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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の自然災害②関東大震災ほか

2025年07月06日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

大正12年・関東大震災

「笠岡高校70年史」という本には、大12年の関東大震災の時、笠岡の町がそうとう揺れた思い出が載っている。
当時父は幼かったが、茂平も揺れて家の庭に常夜灯の宝珠の部分が転がり落ちてきたそうだ。

 

父の話・2000年11月23日

落ちてきた夜燈の石

七つの時じゃ。小学校へあがるときじゃ。おべえとる。
その時に夜燈の石が道に落ちそしてウチの庭(カド)に落ちてきた。
そわぁに揺れたんじゃ。
土台基礎はしゃんとしていたがテッペンはのせとけただけなんで、落ちた。
他に茂平に被害は無かった。

 


 
昭和14年・備中日照り

 

その年、茂平では八幡様で雨乞いの祈祷して火を焚いたそうだ。
山口では、ため池の工事が始まった。「奥山池」


(奥山池は昭和18年に完成した。 笠岡市山口 2020.4.11)


・・


「城見のあゆみ」 城見地区まち協  2017年発行


茂平の八大龍王です。 
龍王は通常山の頂上近くちょっとした広場に祀っていて、 いざという時には、「千把炊き」 とか 「千貫炊き」とか言われるように
草木を炊きあげて雲を呼び雨を降らそうというものですが、 
茂平では、八大龍王ということで8本の石を海岸に横たえ、雨がほしいときは寝ている石を立ち上げて、 
龍王の怒りをかって雨にありつこうというものです。 

・・・

 

「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行

大門町東谷

昭和12年8月27日午後11時本村に70名の充員召集令状来る。
昭和14年村内の旱魃
5月田植えの際はかなり池の貯水もあり、田植えも完了せるに、
其の後天候引き続き旱天にて遂に出穂期にも降雨なく、肥料は殆ど全部に渉り施肥ずみなりしも出穂せず。
野々浜、河口池掛及び其の他少々の収穫を得たり。
全村にて91町歩の免租地を出せり。
故に全村にて食料を一か年完全に食する家僅かに数戸なり。
対策として土木事業即ち、池の修繕にて就労す。
男一人 1円20銭~1円30銭
女一人 80銭~90銭
野々浜森池は此の年新たに築造されしと聞く。

・・・・

「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行

森池

昭和14年頃から工事が始まった。
毎日50人位の地元の人が、朝の8時から晩の5時ごろまで働く。
補助金か何かあったのだろう、成人男子で1日1円20銭の手間賃が出た。
婦人や中学生はそれより安かった。
皆人力で、つるはしやモッコ、トロッコなどで作業した。
工事の大半は築堤に費やされ、4反ほどもある堤防の敷地の上に土を運んではつき固め、また土を積む、という作業を繰す。
地固めには松の胴切りに柄を二本付けたのをもって、土をつき固める。
堤防の核として、水の漏れない粘土質の土を使った「千切り(ちぎり)」を入れて築いてある。
森池が完成したのは昭和16年だったと思う。

ここで子供らはよく泳いだ。
わしは子供の頃、6尺ふんどしを垂らしたのを着けて、海の樋門の欄干から外海に飛び込みをしたりしてえっと泳いだ後、
タオルをもって森池に入り、立泳ぎをしながら洗って塩を落としたものだ。

・・・


「福山市多治米町誌」 多治米公民館  平成5年発行

連隊41連隊
昭和14年の旱魃

41聯隊でも節水を実行。
1日1食はパン食とし、洗濯、水浴のため芦田川上流大渡瀬橋まで度々行軍をしたという。

帝国染料も操業中止となり、井戸を掘り、ポンプ増設した。
新涯のものは、一合の米も取れずに全部買って食べねばならなかった。

 


平成30年の「2018西日本豪雨」

ヒルタ工業で6人生き埋め、そのうち2人死亡。

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茂平の自然災害①茂平の堤防が決壊した

2025年07月05日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

茂平の自然災害で最大のものは、明治17年の堤防が決壊し海水が流れ込んだことだろう。
隣の大津野村は死者5名、茂平は犠牲者はでなかったようだ。

 

 

 

