コメント
 
 
 
若き日々は彼女の心にずっと残っていたのでしょう。 (yukariko)
2019-03-31 18:39:02
勅撰集に載せられた二十二首を「建礼門院右京太夫」の名で上げてほしいと言ったという、彼女にとって5~6年の建礼門院での宮仕えに使った名乗りとその頃の思い出こそが生涯で一番大事だったのでしょう。
再出仕後の20年とは比較にならないほどのインパクトだったからこそ、京からも遠い隠棲の山里まで昔の主や側仕えの人々に会いにゆき、榮華に溢れていたその昔の話をしたかったのでしょう。
 
 
 
そうでしょうね (sakura)
2019-04-02 16:00:46
右京大夫が宮仕えを辞めた理由は、資盛との恋愛が
世間の噂になったとも、母夕霧の看病のためとか推測されていますが不明です。

出仕した当時は「平家にあらずんば人にあらず」といわれるほど
平家が繁栄していた時代でしたから、朝廷に仕える臣下には、
平家公達が多くを占め、後宮は彼らと宮廷女房たちが
打てば響くような歌の贈答や知的な会話が交わされる社交場でした。

右京大夫は、平家の栄華、源平争乱、平家一門の滅亡、
承久の乱を見て、80歳くらいまで生きたのではとされています。

平家の人々と親しく交流する機会があったことや
資盛との恋を誇りに思いながら残りの日々を追憶と鎮魂に生きたのでしょう。

 
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