しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日中戦争 「弱いシナ」と「暴支膺懲」

2024年07月07日 | 昭和11年~15年

日中戦争の発生原因を調べても、どうもその理由がよくわからない。
なんとなく始まった”事変”であり、終わりのない”戦争”だった。
開戦理由を強いて言えば、
”日本軍の面目”と、
”暴支膺懲”、この二つにいきつくように思う。
どちらも日本人・日本軍が、中国に対する優越感と蔑視から来るもので、
今からみると、歴史上の日本の汚点。

亡き父は、
「日本は中国で悪いことをしてきただけじゃあない」
と言っていたが、その言葉からも悪いことをしていた意識はあったようだ。
父がいう、良いこととは、日本軍が道路を造ったことで、
もちろん中国の為に建設したのではなく、日本軍のため。
道路は持って日本には帰れない。

 

・・・

 

「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行

日中戦争と郷土部隊

盧溝橋での銃声に始まる事件は、事前の謀略によって引き起こされたものではなく、
いわば偶発的事件であった。
といっても、日本軍を弁護しようというのではない。
日本軍による満州での傀儡国家樹立とそれ以後の華北への侵略行動に対して、
中国は、いつ何時でも、日本軍に反撃を加え追い出す正当な権利を有していた。
ここでは、この偶発的事件を、あの泥沼の日中全面戦争へと展開させたものは何であったのかを、問おうというのである。

たしかに日本資本の華北における市場と資源を独占しようとする要求と、 
他方における中国の抗日民族闘争の高揚が、その基礎にあったことは間違いない。

だが、それに加えて、
「要するに日本軍の面目さえ立てばよいので、かれらに日本軍に戦闘意識がないとか、叩かれても平気でいるとかいわれたくないので、軍の威信上奮起した」(大隊長・一木清直少佐)、
あるいは「我軍の威武を冒するも甚だしい」ということで、「全部隊に戦闘開始の命令を下した」(連隊長・牟田口廉也 大佐)というのである。
現地指揮官は、日本軍の「面目」や「威信」のために戦闘を開始したのであって、実際に損害を受け危険が迫っていたとか、戦略・戦術上必要であったからというのでは全くない。
非合理的な日本軍の優越感情が、そしてそれは裏返して言えば、中国人に対するこれまた非合理な侮蔑意識が、
日中全面戦争の起点にあったのである。

同じ日、軍中央では、
「三個師団か四個師団を現地に出して一撃を食わして手を挙げさせる、そうしてばっと犬を収めて[中略]一部の兵力を北支に留めて置けば大体北支から内蒙は我が思うようになる」という拡大派が、
対ソ戦準備を第一義とする不拡大派を押さえて大勢を制し、近衛内閣は「重大決意」のもとに、華北への派兵を決定、
事件拡大に大きく踏み出してしまっていたのである。

中国における抗日民族統一戦線結成への大きな展開を、何ら客観的に認識することなく、全く根拠のない
非合理的な優越意識が、軍中央ならびに政府をもとらえていく。
近衛内閣が、8月15日に発表した政府声明は、
「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」 という、極めて道徳的で感情的な戦争目的をしか揚げることが出来ず、
ついに客観的で具体的な戦争目的は提示し得なかったのである。

ところで、以上に見てきた近衛内閣や軍人たちの、中国に対する優越意識は、
万世一系の天皇を頂点とする日本国家=国体こそが「真善美の価値内容の独占的決定者」であるという意識である。
そこでの軍事的な優越感は、客観的な軍事そのものに即しての比較 からというよりは、
倫理的道徳的な優越感として意識されている。
下の者に侮辱された、あるいは下の者を懲らしめるというイメージで語られているのである。
南京攻略作戦の中支那方面軍司令官松井石根大将の次の言は、盧溝橋事件に始まる日中戦争についての、
こうした認識の構造をよく示している。

抑も日華両国の闘争は所謂「亜細亜の一家」内に於ける兄弟喧嘩にして......恰も一家内の兄が忍びに忍び抜いても
猶且つ乱暴を止めざる弟を打擲するに均しく其の之を悪むが為にあらず可愛さ余っての反省を促す手段たるべきのことは余の年来の信念にして

ほんの一撃で降参するはずの中国軍の、予想以上の果敢な抵抗で大打撃を被った上海戦の後、
行き当たりばったりで充分な補給もなく、略奪・強姦・虐殺を続けながら南京に殺到した日本軍の、あの南京大虐殺は
「可愛いさ余って憎さ百倍」の狂気の結果であった。

 

 

・・・

「語り継ぐ昭和史(1)」  朝日新聞社 昭和50年発行

松本重治

四十年前の日本人の中国観――「弱いシナ」

みなさんに、まず、四十年前の事情を思い出していただきたいのです。

その事情の一つとして、当時の日本人の中国観という、特別のものがあったわけです。
それは簡単にいうと、 シナは弱い、中国は弱いという考え方です。
そういう中国観に基づいて、日本人には中国人を蔑視するという態度があったわけです。
弱い中国を強くして、中国を助けてやれ、という人も日本人のうちには一部はあった。
けれども、大体の日本人は、中国に対しては、料理はこっちがやるんだ、なんでもやっていいんだという考え方、
つまり「弱いシナ」というのが当時の日本人のだいたいの中国観でありました。
この「弱いシナ」という中国観には、いろいろの理由が考えられます。
それには西欧先進国による中国の植民地化、日清戦争における清国の敗戦、その他がありますが、
日中戦争と関連しての中国観というものには、当時、中央政権の支配範囲が事実上非常に限られていたことと、
日本の関東軍や支那駐屯軍が接触した「雑軍」が存在していたことを忘れてはいけないと思います。
今日から約40年前に、「弱いシナ」という考え方を日本で特に強く持っていたのは、陸軍でありました。
ことに、それは関東軍であり、天津にいた支那駐屯軍でありました。


関東軍と支那駐屯軍とは多少任務が違うので、関東軍のほうは、「満州国」を防衛し、間接的に日本をソ連から防衛するということが任務でありまして、数個師団から成っていた。
天津にいた支那駐屯軍のほうは、昭和11年ごろまでは2.000人ぐらいしかいなかったのですから、その実力は関東軍のそれに比べると、 全然もう話にならんぐらいでした。
ものの本などには関東軍と支那駐屯軍と並んで書いてありますけれども、
片方は数個師団、片方は約二連隊、のちに増強されても、せいぜい一旅団あるかないかというような小さなものでした。
この現地陸軍をはじめ、当時の日本人全体に、「弱いシナ」という考え方が徹底的にこびりついていたことが、日中が全面的に衝突した最大の原因であったと私は思うのです。
これにはまた歴史があるんです。
その当時からさらに50年ほど前の日清戦争日清戦争というのは、みなさんが生まれる前だったんじゃないですかね。
ぼく自身も生まれていなかったんですから(笑い)。その日清戦争で日本が勝ったために、日本人は中国人のことを、「チャンコロ」とかまた「チャンチャン坊主」とかといい、全く馬鹿にしていた時代があったんです。 
日清戦争のころは、相手は清朝が支配していた清国です。 
清朝というのは、ご承知のとおり、満州民族が建てた封建的な政権でありました。
漢民族は、大体、当時通称の「支那本部」にいて、満州民族と蒙古族の一部とが満州にいたわけです。
その満州人が北京にやってきて天下に号令したのが清国なのです。 
初期には康熙乾隆の二帝のごとき明君が出て、国威を高めましたが、その後は暗君が相次いで 帝位につき、国力も弱まって行き、清国は、日清戦争で負けたくらい弱い国となっていました。
し かし清朝の朝廷では、すばらしく格式が高く、また漢民族の優秀な人々をも登用したが、近代国家 として清国をもり立てるには、すでにあまりにも弱かった。
「弱いシナ」というのは、第三国にも ずーっと認められていた。第三国の外交官が清朝の政府との話し合いのときは、おまえのところは 弱いなんていわないんで、やはり、あなたのお国もけっこうですというわけで、いちおう対等には やっておったんです。 
けれども、内心はみんな、「弱いシナ」「眠れる獅子」「老大国」というよう なことを思っていたわけです。