2021年6月28日・当ブログ

子供の頃、祖母は「昔堤防が切れて海水が流れ込んだ」ことを何度も話していた。
昔というのは、祖母が若いころ経験した事だろうと思っていた。
祖母は明治28年に茂平で生まれた。
堤防が決壊したのは明治17年の事で、未曾有の出来事を祖母は自分の親や近所のおじさんたちから聞かされていたのだろう。

 

山陽新聞に明治17年の水島の決壊記事が載った。
記事を読むと140年前の、茂平の先人たちが体験した恐怖が蘇るようだ。

・・・

 

2021年6月18日  山陽新聞・文化欄 「温故知災・苦難の歴史に学ぶ」

「福田新田の悲劇---高潮の猛威」堤防決壊、次々と家屋漂流

 

福田新田旧5ヶ村(現在倉敷市北畝、中畝、東塚、南畝、松江)は幕末に誕生し、500ヘクタールを超す新たな農地をもたらせた。
周辺の村から入植した人々は、水はけの悪い低地がら米、綿、サトウキビ、梨などの栽培に励んだ。
だが徐々に生産が軌道に乗り始めた1884(明治17)年8月25日、悪夢のような災害に襲われる。


「雨戸は弓のようにしわり込み」、猛烈な嵐から、わら葺きの家屋を必死に守る住民たち。
日付が変わるころ、暴風の中で叫び声が聞こえた。
「堤が切れた、堤が切れた」

吹きつける暴風と台風通過に伴う気圧の低下、そして大潮と、高潮災害が起きる悪条件がいくつも重なった。
押し寄せる高波に、干拓地の西、南を囲っていた堤防が次々と決壊。
内部に海水が流れ込んだ。
住民の多くは暴風雨に耐えることに懸命だったため、潮水が屋内に浸入して、初めて事の重大さに気付いた。

「戸の隙間からドウドウと水がはいりだした。避難するところは何所もない」
追い詰められた人々は屋根の上へ逃れるよりしかなかった。
暴風の中、屋根わらに必死にしがみついたという。

高潮の猛威はさらに続く。
多くの家屋が水の勢いに押し倒され、住民を屋根上や屋内に残したまま、漂流し始めたのだ。
漂流する家同士がぶつかり、崩壊するなどの悲劇が各所で起きた。

ようやく空が白み始めたころ、
流された家々は福田新田の北、福田古新田との境にあった土手に折り重なるように漂着していた。
「青田、民家は残す所なく泥海と化し去り」
子を失った親があてもなく探し歩き、濁流の中で力尽き、妻子の手を離した者が大声で泣く姿など、
惨憺たる状況を遭難記は伝える。

1年後、当時の県令が慰霊のため「千人塚」の碑を建立している。
旧5ヶ村の住民は「千人塚奉賛会」をつくり、今も輪番で供養祭や清掃活動を行っている。


・・・

「岡山県史」

1884(明治17)の大津波

8月25日夜半から26日未明にかけて台風が襲来したため起こった災害である。
折からの満潮と重なり、高潮により堤防が決壊し、海水が広範囲にわたり流入し、未曽有の大惨事になったのである。
『山陽新報』は、
小田郡笠岡村は其の災を被る尤も甚だしく、海岸に添える人家80余戸尽く破壊し、
港中にある三百余艘及び港外に停泊する者皆市中に打ち上げられ、市中の高処と雖も尽く海水に浸され、
中の町筋は市中の中央なれとも、座板より水の高きこと数尺に及べり、人民は家具も何も捨て置て其の身のみ脱れ出て、
山上へ我も我もと逃げ登れり
と報じている。

・・・

「岡山の災害」 縫郷巌 岡山文庫 平成元年発行

明治17年の大津波

この年8月25日夜、台風が襲来し、ことに現在の水島・玉島 (旧福田村、連島村等)は 大津波が海岸堤防を破って押し寄せ大災害となった。


被害の状況
死者・行方不明 655人
家屋の流壊 2.217戸
田畑の荒廃 2.427町
25日午後4時ごろから雨を交えた東南の 風が強くなり、午後10時ごろから烈風雨、同12時ごろ数分間風力衰え(台風の目通過か)、
風向は南西に転じて、再び前に倍する勢力となった。 
折から海が満潮となったので、激浪が海岸堤防を崩し、大津波となって陸地に押し寄せ大被害となった。

