の席の人がヒソヒソと教えてくれた。
「斎藤がなあ、保健所から営業を止められたんでぇ。
残った汁を捨てずに、混ぜて、使うたんでぇ。
昨日から3日間、店は閉まっとるでぇ。」

ウチでは残りもんは、翌日も、翌々日にも食べていた。
それでも残って腐りそうなものは、
大きいものは牛、
小さいものは猫、
に回し、いよいよ食えないものは穴に埋めて堆肥としていた。
”斎藤”のことは、さして驚かないし、半ば普通のことと思っていた。


・・・

自分の思いは、貧しい農家の自分だけの思い出だけでなかった。
花の東京のど真ん中で、
時代の寵児だった舟木一夫さんと林与一さんが同じような経験をしている。

なにか安心したような気持になった。
それでブログ記事にして残すことにした。

・・・

 

舟木一夫・林与一、東京NHK裏で「客の残したラーメン汁を食べる」

YouTube
与一チャンネル「舟木一夫さんを語る」

舟木一夫さんとは昭和38年からのお付き合いでございまして。
大河ドラマ「赤穂浪士」でごいっしょし、気が合いました。
それでまあ、時間がある時に「ラーメンでも」って時代劇の衣装のまま内幸町のNHKの裏、
そこの屋台に入って食べたんですけど、今思うとよくあんなラーメンを食べられたなと思うのは、
あの食べおわるとですね。
食べ終わったラーメンをざるに落として、スープを残すんです。
それであの、バケツにいれたものを注いでやってたんですね。
今だったらもうあれ見たらお腹にはいらなくなっちゃうんですけど、
当時は平気で食べてましたね。はい。

・・・


東京よりも岡山県の保健所の方がきびしかったのか?
いやいや、
”斎藤”が、それにより客が減ったという話もなかったし、
運転の速度制限にたまたま掛かった、程度の感じでお店も客もみていたのだろう。

茂平の名産「干しイチジク」は、作っているところを”見たら食べれない”と思っていた。
NHKの赤穂浪士の放送から6~7年後、「干しイチジク」は食の安全に問題があり生産中止となった。
その頃から、やっと食の安全や衛生に国や国民が気にするようになった、ということなのだろう。

 

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