 

国民革命の運動と第一次国共合作

この弱い清国を強くして、なんとかして民主主義的な近代国家をつくらなきゃならん、ひとつ漢民族の青年が運動をやろうじゃないかというので、
革命を考えた先覚者の一人が、ホノルルで医学勉強していた孫文でありました。
けれども、いくら革命的行動をやってみても、失敗ばかり続く。
この孫文を終始助けたのが、民間の頭山満だとか、宮崎滔天、山田良政・純三郎兄弟、萱野長知、犬養毅とかいう人たちでした。 
しかし残念ながら、それは日本のごく一部の人にすぎなかった。

当時の日本人全体としては、なんとでも料理のできる「弱いシナ」というような固定観念があったのであります。
中国では、清朝を打倒して、弱い中国を強くしようという漢民族の青年のグループは、孫文だけでなく、方々にあったわけです。
漢口へんにもいました。
みなさんもご承知だと思いますが、黄興という人が湖南にいた。
孫文も黄興も、同じように革命青年を指導した人でありますが、この二人、初め仲があまりよくなかった。
二人を東京に招いて握手させたのは、さっき申しました少数日本人の一人、宮崎滔天なんです。
二人が握手してつくったのが、普通、「同盟会」ということばでいわれている国民革命同盟会(のちに中国国民党と改称)で、
これは1905年(明治38年)に東京で組織されたわけです。
それから孫文は広東に帰り、また、南方の華僑にアピールして金を集めたり、世界じゅうの華僑にアピールしたりしたわけです。
日清戦争で清国が負けると、清朝ではだめだと自分たちも考えて、なんとか革命を起こして国を 興さなきゃならんと考えたグループのほとんどは、日本への留学生でありました。

・・・

 

 

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昭和12年7月7日夜、盧溝橋事件

2024年07月07日 | 昭和11年~15年

日本国家と国民が戦争体制となった”盧溝橋事件”。
ライシャワー博士は「第二次世界大戦の発端」と書かれているが、
西洋史中心の世界史が将来、五大陸化されると、
1937(昭和12)年7月7日が「第二次世界大戦の開始日」になるかもしれない。

・・・

 


「ライシャワーの日本史」  文芸春秋社 1986年発行


第二次世界大戦

第二次世界大戦は、その発端は1937年の日中の衝突にある。
日本軍部の対外政策には一つ根本的に間違った思い込みがあった。
日本軍部はみずからが盲目的愛国心に身を委ねる一方で、
近隣諸国からは欧米の圧政からの救出者として歓迎されるばかりか、
彼らが日本を盟主とする東アジア支配におとなしく盲従して、
何も不満をもたぬはずだと思いこんでいたのである。

・・・


「太平洋戦争」  世界文化社  昭和42年発行

 
昭和12年(1937)7月7日、日本の支邦駐屯軍(天津)のある中隊が、盧溝橋付近で宋哲元の率いる一部隊と衝突した。
事変の口火は諸説あって、今日もなお謎に包まれている。

当時陸軍中央部では、ふしぎなことにまだ中国に対する作戦方針が一定していなかった。 
部内の積極派の連中は、中国は一撃を加えればすぐに屈伏すると考え、それに必要な兵力は7個師団ぐらいで十分だとみていた。
それに対し事変不拡大派は、昭和16年(1941) までを目標に、対ソ戦の準備のために満蒙資源の利用を含む軍需工業の五か年計画を推進中であり、
長期消耗戦になる可能性を多分にもち、少なくとも15個師団を必要とするであろう中国との戦いには絶対反対だった。
まして昭和10.11年にかけて、急速に極東軍備を充実させたソ連の動きをみては、それはなおさらのことだった。
一方、このときの近衛文麿内閣は、この際禍根の根源を将来に残さないように徹底的な解決を行なうべきで、姑息な妥協は極力排撃すべきだとして、意外に強硬だった。

昭和12年の末には、逐次投入”という拙劣な方法で中国大陸に運ばれた兵力は16個師団、約70万を数えた。
そしていちおう戦術的な勝利を繰返していたものの、占領地域は平津(北平=北京と天津) 地方と揚子江下流を中心に、 
大都市間をつなぐ鉄道沿線の点と線に限定され、
しかもその連絡線はいつも中国側のゲリラ攻撃の脅威にさらされていた。
一方、ソ満国境では 5個師団基幹の関東軍が、4倍以上の兵力をもつソビエト極東軍とにらみあっているというのに、
中国との戦いを短期決戦で終結させる望みはなく、まさに泥沼に足をつっこんだような状態であった。

 

・・・


「大陸の戦火」  研秀出版社  平成7年発行

 
盧溝橋の銃声

昭和12年7月、盧溝橋にひびいた十数発の銃声は、中国侵略の野望をむき出しにした日本に対する、中国の抵抗ののろしだった。
日清、日露戦争に勝ち、中国進出の足がかりを得た日本は、西欧列強の中国侵略競争の一員に加わった。
列国の帝国主義的侵略に対する中国人民の最初の反抗が義和団の蜂起だった。
しかし、英仏日など八か国の連合軍は、北京を包囲し 義和団をした。
2万の大軍を出兵した日本は、賠償金のほかに、清国から北京公使館護衛の名で軍隊の駐屯権を獲得した。
これが、 36年後に、盧溝橋事件の主役を演じた日本の支那駐軍の出発点である。

中国の革命運動家や知識人は、日本を明治維新によって近代化をなしとげたアジアの先覚者と評価し、
日本が、中国を植民地化している欧米の勢力駆逐に手をかしてくれるものと期待していた。
しかし、日本は侵略者として中国にのぞんだ。
裏切られた中国の怒りは反日、 抗日の大きなうねりとなった。
21条要求、山東出兵、満蒙独占の野望の下に傀儡国家満州国でっちあげ、更に内家から華北へと、日本の中国侵略は露骨となっていった。
中国では、共産党の抗日救国のアピールが民族の共感を呼び、日本の侵略に抵抗する統一戦線が軌道にのってきていた。
こうした状況のもとで、盧溝橋の銃声がなりひびいたのである。
誰が最初の一発を撃ったかはもはや問題ではなく、遅かれ早かれ、日中いずれかが発砲する状況にあったのである。
事件は一時現地解決なるかと思われたが、7月11日、近衛内閣は拡大を決議 北支事変と称し、 
28日、日本軍は総攻撃に移って北京、天津地区を制圧した。 
8年という長期戦がこれからつづくのである。

 

戦勝にわく国内

南京陥落の報に日本の津々浦々は戦勝の美酒に酔った。
浮かれたのである。
陥落発表は12月13日だった。
しかし国民は待ちきれなかった。
新聞は12月に入ると祝勝気分をあおりたてた。
全国民は今か今かと吉報に胸を躍らせ全神経を「陥落」の二字に集中している。
この異常の緊張裡にさんさんたる 日の出を迎えた7日、
市内の各官庁、銀行会社につとめる人達は、いつもより皆早目に出勤、「号外」と共にいつでも旗行列、提灯行列に出勤できるよう待機・・・ ・
神田や銀座の「祝戦勝」の装飾文字も朝日に映えて美しい......(12.8付東京日日新聞)と伝え、
さらに同日夕刊は、 
待ちきれなくなった帝都市民は一足先に陥落を決めてしまい、7日夜は銀座も浅草も新宿も興奮のるつぼと化し、
ネオンに旗に戦捷一色にぬりつぶされた。
祝杯はこちらでといわぬばかりにカフェー街はここを先途の満艦飾オール銀座は大勝と皇軍への感謝に陶酔〟
という具合であった。
大本営が首都南京攻略を発表したのは13日深夜だったが、
東京ではそれから3日3晩、旗行列や提灯行列が宮城前や大本営のまわりを埋めた。
地方各都市、村々でも同じだった。
横浜港では、在泊の船舶はすべて満艦飾のイルミネーション、市電は花電車を走らせた。