被害激甚地 松江、南畝、東塚、中畝、鶴 新田、乙島勇崎の各村
被害甚大地 北畝、福田古新田、広江、呼 松、柏原、黒崎、寄島、西ノ浦、笠岡、 西浜、茂平、神島等

また、同日の津波は、遠く離れた和気郡日生・穂浪両村にもあり、両村で死者・行方不明12人、流壊家屋9戸の被害があった。

この災害にあたり、県は罹災者に対する食料、仮設住宅、農具などの支給、義援金募集(実績3万1千余円)など積極的な救援を行った。
また、皇室からの恩賜金3千円をもって蒲団2.600枚を作り罹災者に配付している。

 

・・・

「福山市史・上下巻」記述なし。

・・・

「倉敷市史」記述なし。

・・・


「寄島町史」

明治17年8月の高潮。
8月25日の夜、岡山県南部を襲った暴風雨は高潮を伴い激波は堤防を崩し、海岸を越えて陸地に襲いかかり、
居宅の流失するものも多く、深夜殊に暴風猛雨の間に襲ったためおびただしい溺死者を出した。
「岡山県の歴史」によると県全体では流失戸数2.217戸、死者不明655人、廃荒田畑は2.427町歩で、被害の最も大きかったのは水島灘沿岸であった。

本町では8月25日午前11時頃から空が曇り、豪雨が襲い、耳をつんざく雷も加わり、東から吹きたる暴風に怒涛は堤防を乗り越えた。
人々は必死になって防御に努めたので、昼間は幸いに何事もなかったが、夜半になって猛雨が西からきて奔涛激波がついに塩田の堤防数か所を崩し、
潮流一時に襲来するに及んでたちまち人家を浸した。
老幼男女は悲鳴をあげて避難し、家財は顧みる暇がなかった。
被害は、死者4、負傷8、流家39、破壊家13、破損家194、破損船63、流失船7、・・・・。
「寄島町沿革史」によると、路傍に泣き砂上に伏臥するもの数百名、目も当てられぬ惨状であった。
大浦神社の東馬場裏に大船が上がり、駐在所の屋根に小舟が打上げられていた。
・・・・その後、漸次冷気に向かい一層の餞寒を憂え、窮民一同が郡役場へ救いを求めに行こうとしたので、
斉藤戸長がこれを制し、郡長あてに伺書を提出した。


・・・

「大津野のあゆみ」

8/15大津波のため堤防破壊する。
耕地浸水90町歩、死者5名、一夜の内に郷頭山、烏帽子山の下まで一面の青海となる。(翌年修復)
時の戸長神原神次郎ほか3名が、県庁に嘆願し、国家補助を仰ぎ、堤を修復した。


・・・

東谷公民館新築記念ふる里のあゆみ」(福山市大門町) 昭和52年発行

明治17年7月5日夜

「堤防破潰し一夜の間に郷頭山、烏帽子山下まで一面青海となり、耕地浸水90町歩、田面の作物は海藻と化し、死者5名を出し、其の上家畜及び家屋の損害多く惨状を極めたり。と記録あるも家畜、家屋の被害の詳細判明せず。


・・・

「孫たちに語りつぎたい金浦

被災地区・吉浜。
7月、大嵐、大津波、生江浜・新川の両堤防決壊、家屋流出あり。

・・・


「城見村史」

本村漁業は往昔より副業的に営み来たりたる者の如し。
明治初年頃より17年頃迄は大部分打瀬網漁業を農業の副業として経営して来るも、
明治17年海嘯(津波)に依り漁船の破壊と共に漸次衰退に趣き、
爾来甚だ振るわず。
皆農業の兼業として、専業と目すべきもの極めて僅少なり。

・・・

 

 

 

 

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茂平新四国霊場

2025年06月29日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

子どもの頃から茂平の88ヶ所の存在は、道べりに碑が建っていたので知っていた。
「ここは88ヶ所」と教えてくれる大人や子供もいた。
しかしお詣りする姿は一度も、一人も、見たことはなかった。


笠岡市内には二十余りの「88ヶ所霊場」があるが、「神島88ヶ所霊場」を除いてお遍路さんを見たことはない。
今はその神島でも、見ることが少なくなった。お遍路さんの宿も減った。

茂平の人々も、茂平に88ヶ所霊場があるのに、神島を巡礼した。

小田郡誌によれば大正時代にすでにすたれている。
父の話も同じで、
村民の苦労して造ったであろう「茂平88ヶ所霊場」も20~30年の繁栄でおわったみたいだ。

 

・・・

「城見のあゆみ」

 

・・・

 

「小田郡誌」

茂平新四国

明治11年頃本村大字茂平に新四国八十八ヶ所の霊場を安置し一時巡拝者多数ありしも今日に於いては漸次頽廃しつつある。

 
・・・

(父の話)


茂平新四国

(大正初期にはもう、すたれていると記されているが?)

