平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




最寄りの南海電車沢ノ町駅

止止呂支比売命(とどろきひめみこと)神社は、
もと住吉大社の摂社として祀られていました。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその妃の
稲田姫尊(いなだひめのみこと)を主神とする式内社です。

住吉社神主の津守経国(つねくに)が承久 (じょうきゅう) の乱の
3ヶ月前
承久3年(1221)2月、後鳥羽上皇の熊野御幸の際に、
当社松林の中に若松御所をつくり行宮(あんぐう)としたことから、
若松宮とも若松神社ともよばれています。

境内図は止止呂支比売命神社HPよりお借りし、一部文字入れしました。

あべの筋に面して正面鳥居が建っています。



拝殿内部

拝殿その背後に本殿

南海電車高野線側に後鳥羽天皇行宮址の碑があります。

 

 
境内の北側には、霰松原荒(あられまつばら)神社が鎮座、
式内社の天水分豊浦命(あめのみくまりとようらのみこと)神社です。
明治40年に当社に遷座、境内社となっています。
霰松原の地は、住之江区安立(あんりゅう)町付近であったとされ、
今は埋立てが進み、辺りは住宅地となっていますが、
江戸時代までは松原が広がる海辺でした。

住之江駅東の霰松原公園(安立2丁目)内には、
天武天皇の皇子・長皇子(ながのみこ)の万葉歌碑が建っています。

♪霰打つ 安良禮(あられ)松原 住吉(すみのえ)の
  弟日娘(おとひをとめ)と 見れど飽かぬかも  長皇子 万葉集(卷1-65)

(松原に霰のバシバシと降るありさまを、愛しい住吉の弟日娘と

いくら眺めていても飽きることがない)

黒長社
古くからこのご神木とそこに現れる蛇を信仰する人々が多く、

黒長大神として祀られています。

 平家一門は都落ちする際、安徳天皇を連れ西国へ去ったため都に
天皇が不在という事態となり、朝廷は新天皇を即位させることが急務となり、
高倉天皇の第四皇子の後鳥羽天皇(1180~1239)が4歳で即位しました。

後鳥羽天皇像 水無瀬神宮蔵 『後鳥羽上皇』角川選書より転載

建久9年(1198)、19歳の若さで皇位を4歳の息子土御門天皇に譲り、
文武にわたって多芸多才な後鳥羽上皇は、武芸や和歌
そして政治面でも意欲を見せ始めました。
何かと制約の多い天皇に比べ、自由な立場となった
上皇は先例にとらわれない政治ができたのです

熊野御幸はその最たるもので、譲位したその年にさっそく熊野御幸を行い、
承久3年(1221)の承久の乱に敗れて隠岐に流されるまでの
24年間に28回というハイペースで熊野への旅を行っています。
年2回の年が三度もあり、熱狂的な熊野信仰者で知られる後白河上皇でさえ、
35年間に34回、1年に一度の割合で御幸したのに比べても
かなり多いことになります。
そして熊野は院政と強く結びつくことで
伊勢神宮と肩を並べるほどの聖地となりました。

後鳥羽上皇の熊野御幸は、建仁元年(1201)の熊野御幸に随行した
藤原定家が記した『後鳥羽院熊野御幸記』によって知ることができます。
上皇は公卿以下20名という大勢の供を連れて京都を出発しその夜、
一行は四天王寺に宿泊しました。翌日の明け方に阿倍野王子に参り、
次いで住吉社参拝の後、奉幣、御経供養があり、里神楽・相撲などの
芸能が奉納され、御所となった住吉殿に入り、歌会が行われました。
当時、住吉明神は和歌三神として尊ばれ、
歌道に志す人々が熱烈に崇拝していました。

歴史に当たる住吉の地図より一部お借りしました。

歌会が催された住吉殿(住之江殿)は、住吉社神主津守氏居館内の
正印殿(しょういんでん)とされ、その跡地は南北朝時代の
後村上(ごむらかみ)天皇の行宮(住吉行宮)となりました。
住吉大社の南方に「津守邸址」の碑とともに
「住吉行宮跡(国指定史跡)」(住吉区墨江2丁目)の石碑が建っています。 

