大正12年・関東大震災
「笠岡高校70年史」という本には、大12年の関東大震災の時、笠岡の町がそうとう揺れた思い出が載っている。
当時父は幼かったが、茂平も揺れて家の庭に常夜灯の宝珠の部分が転がり落ちてきたそうだ。
父の話・2000年11月23日
落ちてきた夜燈の石
七つの時じゃ。小学校へあがるときじゃ。おべえとる。
その時に夜燈の石が道に落ちそしてウチの庭(カド)に落ちてきた。
そわぁに揺れたんじゃ。
土台基礎はしゃんとしていたがテッペンはのせとけただけなんで、落ちた。
他に茂平に被害は無かった。
昭和14年・備中日照り
その年、茂平では八幡様で雨乞いの祈祷して火を焚いたそうだ。
山口では、ため池の工事が始まった。「奥山池」
(奥山池は昭和18年に完成した。 笠岡市山口 2020.4.11)
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「城見のあゆみ」 城見地区まち協 2017年発行
茂平の八大龍王です。
龍王は通常山の頂上近くちょっとした広場に祀っていて、 いざという時には、「千把炊き」 とか 「千貫炊き」とか言われるように
草木を炊きあげて雲を呼び雨を降らそうというものですが、
茂平では、八大龍王ということで8本の石を海岸に横たえ、雨がほしいときは寝ている石を立ち上げて、
龍王の怒りをかって雨にありつこうというものです。
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「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行
大門町東谷
昭和12年8月27日午後11時本村に70名の充員召集令状来る。
昭和14年村内の旱魃
5月田植えの際はかなり池の貯水もあり、田植えも完了せるに、
其の後天候引き続き旱天にて遂に出穂期にも降雨なく、肥料は殆ど全部に渉り施肥ずみなりしも出穂せず。
野々浜、河口池掛及び其の他少々の収穫を得たり。
全村にて91町歩の免租地を出せり。
故に全村にて食料を一か年完全に食する家僅かに数戸なり。
対策として土木事業即ち、池の修繕にて就労す。
男一人 1円20銭~1円30銭
女一人 80銭~90銭
野々浜森池は此の年新たに築造されしと聞く。
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「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行
森池
昭和14年頃から工事が始まった。
毎日50人位の地元の人が、朝の8時から晩の5時ごろまで働く。
補助金か何かあったのだろう、成人男子で1日1円20銭の手間賃が出た。
婦人や中学生はそれより安かった。
皆人力で、つるはしやモッコ、トロッコなどで作業した。
工事の大半は築堤に費やされ、4反ほどもある堤防の敷地の上に土を運んではつき固め、また土を積む、という作業を繰す。
地固めには松の胴切りに柄を二本付けたのをもって、土をつき固める。
堤防の核として、水の漏れない粘土質の土を使った「千切り(ちぎり)」を入れて築いてある。
森池が完成したのは昭和16年だったと思う。
ここで子供らはよく泳いだ。
わしは子供の頃、6尺ふんどしを垂らしたのを着けて、海の樋門の欄干から外海に飛び込みをしたりしてえっと泳いだ後、
タオルをもって森池に入り、立泳ぎをしながら洗って塩を落としたものだ。
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「福山市多治米町誌」 多治米公民館 平成5年発行
連隊41連隊
昭和14年の旱魃
41聯隊でも節水を実行。
1日1食はパン食とし、洗濯、水浴のため芦田川上流大渡瀬橋まで度々行軍をしたという。
帝国染料も操業中止となり、井戸を掘り、ポンプ増設した。
新涯のものは、一合の米も取れずに全部買って食べねばならなかった。
平成30年の「2018西日本豪雨」
ヒルタ工業で6人生き埋め、そのうち2人死亡。