昔はよその村からも参りょうたらしい。
今は誰もおらん(参らん)。
海の堤防も奉っていたのがのうなかったし。


2001年7月14日


・・・

「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

 八十八力所
「お大師さん」と一般にいわれるのは弘法大師のことである。
真言宗の盛大な矢掛地方では「お大師めぐり」といって、本四国や町外では神島(笠岡市)、小豆島、それに町内の「お大師めぐり」が行われている。
また、「西国めぐり」の団体をつくり、巡拝が行われ、近くの観音順拝もなされている。
また、毎月21日の「大師講」では部落や 講組の親睦もはかるおおらかな信仰が行きわたっており、庶民の信仰にねざしたものであった。


巡拝霊場は「四国八十八ヵ所」系と「観音巡拝」系があり、
後者の霊場の方が早くから始まったようである。
四国めぐりは近世後期ごろに、やや遅れて始まったと思われる。


・・

 

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砂川のホタルと誘蛾灯

2025年06月29日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

ホタル

かまんどーから砂川への道。
その下の水路(溝)に蛍が飛んでいた。

梅雨明け頃から蛍が飛び、夕方になると近所の子3~4人で、竹箒と小箱を持ってホタルを取りに出かけた。
ホタルは飛ぶスピードが遅く、しかも低空を飛ぶので取るのが簡単だった。

ホタルは”水ボタル”と呼ばれ、溝の水中で光るホタルがいた。
この水ボタルは、目が光る蛇と似た光で、間違えて蛇を握る子が多かった。
それで自分は空を飛ぶホタルしか取らなかった。

取ったホタルは家に帰ると、蚊帳の中に放した。
その光の中で寝ていたが、
翌晩、そのホタルがいたためしがない。
逃げたのだろうか、死んでいたのだろうか?


学校に行くと、用之江の子は「源氏ボタル」を取ったと話していた。
茂平には小さな「平家ボタル」しかいなかった。ちょっと悔しい思いで聞いていた。



 

誘蛾灯


砂川や西谷に誘蛾灯があった。
蛍光灯が付いていた。
真っ白い灯りだった。
大きくまわりを照らしていた。
蛍光灯のまわりには大きな蛾やカナブンが近寄り、
受け皿には昆虫の死骸が浮き、殺虫剤の強烈な匂いがしていた。


 

「里庄町誌」 里庄町 昭和46年発行


誘蛾灯

不夜城の点燈風景 病害虫防除の大敵は二化メイ虫なので、明治40年頃から小学生はそこここの苗代に入り、 
何百というメイ虫の卵をとっては村役場から半紙をもらった。
そして昭和14年頃から水田の中に多数のカンテラの下に水盤をおき点灯し、夏の稲田を明るくしてウンカを誘殺した。
それが昭和22年頃からは螢光灯に変わり列車の窓からの夜景は真に不夜城であった。
ウンカは年柄により異状発生するので最も恐れられた害虫で 、 これに対しては竹筒に油を入れて水面にたらし、ワラで作ったホウキのような物で、稲の茎に油をはね散らして駆除し、これは終戦前まで行なわれた。
そして同27年頃からDDT、BHC等の農薬が輸入され、つづいて 有機隣製剤等の殺中剤のさん布で、螢光灯もやんだ。

 

・・・

茂平の家々に蛍光灯はなかった。
丸い電球のマツダランプしかなかった。


町のランプが お花になった
マツダランプだ 明るく咲いた
とんとん東芝 


ラジオからは、この歌がよく流れていた。

 

・・・

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つぼき(肥溜め)の話

2025年06月28日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

「つぼき」は農家は一つ、必ずもっていた。つまり150程度の「つぼき」が茂平にあった。

匂うので・・・家から近くなく
運ぶのに便利だから・・・家から遠くない
微妙にむずかしい(?)距離の場所に「つぼき」はあった。


「つぼき」には蓋をするつぼきと、蓋をしないつぼきがあった。
たいていの「つぼき」には蓋がなかった。

 