しかし、南京ではまさにその頃大虐殺の惨劇が進行しつつあった。
そして戦争の行方が、敗戦の暗黒とつながっていることなど誰一人として夢想だにしなかったのである。

 

南京大虐殺

昭和12年12月、南京攻略戦にあたった日本軍が、中国人に対して言語に絶する暴行殺戮を行った。 
南京陥落皇軍大勝利に、日本全国が沸きかえっているとき、南京では、恐るべき蛮行が、まさに皇軍将兵によって演じられていた。
この事実は当時南京にいた英米ジャーナリストや宣教師達によって世界中に伝えられ、大きな衝撃を与えた。
日本国民だけが、東京裁判で明るみに出るまでその事実を知らなかったのである。
犠牲者の数は、いまだに確かでないが、東京裁判では、南京占領後、2~3日の間に、
少なくとも12.000人の非戦闘員が殺され、占領後の最初の一か月の間に約2万の強姦事件が発生、一般人になりすました中国兵掃討に名をかりて、兵役年齢の男子二万が集団 で殺され、さらに捕虜三万が降伏して七二時間内に殺されまた、避難民のうち57.000人が日本軍に捕まり、大多数が死亡したり、殺されたりした"とされた。
これは、当時南京大学教授で、東京裁判に証人として出廷したベーツ博士の証言にほぼ近い数字だが、 
実際にはもっと多くの犠牲者があったとされ、現在中国側では30万人と見ているようである。

 
・・・

もう一つの部隊
從軍慰安婦

日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本軍には正規軍のほかにもう一つ、従軍慰安婦という“女性部隊”がいた。
彼女たちは銃こそとらなかったものの、戦闘で疲れ、すさんだ兵士たちの心を”慰安”するという、哀れにもまたけなげな "使命”をおっていた。
軍が従軍慰安婦制度の創設を考えたのは、日中戦争勃発後まもない昭和12年秋のことで、
将兵が現地で暴行、強姦を重ねるのを押さえ、
また将兵に性病が蔓延して兵力の低下をきたすのを防ぐため、
軍首脳は軍の厳しい管理下に“慰安所"を設けることとした。

11月中旬、軍の命を受けた御用商人が北九州各地で女性を募集してまわった。 
「前渡し金1.000円、これを全額返済終わったら自由」という、
内地の売春婦にくらべ、はるかに魅力的な条件であった。
約120人が採用され、上海に渡って第11軍に配属された。 


・・・・・
 

「福山市史・下」  福山市史編纂会  昭和58年発行

日中戦争と四十一連隊 


昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
7月27日、第二次動員が第五師団にも下令され、これにともない四十一連隊も応召することになり、 
7月31日夕刻福山駅から出発していった。
第五師団の先頭部隊であった 四十一連隊は、朝鮮を経由して8月11日に天津に入ったが、
この後の転職状況について、連隊長山田鉄二郎大佐の手記『支那事変の思い出』をもとに簡単にふれよう。


山田部隊3.000人はただちに臨戦体制に入り、
8月の長城戦、 
9月の○○城戦(←○○は字が読めない・管理人)戦死120名、
11月杭州湾上陸作戦などをへて、
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.200人武器など多数押収)を与え(死傷者16人)
12月13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。
このころの山田部隊は、そのその進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。

昭和13年、
南京で新年を迎え、「慰問の日本酒に半年振りの労を慰して居た」部隊は、
1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在、
4月7日にはいわゆる徐州、
徐州会戦は歌に歌われ小説にも描かれてているように、なかなかの苦戦であったが、
5月19日ついにこれを占領した。
死傷者750人、馬145頭失う。
 
・・・

こののち日中戦争は文字どおり泥沼化したが、
食糧難、武器不足、病気、 中国軍のゲリラに悩まされながら、軍の作戦がいわゆる北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年ころまで、
まったく勝つ見込みのないまま中国各地を転戦させられた。 
福山では41連隊勝利の報がもたらされるたびに、小・中学生を中心とする旗行列が盛大に行なわれた。
夜に入ると大人たちによって提燈行列が行なわれた。
このころから、戦死者の扱い方に大きな変化がみられたことが注目される。

 

すなわち、戦死者は
「男子の本懐 聖戦の死」、
「護国の人柱」、
「壮烈・名誉の戦死」などといわれ、 
しかも遺族は
「本人も満足でせう」、
「肩身が広い」、
「家門の名誉」などと、
夫や息子の戦死について語らされるようになった。
したがって戦傷者は「治ったらまた征く」と本人がいい、
家族は「傷くらいなんでもありません」といわざるをえなくなり、 戦病死はごく小さい扱いしかされなくなった。
右のことは、満州事変に比し戦死者が格段に増加したことも一因であるが、
むしろ二・二六事件以後総動員運動が進展していくなかで、ファシズム軍国主義が新たな段階に入ったことの表現でもあった。

 

・・・・

「鴨方町史本編」 鴨方町 平成2年発行

盧溝橋事件

1937年(昭和12)7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍夜間演習の終了後、何者かが発砲したのを契機に、
日本軍は翌8日未明に中国軍への戦闘攻撃を開始した。
これ以後、現地では停戦協定も結ばれたが、誕生したばかりの近衛文麿内閣は、
戦線を拡大し北京・天津・上海を占領し、12月には国民政府の首都であった南京を占領した。

「鴨方町報」に次のような伊藤岡山県知事の訓示を掲載している。
時局ニ対スル伊藤岡山県知事訓示

今回の事変の変勃に関しては、御承知の如く7月7日夜、我支那駐屯軍の一部隊が蘆溝橋附近にて演習中、
第二十九軍の理不盡なり不法射撃に端を発しまして、
我方よりの事実の承認及謝罪其の他正当なる要求応ぜざるをのみならず、逐次其の兵力を増加して、
我部隊に不法なる攻撃を加へ来る等挑戦的行動を敢て為し、
或は平津方面の我在留民に対する忍び得ざる迫害頻発する等協定不履行不信行為続発し、
我和平的解決を全面的に拒否至りまして...(以下省略) 

これによれば中国国民党軍による発砲と一方的に決めつけ、
日本および日本軍の戦線拡大が当然であるかのごとく表わしている。
事実は、日本軍の買収に応じた中国人が関東軍の指図に従って発砲したのであり、 戦線拡大を目論んでいた日本軍の仕掛けた事件であった。


・・・・

 

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花と龍  (福岡県若松港)

2024年07月04日 | 旅と文学

著者・火野葦平は、本名・玉井勝則さんで、
この本に「勝則」として登場する。
父の名は玉井金五郎氏で、本名で登場し、小説の主人公。

小説には人も会社も、ほぼ実名で書かれていて、若松港の生の歴史を見るようだ。
洞海湾は製鉄、石炭が集約する日本を代表する繁栄地だった。
主人公の金五郎は沖仲士の労働条件向上に義侠心をもって闘った。

そんな父のことを火野葦平は書き残し、伝えたかったのだろう。
小説には親族で、アフガニスタンで亡くなられた故・中村哲氏家族も登場している。
中村さんにも洞海湾の金五郎と同じ血が流れているのだろう。

 

 

 

・・・

旅の場所・福岡県北九州市若松区 
旅の日・ 2015年2月20日  
書名・花と龍
著者・火野葦平
発行・岩波文庫 2006年発行

・・・

 

 


その夜、寝る前に、毎日の習慣の日記をつけたが、一段と肉太い字で、
「実二、実二、腹が立ツ」
と書いたきり、後を続ける気持が起らなかった。
(一体、どうすればよいのか?)
的確な行動の手段が、頭に浮かんで来ないのである。
金五郎は、日記の前のページを繰ってみた。
-三菱炭積機建設問題。