あらゆる分野に秀で、弓馬などの武芸を好んだ後鳥羽上皇は、
鎌倉幕府の干渉を嫌い、自らの手で何事も行おうと、
これまでの北面の武士のほかに、新たに西面の武士を置き、
また諸国の武士を招くなどして、
幕府の配下にない軍事力の掌握に務めました。
さらに鳥羽上皇の死後、女院のもとに集積された広大な皇室領を、
すべて自分の手もとに集めさせ、膨大な私領を所有しました。

上皇は和歌を通して、鎌倉幕府三代将軍源実朝とは良好な関係を保ち、
子供に恵まれなかった実朝の後継者として自身の皇子を
将軍として 鎌倉に送ることを了承していました。
しかし実朝が暗殺されると、これを拒否し、
朝廷と鎌倉幕府の関係は悪化、 時の執権義時を中心に
勢力を拡大する北条氏一族と対立を深めていきます。
上皇は皇子を将軍に据えたら、幕府の独立を進め、 公武が
分裂することになってしまうと心配して幕府の要請を断ったという。

承久の乱の引き金となったのは、後鳥羽上皇寵愛の亀菊(伊賀局)が
上皇より与えられた摂津国豊島郡倉橋(大阪府豊中市庄内)、
長江(豊中市)の両荘園の権益が地頭北条義時によって
侵されたとして義時を罷免するよう上皇に頼んだことにあります。
後鳥羽上皇は二度に亘って義時の地頭職解任を要求しましたが、
幕府は守護・地頭は終身制であると、これをはねつけました。
これにより双方の交渉は決裂、それに将軍下向問題が絡み、
承久3年5月、上皇は城南宮の 流鏑馬(やぶさめ)の武者揃えと称して
兵を集め、 北条義時追討を命じる院宣を下しました。承久の乱です。

上皇に討幕の挙兵を勧めたのは熊野のトップ、
三山検校(けんぎょう)の長厳だったといわれ、後鳥羽上皇の
度重なる 熊野御幸の間に討幕の密談をしたと思われます。
熊野の実力者が積極的に乱に加わった結果、 乱後熊野は大打撃を受け、
長厳は討幕計画に協力したとして陸奥へ流されています。

『アクセス』
「後鳥羽天皇行宮跡碑」大阪市住吉区沢ノ町1–10–4
南海高野線「沢ノ町駅」下車徒歩約1分
『参考資料』
「後鳥羽院のすべて」新人物往来社、2009年  
本郷恵子「京・鎌倉ふたつの王権」小学館、2008年
 「新修 大阪市史(第2巻)」大阪市、昭和63年 
梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社、1990年  
「図解聖地伊勢・熊野の謎」宝島社、2014年
「大阪府の地名」平凡社、1986年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
五味文彦「新古今集はなにを語るか 後鳥羽上皇」角川選書、平成24年
 犬養孝「万葉の旅(中)」社会思想社、昭和48

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 



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源氏が三代で終わり、その後もますます (yukariko)
2019-03-31 18:52:27
源氏が幕府を開き京都とは別に新しい政権が誕生しても
宮中は伏魔殿であり続け、熊野詣などを隠れ蓑に政の実験をを取り返そうと謀を続ける上皇方と、勢力を保持した執権北条氏とは何事につけ争い、世の中は落ち着かなかった事でしょう。
上皇とその側近を配流して政権を盤石の体制にしてこそ内側では御家人たちの係争が耐えなかったにしても、昔の貴族政治とは違った鎌倉時代がこの先もづっと続いていったのでしょう。
 
 
 
承久の乱によって幕府の力は強まりました (sakura)
2019-04-02 16:15:51
突然に頼朝を失った鎌倉幕府は、熾烈な内部抗争の時代を迎えましたね。
幕政の指導権をめぐって有力御家人たちが将軍家を巻き込んで権力闘争を繰り広げました。
この闘争の勝利者が北条義時です。
しかし実朝が暗殺されると、幕府は苦境に陥り、
後鳥羽上皇に皇子を将軍として鎌倉に下向させることを要請します。
上皇は頼朝死後の闘争と混乱そして源氏将軍家断絶を
幕府弱体化とふみ、にべもなく断ります。

承久の乱の結果、鎌倉幕府が権力を握り、幕府主導の政治体制が固まりました。
京都には六波羅探題を置き、探題職には北条氏が任じられ、
朝廷の動静は六波羅探題に厳しく監視されることになりました。
 
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