城見小学校からの帰り道沿いには「用之江」「茂平」で何ヶ所かあったが、
道ともとれる場所に、二ヶ所のつぼきかあった。
これが油断できなかった。

学校に行く時はせっせと前に進むが、下校時は気が緩む。
遊び遊びしながら学校から帰る。
そうゆうとき、ゆだんをすると「つぼき」にはまる。
はまったら悲惨である。
顔を除くほぼ全身に、液と固形が混じったものが付く。
こうなると、いっしょに遊んでいた子どもは皆離れる。

ツボキの場所だけは心しての学校の帰り道だった。

 

 

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茂平の港に来る船(糞船・祇園詣り・打瀬・瀬戸の花嫁)

2025年06月28日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

糞船

昭和25年前後の数年間、
茂平の波止に神戸から「糞船」と呼ばれる船が来ていた。

茂平の農民に限ったことではないが、町の人の「人糞」や料亭街の「人糞」は人気が高かった。
江戸時代の江戸周辺の農家では、江戸城大奥のものが”特上品”だった。

 

(父の話 2001)

肥えを積んだ船が茂平に来ていた。

神戸から来とった。
船の真中辺に肥えを積んどった。

それを金を出して買おとった。
浜に入った船に荷車にニ盃積んでしんがいの畑の野つぼに移し、せえから、また船に行って買おて今度は他の畑にうつす。


そわあなのは戦中から戦後まで3~4年続いたじゃろうか。


(人糞肥料はどんな野菜や果物に適していたのか?)
何ににも効きょうた。

 

・・・

「瀬戸内文化誌」  宮本常一  八坂書房  2018年発行

肥買い船 

讃岐の国は古くから人の充ち満ちた所であって、土地はすっかりひらけつくされていたと言っていい。
そして農業なども殊の外よく発達して、徳川時代には砂糖の産地として名高かった。
綿なども相当に作っていた。
従って早くから肥料不足になやんでいた。
阿波藍は関東の干魚をその肥料 としたのであるが、讃岐では古くから大阪の下肥を買う風があった。
今度の戦災で大阪の町が焼けてしまっているから、どうなったかよく分からぬが、
それまでは日々多数の船が来て、これを海を越えて運んだのである。
そして一日の量が800石(144.000リットル〕に及んだという。
大体我々の一日にす糞尿の量は平均6合(1.08リットル)である。
そうすると800石は133.000人の量になる。
これだけのものが日々海をこえていた。
この交渉も前述の如く古くからのことであったが、明治大正になってこの風は著しく助長されたようである。
というのは昭和10年頃、大阪市港区に在住する香川県人のみで、18万にのぼっていたという事実からも察せられるのである。
肥船もこれらの人たちを慕ってきたようで、讃岐の人は大阪で飲食しても、その糞便で故郷の土をこやしていたのである。

大阪の灰屋たちは町の灰ばかりでなく、 始終火を焚いて暮らす所には一々目をつけていた。
塩田の塩炊き小屋などはその一つであって、灰買船が時折はこの塩やく煙たつ所によってきた。

瀬戸内海の沿岸にはこの外に瓦をやく所が多かった。
これによって日本の中でも最も早く瓦屋根にかわってきたのである。

よいワタを作るには肥効の高い肥料を必要とする。
そのため魚肥を用いた。
海岸に打寄せたゴミや町家でできるゴミをあつめた。 
能美のゴミとり船の名は広島湾内の人ならば誰でも知っている。
生口島の瀬戸田では沖へ漁に来る能地の船が屎尿を海にたれ流しにしているのを見ておしみ、海岸に小屋を建ててそこに住まわせ、 その屎尿を汲みとって畑に入れたという。

日本へ化学染料の入ったのは明治10年頃である。
それから徐々に化学染料が用いられるようになり、 現在では植物染料はほとんど姿を消している。
そればかりではない。子供たちの木綿の着物すら探しても目につかぬまでになって来た。

・・・

祇園詣り

鞆の祇園さんへ遊山船が行っていた。
大きな旅客船なので満潮時に入港し、満潮時に帰港していた。
大きな船といっても、(茂平の漁船よりは比較にならない)、まあ20トンくらい。
お客を波止から伝馬船に乗せて、本船へ乗船させていた。