その夜、寝る前に、毎日の習慣の日記をつけたが、一段と肉太い字で、
「実二、実二、腹が立ツ」
と書いたきり、後を続ける気持が起らなかった。
(一体、どうすればよいのか?)
的確な行動の手段が、頭に浮かんで来ないのである。これまで、どんな事態に対処しても、
熟慮して判断を下せば、強い意志力と、なにものにも屈しない実践力とで、すべてのことを解
決して来た。それなのに、 今度の問題は、金五郎を当惑させる。昏迷させる。
(おれは、馬鹿じゃ)
と、自信を喪失する気持にさえなるのだった。
金五郎は、日記の前のページを繰ってみた。
-三菱炭積機建設問題。
この文字は、一年間以上も、前の日記に、いたるところ、散見している。
前年四月、上京したときには、三菱本店を訪問した。
四度も行ったのに、四度とも玄関払いを食わされた。

この 問題は、年が改まってから、にわかに表面化した。
「洞海湾における数千の石炭仲仕は、石炭荷役をすることによって、僅かに、生きている。 
然るに、次々に、荷役は機械化されて、仲仕の仕事は減少した。
仲仕の生活は、貧窮の底に叩き落された。
このうえ、またも、三菱炭積機が建設されるということは、そのまま、仲仕の飢 餓と死とを意味する」

この明瞭な道理によって、反対運動が起されたのである。
それが、うまく運ばない。
立ちふさがる暗黒の壁の中に、金五郎は、この親分の鋼鉄の顔を見るのであった。
(友田喜造と、いよいよ、最後の対決をせねばならんときが来た)

四月七日小頭組合総会。
この日に、三菱問題は、まったく新しい展開をしたのであった。
金五郎は、組合長として、悲痛な宣言をした。
「昨今のような状勢では、もはや、現在数の仲仕や、小頭は、必要ありません。餓死を脱んとしますなれば、大部分の者は、長年馴れ親しんだ仕事に訣別して、転業するの一途です。 
すべては機械のためです。
しかし、それは今度の三菱機だけのためではありませんから、荷主全体、つまり、石炭商組合から、救って貰う外はありません」
このため、小頭組合として、三菱、三井、麻生、住友、貝島、その他を含む「若松石炭商同業組合」に対して、
転業救済資金、二十五万円を要求する決議がされたのであった。
沖仲仕労働組合も、全面的に、これに同調した。
歎願書が作製された。
ところが、その役目を引きつけたのは、友田喜造であった。

 

 

洞海湾の水の色が、梅雨に濡れた後、やがて、夏雲を映すようになった。
戸畑側の新川岸壁には、三菱炭積機が、着々と、工事を進められた。
港には、なにごともないように、日夜、船舶が出入した。
聯合組の隣りに、「若松港汽船積小頭組合」の事務所がある。
その看板とならんで、三倍も大きな、「争議本部」の新しい板札がかかげられた、小頭組合の裏にある「玉井組詰所」の二階に、「若松港沖仲仕労働組合」の看板がかかっている。赤地に、スコップ、雁爪、櫂を組 みあわせて図案化した組合旗が、ひるがえっている。明治建築の名残りをとどめている「石炭商組合」の事務所は、そこから、一町とは離れていない。
これらの建築の間を、このごろは、 連日、あわただしげに、多くの人々が右往左往し、殺気に似たものがただよっていた。 

「この争議はどうなるとじゃ?」
「石炭商が強硬で、てんで、話にならんらしいわい」
「資本家は、おれたちゴンゾが乾干しになろうが、のたれ死にしようが、なんとも思わんのよ。痛うも、痒うもねえとじゃ」
「人間と思うちょらん」

 

 


翌朝、いつもと同じように、機嫌よく、子供たちと、朝食をした。
「お父さんの作夜の「ゴンゾ踊り」、面白かったわ。また、見せてね」
御飯を食べながら、女学生の繁子がいった。 
里美も同意見とみえて、姉といっしょに、父の顔を見た。
金五郎は、にこにこと、踊ってみせる。
「勝則」
金五郎は、息子を呼んだ。
「はい」
「今日は、十時から、争議本部で、小頭組合の評議員会をすることになっとる。お前も行っといてくれ。
無論、おれも行くが、もし、行かなんだら、万事、お前 が処理をしてくれ。ええな?」
「承知しました」
八時すこし前、金五郎は、「小頭組合」の半纏を着て、家を出た。
今日も暑そうな上天気らしい。
すでに、入道雲が純白の頭だけを、高塔山の背後にのぞかせている。
安養寺に寄った。
墓地に行った。
「玉井家累代之墓」と彫られた、花崗岩の墓標の前に立った。合掌した。

 

 

・・・

 

 

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新札発行 2024.7.3

2024年07月03日 | 令和元年~

生活費(固定費)は、ほぼ銀行の自動引き落としで払っている。
ネット通販は、ビザカードで銀行引き落としで払っている。

問題は、町で買い物や食事をする時。
現金とペイペイとICOCAの三つを使い分けている。
これがめんどくさい。
できればペイペイ(またはスマホ)一本で済ませたい。
財布を持つて歩くのもめんどくさい。

 

今日から新札が流通する。
新札が出ると、あっという間に旧札は見なくなるので、
あるうちに写真で写して記録しておこう。


・・・

旧札(204.7.2まで発行)

(管理人手持ちのお札)


上の写真は、↑
1.000円札、5.000円札、10.000円札を重ねた写真で、
縦は同じ、横は1.000円札より5.000円札が長く、5.000円札より1.000円札が長い)

 

 

 

裏面

 

・・・

新札(2024.7.3から新規発行)

(政府広報オンラインのお札)

 

・・・・

 

【日本経済新聞社】の社説  2024.7.3

デジタル時代の新貨幣が問う現金の役割

新しい紙幣(日本銀行券)が3日、発行される。
デジタル時代のなか、現金の役割が問われる局面での登場だ。
デフレからインフレへ潮目の変化も重なる。
お金の流通や決済の仕組みの望ましいあり方を考える好機としたい。

改刷は偽造防止が主目的だ。
肖像画が立体的に見える3Dホログラムなど最先端技術を採用した。
1万円札の顔は日本の資本主義の父と称される渋沢栄一になる。 
5千円札は女子教育の先駆者津田梅子、
千円札は細菌学者の北里柴三郎にそれぞれ変わる。

旧紙幣も今まで通り使える。
「無効になるので交換を」などと持ちかける詐欺に注意が必要だ。
一方で、使えるとはいえ、明確な目的なく自宅などで保有する「タンス預金」については有効活 用を考える契機になりうる。
紙幣の発行残高約120兆円のうち、半分の約6兆円がタンス預金と推計される。
消費などに回れば経済活動が刺激されるが、使わない間に物価が上昇すれば現金の実質価値は目減りする。

日銀は3月、17年ぶりの利上げに踏み切った。
今年から少額投資非課税制度(NISA)も拡充された。
投資を選択肢として検討するのもよいだろう。

 

デジタル時代に対応したキャッシュレス化は待ったなしだ。 
現金決済のインフラの維持コストは重く、経済産業省の試算で2・8 兆円に上る。
日本のキャッシュレス比率は約4割と中国、韓国の8~9割超に比べて見劣りする。 
新紙幣にはATMや券売機の改修が必要になる。
コスト高に苦しむ飲食店などでは対応済みは半分程度にとどまる。
政府はこの機に 抜本的な省人化、キャッシュレス 化への投資を促す施策を打つべきだ。
キャッシュレス比率8割という目標の早期達成にも資する。 
海外では、法定通貨を電子空間で流通させる「中央銀行デジタル通貨(CBDC)」の導入への検討が進む。
日銀も「デジタル円」の将来の実用化を視野にパイロット実験を2023年に始めた。
デジタル円は、乱立ぎみの民間デジタルマネーをつなぎ、オンライン決済をより便利で安全にする可能性を秘める。
新たな金融テクノロジーを使ったビジネスのきっかけにもなる。
それでも紙幣が完全に無くなる日は見通せない。 
共存しつつ未来を模索したい。


