67回目の終戦記念日を迎えました。私が11歳の時でした。(テレビを見ていたら、私の大好きな、八千草薫さんが14歳の時だったとのこと、と言うことは、現在81歳、いつまでも本当に若々しく、色気があって美しい)真空管ラジオから、かすれた玉音放送がながれてきました。流言飛語で、大人たちは、慌てていたようですが、私は不思議と、動揺はありませんでした。
終戦を迎えたんのは、疎開先の高知県佐賀町という、四国の南端、海と山と少しばかりの水田の有る小さな町でした。平成の大合併で、黒潮町と町名が変わったようですが、一時、鰹の一本釣・明神丸で、少し名を馳せたことがありました。街の山手側に小学校があり、湊の集落から学校までは、田中の一本道で、この一本道を通学する小学生に、米軍機が突然現れ、面白半分に機銃するのを、時々眼にしました。日本の敗戦は、目に見えていたのです。制空権は日本にありませんでした。
そのような状態の中、小学生の私達に、竹槍を持たせ、「えいや!えいや!」と軍事教練をやらせていたのですから、気が狂っているのではないかと、小学4年の私でさえ不思議に思った記憶があります。毎年いろいろな想いが去来する、敗戦記念日です。
終戦を迎えたんのは、疎開先の高知県佐賀町という、四国の南端、海と山と少しばかりの水田の有る小さな町でした。平成の大合併で、黒潮町と町名が変わったようですが、一時、鰹の一本釣・明神丸で、少し名を馳せたことがありました。街の山手側に小学校があり、湊の集落から学校までは、田中の一本道で、この一本道を通学する小学生に、米軍機が突然現れ、面白半分に機銃するのを、時々眼にしました。日本の敗戦は、目に見えていたのです。制空権は日本にありませんでした。
そのような状態の中、小学生の私達に、竹槍を持たせ、「えいや!えいや!」と軍事教練をやらせていたのですから、気が狂っているのではないかと、小学4年の私でさえ不思議に思った記憶があります。毎年いろいろな想いが去来する、敗戦記念日です。