自分は乗ったことも、行ったこともないが、その日は指を口にくわえて樋門から眺めているだけだった。

 

打瀬

打瀬船が茂平に接岸して、獲った魚を笊に入れて、売り歩いていた。
その漁師は素足で行商するので、子どもは「裸足のおっさん」と呼んでいた。
茂平には西浜(ようすな)の庄やんが決まった時間に売りに来ていたが、
「裸足のおっさん」は不定期で、売る量も少ないが、獲れたての魚を売っていた。


瀬戸の花嫁


島の人は島の人と結婚することが多かったので、
茂平の港に「瀬戸の花嫁」が嫁入りして来るのは珍しかった。
最後の瀬戸の花嫁は昭和30年。

 

娯楽が少なかった時代で、貧しい時代。
船での嫁入りは見世物(娯楽)と、嫁菓子を楽しみに
その日、茂平港は黒山の子供たちでにぎわった。

 

 

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初めて茂平にバスが来る

2025年06月27日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

現在の山陽本線が出来たのは明治24年頃だが、
茂平には鉄道もバスもなく、町に行くには、徒歩か自転車で大門駅まで行く。
大門駅から汽車に乗って「福山」か「笠岡」に行く。
それが昭和33年頃まで続いた。

昭和33年、井笠バスは「茂平行」⇔「笠岡駅行」の運行を開始した。
その頃流行歌で「東京のバスガール」がヒットしていた。
歌とは違って、
「バスガール」でなく「バス兄さん」の車掌が多かった。

バスはボンネット形で、狭い凸凹道をトコトコ走り、
中村メイ子が歌う「田舎のバス」によく似ていた。
茂平~笠岡間で1~2度ほど対向車が来た。
その時は、たいていの場合ひともんちゃくあった。


茂平園芸事務所で折り返し運転で、
番屋のおばさんが切符を売りに来ていた。
番屋のおばさんは冬の朝は一斗缶で火を焚き、運転手・車掌、客をもてなしていた。

 

・・・
何とかならぬか悪道路 


道路の舗装の方はどうかというと 現在舗装のできているのは岡山、倉敷、玉野、玉島各市の周辺わずかに総延長128キロに過ぎない。

昭和31.5.20 山陽新聞

・・・

茂平~笠岡駅の舗装道路は、吉浜~金浦口、笠岡駅前ぐらいだった。余裕で対向車とすれ違える道幅の区間は、まったく無かった。

 

 

 

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茂平小学校跡に関する事

2025年06月27日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

茂平に鳥飛小学校が存在したのは明治5年から大正3年までの42年間。
用之江に現在の城見小学校が新築された時、鳥飛小学校は統合された。
明治5年~明治39年は4年制度、
明治40年~6年制度。

自分の祖父は4年プラス高等科2年の就学で、高等科を出ていることとABCを書けることを自慢していた。
その後、義務教育が6年制になると”高等科”は11.12才から、13.14才へと変わった。

父が城見尋常小学校を卒業する昭和初期は、
中学・実業・女学校に進学しない人は、ほぼ全員高等小学校へ進学。事実上義務教育は8年以上となっていた。


・・・


全国平均では、初め女子の就学率が低かった(明治8年で35%)が、
明治38年には96%となっている。


子どもの頃、茂平の近所に、文盲の老婆が2人いた。
世間的には「幼いときに不運なことがあったのだろう」という感じで、マンが悪かった人と見られていた。

生活するうえで文盲で不便なことは「手紙を書けない」こと。
野口英世博士の母は、わが子に手紙を書くため文字を覚えたが、それは偉人の母。
茂平に嫁入りしたばかりの母は、近所の老婆から「手紙の代筆」を頼まれていた。

城見小学校では運動会や学芸会のプログラムを家庭配布する時、
「読めない人がいるので、その時は必ず読んであげるように」と校長先生が言っていた。
生徒はそれがどこの家、というのは上級生からの言い伝えで皆知っていた。

 

 

・・・

・・・

「小田郡誌」


小学教育

明治23年4月城見小学校(用之江・大冝)と改称し、尋常茂平小学を本校の支校とす。
明治26年8月城見尋常小学校と改称し支校を文教場となす。
明治39年4月高等科(終業年限2ヶ年)を併置す。
大正3年3月分教場を廃止し、改築の用之江に移転す。
大正4年度末の児童数、
尋常男164
尋常女171
計335。