・・・・

 

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「国史」神武天皇  (岡山県笠岡市)

2024年07月02日 | 旅と文学

笠岡諸島の高島は、映画「釣りバカ日誌」で浜ちゃん・スーさんのロケ地になったほどに、
瀬戸内海に浮かぶきれな小島。
本土からは料金180円での8分間の船旅で到着する。
かつては石材産業が盛んで、今は漁業やリゾート・ペンションが人気の島。

高島が一番沸いたのは、皇紀2600年記念祝賀の前。
初代天皇が数年間滞在した”高島”で注目された。
騒ぎは一瞬で終わり、敗戦によって更に忘れ去られた。

 

 

 

・・・

旅の場所・岡山県笠岡市高島  
旅の日・2020年11月30日
書名・国定教科書「尋常小学国史 上巻」
著者・文部省
発行・1934~1940
資料・「ニイタカヤマノボレ1208」 岩崎書店 1995年発行

・・・

 

 

・・

「尋常小学国史 上巻」 (小学校五年用)

 

第二 神武天皇

瓊瓊杵尊から神武天皇の御時にいたるまでは、
御代々、日向においでになって、わが国を治めになった。
けれども、東の方は、なおわるものが大勢いて、たいへんさわがしかった。
それ故、天皇は、これらのわるものどもを平げて、人民を安心させようと、舟軍をひきいて、
日向から大和(いまの奈良県)へお向かいになった。
そうして、途中ところどころにお立寄りになり、そのあたりを平げつつ、
長い間かかって難波(いまの大阪府の一部)におつきになった。

天皇は、河内(いまの大阪府の一部)から大和へお進みになろうとした。
わるものどものかしらに長髓彦というものがいて、地勢を利用して御軍をふせぐので、
これをうち破って大和へおはいりになることは、むずかしかった。
そこで、天皇は、道をかえて、紀伊(いまの和歌山県)からおはいりになることになった。
そのあたりは、高い山や深い谷があり、道のないところも多かったので、ひととおりの苦しみではなかった。
しかし、天皇は、ますます勇気をふるいおこされ、
八呎鳥を道案内とし、兵士をはげまして、道を開かせながら、とうとう大和におはいりになった。

 

天皇は、それから、しだいにわるものどもを平げ、ふたたび長髄彦をお攻めになった。
しかし、長髄彦の手下のものどもが、いっしょうけんめいに戦うので、御軍もたやすく勝つことが出来なかった。
時に、空がにわかにかきくもり、雹が降り出した。
すると、どこからともなく金色の鶏が飛んで来て、天皇のお持ちになっている御弓のさきにとまって、きらきらと強くかがやいた。
そのため、わるものどもは、目がくらんで、もはや戦うことが出来
なくて、まけてしまった。
長髓彦も、まもなく殺された。

やがて、天皇は、宮を畝傍山の東南にあたる橿原にお建てになり、はじめて御即位の礼をおあげになった。
この年をわが国の紀元元年としている。
そうして、二月十一日は、またこのめでたい日にあたるので、国民はこぞって、この日に紀元節のお祝いをするのである。

天皇は、また御孝心の深い御方で、御先祖の神々を鳥見山におまつりになった。
かように、天皇は、天照大神のお定めになったわが帝国の基を、ますます固めて、おかくれになった。
そのおかくれになった日に毎年行なわれる御祭は、四月三日の神武天皇祭である。

 

 

・・・

 

 

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「国史」天照大神  (岡山県備中神楽)

2024年07月02日 | 旅と文学

戦前の小学生でも、神話をほんとの話とは信じていない、
ただ先生の授業を黙って聞いていたのだろう。
たぶん、そのことに触れるのはタブー。疑問を感じないことにする。
先生も質問を受けない・答えない。
おしえる方も、ほんのいくらか抵抗があったことだろう。

 

でも信じていた人がいたかもしれない。
今でも皇紀を信じる人がいるから。
そういう人たちは「天皇陛下のご先祖は天照大臣(女性)である」
ことを、
まさか知らんことはないだろうな。

 

 

(画像はすべて素戔鳴尊です)

 

・・・

旅の場所・岡山県笠岡市甲弩 ”備中神楽”  
旅の日・2023年10月15日 
書名・国定教科書「尋常小学国史 上巻」
著者・文部省
発行・1934~1940
資料・「ニイタカヤマノボレ1208」 岩崎書店 1995年発行

・・・

 

 

「尋常小学国史 上巻」 (小学校五年用)

第一 天照大神

天皇陛下の御先祖を、天照大神と申しあげる。
大神(おおみかみ)は御徳のたいそう高い御方で、
はじめて稲や麦などを田畑にうえさせたり、
蚕をかわせたりして、
万民をおめぐみになった。

大神の御弟に、素戔鳴尊という御方があって、たびたびあらあらしい事をなさった。
それでも、大神は、いつも尊をおかわいがりになって、少しもおとがめになることはなかった。
しかし、尊が大神の機屋(はた織りの小屋)をおけがしになったので、
大神は、とうとう天の岩屋に入り、岩戸を立てて御身をおかくしになってしまった。

大勢の神々は、たいそう御心配になった。何とかして大神をお出しそう、
岩戸の外に集まって、いろいろ御相談の上、
八坂瓊曲玉や八呎鏡などを榊の枝にかけて、神楽(神を祭るときにする音楽)をおはじめになった。その時、天鈿女命のまいの様子がいかにもおかしかったので、神々はどっとお笑いになった。
大神は、何事が起こったのかと、ふしぎにお思いになり、少しばかり岩戸をお開きになった。
すぐさま、神々は榊をおさし出しになった。
大神の御すがたが、その枝にかけた鏡にうつった。
大神は、ますますふしぎにお思いになり、少し戸から出て、これを御らんになろうとした。
すると、そばにかくれていた手力男命が、大神の御手を取って、岩屋の中からお出し申しあげた。神々は、うれしさのあまり、思わず声をあげて、およろこびになった。

 


素戔鳴尊は、神々に追われて、出雲(いまの島根県)におくだりになった。
そうして簸川(ひのかわ)の川上で、八岐の大蛇をずたずたに斬って、これまで苦しめられていた人々をおすくいになったが、
この時、大蛇の尾から一ふりの劔を得、これはとうとい劔であるとて、大神におさし上げになった。
これを天叢雲剣と申しあげる。


素戔鳴尊の御子に、大国主命という御方があった。
命は、出雲をはじめ方方を平げられて、なかなか勢いが強かったが、
その他の地方は、まだまだわるものが大勢いて、さわがしかった。
大神は、御孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にこの国を治めさせようとお考えになり、
まず御使いを大国主命のところへやり、その地方をさし出すようにおさとしになった。
命は、よろこんで大神のおおせに従った。


そこで、大神は、いよいよ瓊瓊杵尊をおくだしになろうとして、尊に向かい、
「この国は、わが子孫の王たるべき地なり。汝皇孫ゆきて治めよ。
皇位の盛なること、天地と共にきわまりなかるべし。」とおおせになった。
万世一系(ばんせいいっけい)の天皇をいただいて、
天地とともにいつの世までも動くことのないわが国体の基は、実にこの時に定まったのである。


大神は、また
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲劔(あめのむらくものつるぎ)
を瓊瓊杵尊にお授けになった。
これを三種の神器と申しあげる。
尊は、この神器をささげ、大勢の神々を従えて、日向(いまの宮崎県)へおくだりになった。
これから神器は、御代々の天皇がおひきつぎになって、皇位の御しるしとなさることになった。


