平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




若狭街道(国道367号線)を北上すると、大原の入口にあたる
花尻(はなじり)橋の東北隅に花尻の森が広がっています。


花尻橋の手前右手に大原名産の柴漬を売る
土井志ば漬本舗の看板が見えます。

花尻の森は高野川に架かる花尻橋のたもとにあります。

「大原村社 江文神社御旅所」と刻まれています。
 
花尻の森には、猿多彦神を祀った小野源太夫社と称する小社があり、
江文(えふみ)神社の御旅所となっています。
昔からのいい伝えによると、ここは源頼朝が寂光院に隠棲した
建礼門院の動静を見張らせた松田源太夫の屋敷址という。
また一説にむかし大原村井出の大淵(おおぶち)という池に
悪蛇がいて、時々村に現れて人を害するので、村人が退治し、
その蛇の尾を埋めたところといい、頭は寂光院近くの
草生村(草生町)のおつうが森に埋めたといわれています。
(『昭和京都名所図会』)

 現地説明板より「大原の昔ばなし
 むかし昔、大原の里におつうという娘が住んでおりました。
ある日上洛の若狭の殿さまの目にふれ、おつうは玉の輿、
殿さまの国元に召されたのです。それはそれは夢ごこちの
毎日を過ごしていたのですが、やがておつうが病にかかると
殿さまの心も変って、おつうは戻されてしまったのです。
  おつうは悲しみのあまり大原川の女郎淵に身を投じました。
するとたちまち、その美しい姿は大蛇に変わりました。
そしてある日、都入りする殿さまの行列が大原の
花尻橋を通りかかったところを襲ったのです。
あばれ狂う大蛇は家来によって一刀のもとに切り捨てられましたが、
その夜から激しい雷雨や悲鳴に見舞われました。
恐れおののいた里人たちは、大蛇の頭をおつうが森に埋め、
尻尾を花尻の森に埋めて霊を鎮めました。
今でも、大原の里にかかる朝もやは大蛇の姿に棚引いていますし、
花尻の森ではおつうの鎮魂の行事が残っています。」

森には椿が多く植えられており、3月下旬〜4月上旬には
落椿(おちつばき)を愛でる人が訪れます。

 京都から大原へは、高野川を遡って八瀬・大原に出る若狭街道と
賀茂川沿いに北上し、鞍馬の手前、市原で右にまわって
静原・江文峠を通り大原へ入る鞍馬道とふたつのルートがあります。

新潮日本古典集成(巻12)371㌻頭注より
転載し、一部文字入れしました。

壇ノ浦合戦から1年2ヶ月後、建礼門院が寂光院に入って
7ヶ月目の文治2年(1186)4月、
後白河法皇はまだ夜が明けきらぬうちに出発し、
建礼門院の庵をひそかに訪問しています。
『平家物語大原御幸』によると、
御幸の経路は迂回路の鞍馬道となっています。
後白河法皇は頼朝を憚ったのでしょうか。
ちなみに下鴨静原大原線は、
かつては大原御幸の道とよばれていました。
『アクセス』
「花尻の森」京都市左京区大原戸寺町 
京都バス「四条河原町」からバス停「花尻橋」まで約50
 花尻橋のすぐ
『参考資料』
武村俊則「昭和京都名所図会(洛北)」駿々堂、1989
 「京都府の歴史散歩(中)」山川出版社、2003
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下2)」角川書店、昭和52
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15

 



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