※明治40年以降(尋常6年)、それ以前は(尋常4年)

・・・


「城見のあゆみ」 城見地区まち協  2017年発行

鳥飛小学校

明治9年(1876)
茂平・男 人口367 生徒 52
茂平・女 人口366 生徒 14

教育制度の整備については、明治5年(1872年)の「学制」。
「村に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」と、かなりの力みが感じられます。 
女子の不就学生徒がかなりあると言うことです。また、4年生までが義務。
明治6年、茂平村に「鳥飛校」、大宜村に 「新開校」、 用之江村に「明道校」が開校しました。
同23年(1890年)、尋常城見小学校と改称、尋常茂平小学校を支校としました。
同34年(1901年)には、 実業補習学校を併設しました。
大正3年(1914年) に、 用之江の字 「空の下」 に校地を選定し、 校舎を新築して移転しました。
同5年(1916年) に高等科を併設し、 城見尋常高等小学校となりました。

 

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茂平小学校跡②ごらく場に旅芸人がやってくる

2025年06月26日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

戦前も旅芸人一座は茂平に来ていたと父は話していた。
戦後も「ごらく場」が無くなるまで芝居の見世物が来ていた。

4~5人程度の一座で、人情ものの芝居をしていたような記憶がある。
歌や浪曲はしていなかった。芝居だけの一座。

当時、茂平青年団が演芸会を行うことがあり、
青年団は無料で、旅芸人は有料だったので、どうしても無料を見ることの方が多かった。


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姉の話・2002年1月6日

筵で囲った旅芸人


番屋の隣りの学校のところに来ていた。
芝居があるときは旅芸人のおじさんが着物を着て、茂平の土手を回って、「夜に芝居があるよ。」と知らせてあるいていた。
太鼓を叩いて。
その後ろを小さな子供がごそごそついて歩いていた。

おじいさんとおばあさんに連れられて、よう見に行っとった。
まわりに筵がぶら下げて、入口作って。
今日は少ないな、とか、多いな。と、思ってみていた。
「また来ます」と、帰っていきょうた。

学校の中で寝て2~3日生活して、たぶん番屋で食事の買い物して食べていたんだろう。
旅芸人はごらく場を撤去した昭和35年頃まで来ていた。年一回くらい。

姉の話・2002年1月6日

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茂平小学校跡①映画史上空前のヒット作、感動と興奮の新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」を見に行く

2025年06月25日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.10.26資料

映画を見るのは、福山・笠岡の映画館、城見小学校、茂平集会所の三通りあった。

福山では、「とんど祭り」に行った際に、映画館で見て帰るとか。
小学校は、文部省推薦の映画、例えば「路傍の石」や「にあんちゃん」のような教育映画。さっぱり面白くない映画。
講堂に暗幕を貼って暗くしていた。


茂平集会所には、金浦座が出張してくる。夜上映、一夜限り。回数は月に1~2度程度。
上映日の二日ほど前に、青木と農協と吉本にポスターを貼っていた。
木戸銭は入口に”りょうやん”が座っていて、一人一人の顔を見ながらお金を受け取っていた。
二本立てで、たいてい先にチャンバラ・アクション、後に恋愛・現代劇を上映するパターンだった。
当時の婦人は上映開始の頃は家事と、世間の目があり、外出できなかったから。


映画は東京や大阪で上映して約1年後に茂平に廻っていた。
ところが約2年ほど経ってから来た映画がある。
それが「明治天皇と日露大戦争」、2年使った映画フィルムはぼろぼろだった。(画面は大雨、フィルムは切れる)

 

 

アラカン(嵐寛寿郎)主演で、総天然色シネマスコープの「明治天皇と日露大戦争」は、映画史上空前のヒット作品だった。
その夜、茂平集会場はびっしり満員で、脚も伸ばせず、あぐらもできず、べべちゃんこで映画を見る状況。

映画は軍艦マーチが勇ましく轟き、アラカンの天皇姿も様になっていた。
大人たちは戦勝するスクリーンを興奮気味に見ていた。
子どもも戦闘シーンに大喜び。


尚、映画観客動員数は2001年「千と千尋の神隠」に抜かれたそうだが、これはアニメなので、実写映画では記録を破られていない。
茂平の映画動員数も史上最大。
映画上映中フィルムが切れた回数も茂平映画の最大だった。

 

 

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