大神は、神器(じんぎ)を尊にお授けになる時、
「この鏡をわれと思いて、つねにあがめまつれ。」とおおせになった。
それ故、この御鏡を御神体として、伊勢の皇大神宮に大神をおまつり申し、
御代々の天皇をはじめ、国民すべてが深く御うやまい申しあげているのである。

 

・・・

 

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「絶唱」葬婚歌  (鳥取県桝水高原)

2024年06月29日 | 旅と文学

日本レコード大賞歌唱賞「絶唱」の歌詞は、詩人西條八十さんでないとありえない、
という程に小説を短い言葉であらわしている。


愛おしい 山鳩は
山こえて どこの空
名さえはかない 淡雪の娘よ
なぜ死んだ ああ 小雪

 

・・・


旅の場所・鳥取県西伯郡伯耆町・桝水高原  
旅の日・2020年10月27日  
書名・絶唱
著者・大江賢次
発行・河出書房新社 2204年発行

・・・

 

順吉はシベリアに拘留されていた。
順吉はラーゲリで2年間を過ごしていた。

 

 

 

第三章 葬婚歌

終戦の翌々年になっても、待ちに待った園田順吉は復員して来なかった。
小雪がついに寝ついたのはその夏だった。
その秋、園田惣兵衛が脳出血で、突然亡くなった。
主人の急死にあって、山番の老夫婦ははじめて小雪を見舞った。
それまで律義でもの堅い山番は主家をおもんばかって動じなかった。
いま、その封建の扉がやっとひらかれたのだ。


小雪の名にふさわしい冬が山陰地方に訪れて、チラリチラリと雪花が湖面に舞うころ
――園田順吉はシベリヤから復員してきた。
七年ぶりだった。七年前の小雪はあどけなさのただよう小娘であったが、
いま見る小雪はまるで別人の、老婆のようにやせさらほうてしまって、明日知れない重患にあえいでいるのだ。
七年間――ああ、云いようもない残酷無比な歳月だった。
小雪はちょっとためらった後で、
「.........七年ぶりでお帰りになったのに、私、けえ、病気でごめんなさいな」と、妻としての千万無量の想いをこめて、ソッとわびた。
「七年ぶりだのに・・・・・・ほんとにかんにんして」
「いいとも、いいともさ小雪、よくなれば何だって埋合せがつくじゃないか」
順吉は林檎の汁をしぼりながら、凍傷あとのまだらな顔でおだやかにいたわった。
しぼった果汁を吸呑にいれて、咽せないように少しずつのませてやると、
「ま、おいしや、私の胸ン中のあなたは話すだけだったに、やっぱり、ほんとのあなたに甘えていいかしらん?」


小雪が息をひきとったのは、永いきびしい冬が終りをつげて、どことなく忍びやかに春が近づいてきたころだった。
「山へ帰ろう!」
「小雪、おれの家へ帰ろう、もう誰もはばかることはないんだ、いいだろう?」
この瞬間の、小雪の表情ははげしいものだった。
最愛のひとの言葉を信じかねたふうに、しばらくぼんやりとみつめていたが、やがて、順吉の真意をコクリとうなずくと、
「私、ほんとは、いままで・・・・・・妻とは思っていなかったけに」
と、云ったかと思うと、 はじめてさめざめと泣いた。
そして、そのまま息をひきとったのである。


園田順吉は、これまた呆然と、最後の小雪のことばを信じかねたふうであったが、小雪をゆすぶりつけて、
「やっぱり園田家を気にしていたのか、かわいそうに・・・・・・なあ小雪、お前は僕のりっぱな妻だぞ! 
いいか小雪 日本一の妻なんだぞ!」
「おい大谷、小雪の婚礼 と葬式を一緒にやろうと思う」と、力づよく告げたではないか。
順吉はついに小雪に見せないでしまった大粒の涙をこぼした。

 

「西河克己映画記念館」


僕は小雪の墓穴を掘りながら、シベリヤの極寒を思いだした。 
収容所で日ごとに、捕虜の戦友たちは栄養失調から死んだ。 
零下三十度、屍はカチカチに凍てついた金属性の音をたてた。
僕たちは同様に凍てついた密林の大地を、ちびた鶴嘴でどんなに苦労をかさて墓穴を掘ったことか。
下手をすると墓穴を掘る方も凍傷でやられるのだ。
僕は、.....ラーゲルの、
あの金属性の音をたてる屍の始末をいつまでも忘れないだろう。 

「小雪!小雪!おうい小雪よう!」と、僕は呼んだ。
それから、なかばもの狂わしそうに小雪の墓標にしがみついて、頬ずりをしながら脚がズルズルとくずれ折れてひざまずくと、土饅頭のぬれた地面へ顔をおしあてて・・・・慟哭した。
このとき、もろもろの僕にまつわりついて、悩み煩わした瑣末な雑念がケシとんで、虚飾のみじんもないただあるがままの園田順吉が、赤裸々にノタうっていた。 
すでにいま、つねづね醜態ときめて抑制していたこの慟哭のふるまいも、かくしだての ない本然の美点となって光耀とかがやき、
まことに単純な愛しいひとを哀悼するこの涙にいっさいが洗い浄められて、もはやメフィストのしのびこむいとまもない--
僕は人間らしい、人間にひたりきっていた。・・・・

 

・・・


「夫が妻の墓穴を掘った」
という事や話は、管理人も見たり聞いたりしたことが一度もない。
小説ゆえだろうか。

 

 

 

「絶唱」は何度も映画化された。
社会派映画としてでなく、純愛映画として。


有名なのは、
小林旭・浅丘ルリ子。
舟木一夫・和泉雅子。
三浦友和・山口百恵。


管理人は舟木一夫・和泉雅子の映画を観に行った。
映画のラストでは観客全員がお決りのように泣いていた。

その頃、
純愛とは”死”が必須条件だった。
「愛と死を見つめて」
「わが愛を星に祈りて」
「絶唱」
どれも、愛し合う片方が死んでいった。
当時高校生の管理人は、
商売ッヶがあるなあ、とは感じながらも楽しんでいた。

・・・

 

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「絶唱」山鳩  (鳥取県智頭)

2024年06月28日 | 旅と文学

「絶唱」の主人公・園田順吉は、
身分違いの少女・小雪を愛した物語というよりは、
身分制度そのものに反対し、自己の考えどおり下層身分の子を愛した。
言行一致の愛の物語。

単純な純愛ではない。
自己の生活や人生を懸けての愛。


二人の純愛は駆け落ちで成就するが、日中戦争の勃発によって引き裂かれた。
日中戦争から太平洋戦争がはじまった。
順吉はなぜか、除隊もなく例外的に、長期の現役兵がつづいた。
戦争が終わると、シベリアへ拘留された。
これほど万が悪い人もいない。(生きて帰れただけいいが)

だが、
小雪は長期間の”銃後”の生活に耐えきれなかった。
無理に無理を重ね、やせ細り、結核(不治の病)になって死んだ。

 

 

・・・

旅の場所・鳥取県八頭郡智頭町
旅の日・2007年4月14日 
書名・絶唱
著者・大江賢次
発行・河出書房新社 2004年発行

・・・

 

「山園田」といえば、山陰地方でも名だたる豪家で、中国山脈の北側に鬱蒼としげっている杉や檜の森林のめぼしいものは、
ほとんどといってもいいほど所有していた。
その持山の谷々からは、素戔鳴尊の大蛇退治の伝説このかた、良質な鋼のもとである砂鉄鉱と、べつに全国一の含有量をもつクローム鉱とを産出しているので、都会の実業家ほどにはめだたないけれども、資産はガッチリと文字通り大地に根を張っていた。
順吉は園田家のひとり息子で、京大へ在学中に神経衰弱になって帰郷すると、そのまま中途退学をしてしまった。


僕は、この地方でも富裕な地主の、長男として生れた。
お七夜の紅白の祝餅をくばるのに、七組の小作人夫婦が四俵も搗いたというから、これだけでみどりごの僕がどんな位置にあって、どんな寵愛の的になっていたかなずけるだろう。

