平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平重盛の次男資盛(?~1185)の母は、歌人の藤原親盛(下総守)の娘、
二条天皇に仕えていた女官の二条院内侍です。
資盛(すけもり)は建礼門院右京大夫との恋愛で知られ、
少年時代に起こした摂政藤原基房との乱闘に始まる殿下乗合事件を
『平家物語』は平家悪行のはじめとしています。

藤原師長(妙音院)に琵琶・筝(そう)・朗詠などを学び、
筝の名手です。和歌も『新勅撰和歌集』『風雅和歌集』『玉葉集』に
その名を残し、自邸で歌合(うたあわせ)を催すなど当時の歌壇を支えました。
後白河院より『千載集』編纂の院宣が藤原俊成に下った際、
その院宣を俊成に伝えたのは資盛です。

平資盛画像(赤間神宮蔵)
資盛には豪胆な面もあり、治承4年(1180)12月、美濃源氏追討にあたって、
叔父平知盛とともに大将軍として出陣し、新羅三郎(源)義光の子孫、
近江源氏の山本義経を鎮圧するなど軍事面で手腕を発揮していました。
しかし三草山合戦では、7千騎を率いて三草山に陣を取りましたが、
源義経に敗れ、壇ノ浦合戦でもよいところを見せぬまま
弟の有盛とともに入水しました。

建礼門院右京大夫(1157?~?)は、『平家物語』に登場する人たちと
同じように源平動乱の時代を生きた女流歌人です。

「愛する人平資盛を壇ノ浦に失って後、何となく忘れがたいことや
ふと心に感じたことを思い出すまま、その時代を生きた命の証として、
自分一人の記念に書き残した」と彼女の家集『建礼門院右京大夫集』の
序文に記され、資盛への追憶や平家一門の人々との交流、
宮仕えした時の後宮の様子などがこの家集の主要内容となっています。

建礼門院徳子に仕えたことから建礼門院右京大夫(うきょうのだいぶ)と
よばれた彼女の
父は、能書家として三蹟の一人に数えられた
藤原行成の子孫・世尊寺伊行(せそんじこれゆき)です。
伊行も書道に優れ、書道の伝書『夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)』を
著わし、
また、筝の達人でもありました。

母夕霧は大神(おおみわ)基政の娘で、比べる者なき
箏の名人と讃えられていました。
基政は天才の名をほしいままにした
石清水八幡宮の楽人でしたが、笛の家柄で代々雅楽寮に仕えていた
大神家の養子に迎えられ、宮中の楽人となり、
笛の伝書「竜鳴抄(りゅうめいしょう)」を書いています。
このような両親から、右京大夫は音楽・文芸の才能を受け継いだと思われます。

平家全盛時代の承安3年(1173)頃、右京大夫は16、7歳で
 
高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(清盛の娘)に女房として仕えました。
宮仕えはわずか5年ほどの短いものでしたが、その間に
平資盛や歌人であり肖像画の名手でもある藤原隆信という
二人の男性と出会い恋におちいりました。

隆信は藤原定家の異父兄で、傑作と評判の高い後白河法皇像、
平重盛像、源頼朝像の作者と伝えられています。

年下の資盛との恋は身分も年齢にもひけ目があり、
それはひたすら忍ぶ恋でした。
そういう右京大夫に
盛んに言い寄る隆信という男性が現れます。
資盛への愛を貫こうとする右京大夫でしたが、はるか年上で
女性の扱いにも慣れている隆信に言葉巧みに誘われ、
次第に心惹かれるようになっていき、二人の恋の間で
苦悩の日々を過ごすこととなります。しかし芸術の才人で
しかもプレーボーイの評判高い隆信にとって年若い才女への恋は、
一時の気まぐれでだったのか、いったん靡いてしまうと
男はつれなくやがて去っていきました。

資盛が殿上人であったころ(1166~1183)、
父重盛のお供で住吉社に参拝し帰ってきた時のことです。
州浜の台の上にさまざまな貝と忘れ草を置き、それに縹色
(はなだいろ=薄い藍色)の薄紙に書いた文を結び付けて贈ってきました。


海に突き出た洲がある浜辺の形にかたどった州浜の台
(有職造花師大木素十 王朝の美・雅の世界よりお借りしました。)

黒く扁平な石を敷き並べた州浜が池に突き出して先端に灯籠を据え、
岬の灯台に見立てて海の景としています。(桂離宮州浜より転載)

住吉は初夏に咲くわすれ草(萱草の異名)の名所で、
わすれ草を摘むと、恋や憂いを忘れるといわれていました。
ここは秋なので、花でなく葉を置いたのです。
わすれ草の画像は「フリー素材お花の写真集」よりお借りしました。

 ♪浦みても かひしなければ 住の江に おふてふ草を たづねてぞみる(76)
(つれないあなたを恨んだところでどうなるものでもなし せめて忘れようと
住ノ江の岸に生えていると聞いたわすれ草をたずねたことです。)
『古今集』にある紀貫之の ♪道知らば 摘みにも行かむ 
住の江の 岸に生(お)ふてふ 恋忘れ草 (墨滅歌・1111)
(道がわかりさえすれば、摘みにだって行くものを。
     住江の岸に生えているという恋忘れ草を。)をふまえています。

秋のことだったので紅葉の薄紙に書いた右京大夫の返歌です。
紅葉の色目は、表は紅、裏は濃紅または表は紅、裏は青など、
色のちがう二枚の薄様を、かさ
ねのように用いました。

♪住の江の 草をば人の心にて われぞかひなき 身をうらみぬる(77)
(住の江に生えているわすれ草のように忘れるというはあなたの
お心ではありませんか。
私の方こそ、いただいた貝ではございませんが、
思ってもかいないわが身を恨めしく思っております。)


今は埋立てによって海岸線は西に大きく遠のきましたが、
当時、住吉大社は海に面していました。
青い海、白い砂浜と波の音、朱色の反橋(そりばし)の畔に立つ
平家の貴公子資盛、絵のような情景が目に浮かびます。
平資盛の訃報 寂光院建礼門院右京大夫の墓  
『参考資料』
新潮日本古典集成「建礼門院右京大夫集」新潮社、昭和54年
村井順「建礼門院右京大夫集評解」有精堂、昭和63年
日本古典文学大系「平安鎌倉私家集(建礼門院右京大夫集)」岩波書店、1979年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年
冨倉徳治郎「平家物語全注釈(中)」角川書店、昭和42年
龍谷大学生涯学習講座「建礼門院右京大夫集
(右京大夫の出自と生涯、生きた時代)テキスト」平成12年5月13日
「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 
 宮内庁京都事務所監修「桂離宮」財団法人菊葉文化協会

 



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