 僕の幼年時代の不幸はその中で、何にも増して大きな打撃は母の死だった。
母は僕の六つの秋、結核をながくわずらってなくなった。

父には職業に貴がないことも、人間は平等でなければならないことも、世の中がはたらくものの手に移りつつあることも、
とうてい理解できなかった。
徹頭徹尾、現状維持をねがってエゴに満足していた。
だから、小作人や貧しい人たちがめぐまれるの を好まないのだ。
したがって、山番は終始山番のめぐまれない生活の連続であるべ きで、
それは山番のうまれあわせがわるいのだ・・・・・・と運命論的に断じていた。

 

智頭町「西河克己映画記念館」


なにもかもものうい僕の眼に、これはまた驚くばかりに発育をとげた小雪が映った。
かの女はみずみずしい果実を香っていた。
僕が市から市へさすらっているうちに、山鳩はすくすくと少女から生娘に成長し
すでに小雪は妹でなくなって、ひとりの召使として僕にかしずいてくれた。
かの女の 素朴であたたかいまごころは、僕の遍歴の次にめぐりあったどの女性にもないものだ った。
それは郷愁をみたす母のふところのような、おおどかな愛がゆたかにたなびいていた。
いささかの打算も駈引もない、あるがままの浄らかな献身が・・・・・ 文句なしに「実行」をしているのだ。 

僕は、よく小雪と山へ行った。
秋の山はゆたかな幸をはなむけてくれる。
栗、茸、あけび、山ぶどう、柿...一度など僕たちは革茸の群生をみつけた。
山の中でただ二人、思うぞんぶんに暮すのはたのしいものだった。
でも僕はふしぎと 小雪にみだらな気持をみじんもいだかなかった。
僕の意志ひとつでキスもできたであろうし、肉体さえ所有することもできるのにかかわらず、
思うだに虫酸が走るほど潔癖で謙虚だった。
その克己がつよければつよいだけ、小雪への愛はますます募るばかりだ。


昨日、僕ははじめて小雪へ心をこめてキスをした。
かの女は数年前の骨っぽい少女ではなくなって、ふくよかであたたかい、
神聖をやどす花びらのくちびるを素直にうけると、上体は本能が拒みのかたちをみせながら......下半身はわれしらずすり寄った。
ひっそりととじた瞼があどけなくて、上頬から額へかけてはじめての感動をともなう哀愁が、やるせなげにただよってふるえた。
静かな山ふところ、鶯がさえずるほかは、木の芽ののびる音すらきこえるほど、僕たちの抱擁は永かった。

 


「あげな山出しの小娘が、なんとこともあろうに主家の御曹司をうまくたらしこんでからに、
しかも大仰に駈落ちをするがほどの魅力が、まあ、あの小い身柄のどこにひそんでいただやら...? 
悪たれは小雪だ、あのむすめは魔性だぞ! なんでも、狐か蛇と何して生れた子にちがいないぞや」
かれらは無性に、頭から山番夫婦をにくんだ。


......それから三日して、園田順吉に召集令状がきた。
小雪といっしょになってからわずか八ヵ月目だった。
とうとう、くるべきものがやってきたのだ。
婦人たちは千人針と十二社参りでごった返すし、小学校は壮行会や見送りのために校庭と生徒が動員されて、
ろくろく授業ができない有様だった。

 

智頭町「西河克己映画記念館」

 


列車の窓で、
「わすれちゃならないことは -おたがいに心に翼をはやすことだ。 
小雪、遠く離れれば離れるだけ、かえってよけいに親しく会えるんだよ。
このことをおたがいにかたく信じようね」と、順吉は手をのばしてかの女の頭の上においた。
「ほんと、あなたもお体を大切に」
ふと、「あなたの坊主あたま、思いだす... 中学生みたい!」
順吉は、坊主あたまをなでて微笑んだ。私たちもわらった。
列車がうごきはじめると、小雪は順吉の手をにぎったまま歩きながら、ものも云わずにジイッとみつめて手を離した。
応召兵の顔がしだいに遠のいて、豆粒になり、芥子粒になり、ついに視野から消えうせる。

 

・・・

 

・・・

当時の日本は、産めよ殖やせよ を国策にしていた。(昭和16年・厚生省)
女性は21歳で結婚し、
平均5児を産む。

母は21歳で昭和17年結婚。終戦まで2児を授かった。
順吉・小雪夫婦には国策が及ばなかったのだろうか?


・・・

   (つづく)

 

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「青春の門 」筑豊扁  (福岡県田川市)

2024年06月27日 | 旅と文学

瀬戸内海地方の代表産業だった製塩は、昭和30年代初めに突然のように消えた。
山陽本線の広島県松永駅~岡山県岡山駅の線路沿い見わたす限りにひろがっていた藺草は、昭和50年頃に消滅した。

北海道から九州まで盛んだった石炭産業は貿易の自由化によって、昭和30年代に大半が閉山となった。
今ではボタ山を目で見ることができなくなった。

・・・

福岡県の筑豊炭田はもっとも有名な炭坑だった。
伊吹信介は炭鉱の町田川で生まれた。
祖父は、石炭を運ぶ遠賀川の川船船頭だった。
父は、「さがり蜘蛛」の入れ墨者だったが、落盤事故の鉱夫を救助するため自ら犠牲になった。
信介は、未亡人であり、継母であるタエの一人息子として成長していった。

 

・・・

旅の場所・福岡県田川市
旅の日・2017年2月14日 
書名・「青春の門 」筑豊扁  
著者・五木寛之
発行・講談社文庫 1972年発行

・・・

 

大きな戦争がつづいていた。
その当時は、それは大東亜戦争とよばれ、聖戦ともいわれていた。
日本は中国やアメリカなど自国の何十倍もの大きな国々と戦争を行なっていたのである。
それは後に太平洋戦争とよばれ、十五年戦争ともいわれることとなった。

 

 

筑豊の空気も、すでに信介の父親がくのぼり蜘蛛の重〉とか、<伊吹の頭領>とよばれていた時代とは、すっかりかわり果てている。
作業の現場には朝鮮から連れてこられた労働者や、徴用でやってきた独身坑夫たちが目立ってきた。
<産業戦士>などという言葉がつかわれた時代である。
これまで一度も坑内にはいったことのないような都会の一般の市民や青年たちも、送りこまれてきた。
彼らは〈報国隊〉とよばれ、はじめての苛酷な作業のなかで、事故をおこしたり、逃亡を企ててリンチにあったりした。

 


信介たちも小国民とよばれて、授業よりも作業のほうがおおい学校生活を送っていた。 
その日、信介は学校の仲間たち数人と集団下校の列を組みながら、中川ぞいの道を歩いていた。
二学期がはじまって、まもなくのころで、信介はおそらく九歳くらいだったにちがいない。
澄んだ空にアメリカ軍のB29が一機、まっ白い飛行機雲をひいて浮かんでいる。 
偵察のた 飛んできたのだろう。
その一週間まえには、B29の編隊が小倉方面を爆撃して、かなりの被害をあたえていたのだ。
「わが軍の戦闘機は、なんばしよっとじゃろかね」
と、仲間の一人が空を見あげて、くやしそうにつぶやいた。
「一機ぐらい落したって、仕方がなかろうもん」
と、信介はその子に言い、ふと昨夜、母親の所へ訪ねてきて夜おそくまで話しこんでいった徴用坑夫たちの会話をおもいだした。
<満州に関東軍という精鋭を誇る日本軍がいる。
いまわが軍は、すべての兵力と軍備をそこに集結して温存してるのさ。
いざ決戦という日まで、軍はじっと満を持して待つ気らしい〉
東京からやってきたという若い男が、信介たちには奇異にきこえる東京弁でまくしたてるのを信介は花ゴザの敷物の上でうつらうつらしながらきいていたのだ。
信介はそのことをおもいだして、みんなに言った。
「関東軍がいまにでてくる。そしたらアメちゃんにあげななめた真似はさするもんか」
「そりばってん、日本軍の高射砲じゃあすこまでとどかんけん、射たんとげなばい。兵隊さんがそげん言いよったもん」
「そげなことば言うもんな非国民ぞ」
信介は強い口調で言い、その少年の肩を突きとばした。


B29の影は南の空に、すでに見えなくなっている。
白いきれいな飛行機雲だけが青空をななめに断ち切って残っていた。
「腹が減った--」
下級生の一人がつぶやき、やけくそのような黄色い声でうたいだした。

きのう生まれた
ブタの子が
ハチにさされて
名誉の戦死
ブタの遺骨はいつかえる

 

 


そのとき、彼らの正面から一人の男の子が急ぎ足に歩いてきた。
痩せて、手脚がやけに長く、 鋭い目つきをした男の子だった。
その男の子の表情には、どこかけわしい感じがあった。
あちこちにつぎのあたった汚れたシャツと、すり切れたラミーの半ズボンをはいている。
手に大きな紙袋をさげて、こちらに歩いてくるのだ。
「チョウセンぱい」

信介の仲間の一人が道の端に寄りながら小声でささやいた。 
信介はたちどまり、やってくる男の子の通路をふさぐように腕組みした。
痩せた男の子は、紙袋を抱くようにして信介に近づいてきた。そしてすりぬけるように信介の横を通りすぎた。
信介はそれが朝鮮人の子だということをしっていた。
「おい、朝鮮!」
「どやされてもよかとか」
「ソッチガ悪イ。朝鮮人ノ悪口ヲイッタ」

その日、信介はタエにありのままにしゃべった。
タエは黙って信介の話を聞いていたが、しばらくして、
いきなり平手で信介のはれあがった頬を打った。
つづいて反対側から平手が飛んだ。
「情けなか!」
それ以上タエは何も言わなかった。
信介には、なぜ、自分が殴られたのか、
ぼんやりとわかる気がした。


・・・・

 

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父と暮らせば  (広島県広島市)

2024年06月25日 | 旅と文学

初本は1994年に新潮社から発行されてる。
作者・井上ひさしさんは、この重いテーマを
数年以上かけて調査したり、被爆者の話を聞いたりしているだろう。
1994年といえば、身内に限っても
呉から原爆のキノコ雲をみた16歳の海軍志願兵(予科練)のおじも、
原爆投下二日目に広島に入った海軍兵の義父も、まだまだ元気だった。
義父が話す地獄絵のような風景を見た人は2024年の今、もう世から去ってしまった。

 

「日本は東アジアへの侵略国で加害者であったが、
広島・長崎では非人道的兵器の被害者であった」
という、この本の論評者がいたが、それでは一つ足りない。

広島・長崎の市民は、街から転居するのを禁じられていた。
あの日、
「おとったん」は40才過ぎくらい。
「美津江」は20才くらい。
軍都広島が昭和20年8月に空襲を受けないはずがなかった。

 

 

(広島陸軍被服支廠)

・・・

旅の場所・広島県広島市 
旅の日・2018年5月3日
書名・「戦争と文学13」父と暮らせば
著者・井上ひさし
発行・集英社 2011年発行 

・・・

 

現在は昭和23(1948)年7月の最終火曜日の午後五時半。
ここは広島市、比治山の東側、福吉美津江の家。 
間取りは、下手から順に、台所、折り畳み式の卓袱台その他をおいた六帖の茶の間、そして本箱や文机のある八帖が並んでいる。

 


美津江 
うちよりもっとえっとしあわせになってええ人たちがぎょうさんおってでした。
そいじゃけえ、その人たちを押しのけて、うちがしあわせになるいうわけには行かんのです。
うちがしあわせになっては、そがあな人たちに申し訳が立たんですけえ。

竹造
そがあな人たちいうんは、どがあな人たちのことじゃ。

美津江 
たとえば、福村昭子さんのよう鼎立一女から女専までずうっといっしょ。
昭子さんが福村、うちが福吉、名字のあたまがおんなじ福じゃけえ、八年間通して席もいっしょ、
じゃけえ、うちらのことを二人まとめて「二福」いう人もおったぐらいでした。
昭子さんが会長で、うちが副会長でした。

竹造
成績もしじゅう競っとったけえのう。

美津江
(首を横に振る)駆けっこならとにかく、勉強では一度も昭子さんを抜いたことがのうて、うちはいっつも二番。 
これはたぶん、おとったんのせいじゃ。

竹造
・・・いきなりいびっちゃいけない。

美津江 
なによりもきれいかったです、一女小町、 女専小町いうてされてね。
うちより美しゅうて、うちより勉強ができて、うちより人望があって、ほいでうちを、
ピカから救うてくれんさった。


竹造
······ピカから、おまいを?

美津江 
手紙でうちを救うてくれんさったんよ。

竹造
 手紙で......?

美津江 
あのころ昭子さんは県立二女の先生。三年、四年の生徒さんを連れて岡山水島の飛行機工場へ行っとられたんです。
前の日、その昭子さんから手紙をもろうたけえ、うれしゅうてな らん、徹夜で返事を書きました。


竹造
わしはたしか縁先におった。
石灯籠のそばを歩いとったおまいを見て、「気をつけて行きいよ」

美津江
(頷いて)その声に振り返って手をふった。そんときじゃ、うちの屋根の向こうにB29 と、そいからなんかキラキラ光るもんが見えよったんは。
「おとったん、ビーがなんか落としよったが」


竹造
「空襲警報が出とらんのに異な気(いなげ)なことじゃ」、
そがあいうてわしは庭へ下りた。

美津江
「なに落としよったんじゃろう、 また謀略ビラかいね」
見とるうちに手もとが留守になって石灯籠の下に手紙を落としてしもうた。
「いけん......」、拾おう思うてちょごんだ。 そのとき、いきなり世間全体が青白うなった。

竹造
わしは正面から見てしもうた、お日さん二つ分の火の玉をの。

美津江
(かわいそうな)おとったん。


竹造 
真ん中はまぶしいほどの白でのう、
周りが黄色と赤を混ぜたような気味の悪い(きびがわりー)色の大けな輪じゃった......。

(少しの間)

竹造(促して)ほいで。


美津江 
その火の玉の熱線からうちを、石灯籠が、庇うてくれとったんです。

竹造
(感動して)あの石灯籠がのう。ふーん、値の高いだけのことはあったわい。


美津江 
昭子さんから手紙をもろうとらんかったら、石灯籠の根方にちょごむこともなかった思います。
そいじゃけえ、昭子さんがうちを救うてくれたいうとったんです......。

(いきなり美津江が顔を覆う)


美津江 
昭子さんは、あの朝、下り一番列車で、水島から、ひょっこり帰ってきとってでした。 
西観音町のおかあさんとこで一休みして、八時ちょっきりに学校へ出かけた。
ピカを浴びたんは、千田町の赤十字社支部のあたりじゃったそうです。

竹造
(唸る)うーん。

美津江 
昭子さんをおかあさんが探し当てたのが丸一日あとでした。
けんど、そのときにはもう赤十字社の裏玄関の土間に並べられとった...。

竹造
なんちゅう、まあ、運のない娘じゃのう。

美津江 
(頷きながらしゃくり上げ)モンペのうしろがすっぽり焼け抜けとったそうじゃ、
お尻が丸う現れとったそうじゃ、少しの便が干からびてついとったそうじゃ......。


(少しの間)

竹造
もうええが。人なみにしあわせを求めちゃいけんいうおまいの気持が、
ちいとは分かったような気がするけえ。

美津江
・・・・。

竹造
じゃがのう、このよな考え方もあるで。
昭子さんの分までしあわせにならにゃいけんいう考え方が・・・。

 

 

・・・

 

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