平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




石橋山合戦で敗れた頼朝は、真鶴から小舟で海上を安房に逃れて態勢をたて直し、
房総半島を北上しながら次第に軍勢の数を増やし、
上総(千葉県中部)・下総(千葉県北部と茨城県南部)の武士を束ねて武蔵へ入りました。

畠山重忠はじめ河越重頼・江戸重長らの秩父一族は、当初、源氏に反旗を翻したので、
頼朝が再起して武蔵国に入ったときは苦境に陥りましたが、頼朝の勢威を見て、
そろって長井の渡(現、東京都荒川・台東区付近)に出かけ頼朝に服従を誓いました。

小坪合戦、続く衣笠合戦で三浦一族と戦った秩父一族を、源氏勢は到底
受け容れることができませんが、平維盛が東国に出陣するという情勢下、
このような大武士団を敵にまわしては、
折角回復してきた勢力が頓挫してしまうと、
頼朝は畠山重忠らに遺恨のある三浦一族に言い聞かせ勢に加えました。

『源平盛衰記』によると、この時、重忠は「平氏は一旦の恩、佐殿(頼朝)は
重代相伝の君なり。」三浦氏との合戦は、私の望みではなく、
平氏の恩を返すためのもので、その恩は果たした。今は佐殿(すけどの)に
忠誠を誓うと述べ、先祖伝来の白旗を持って帰順しました。
この白旗は後三年合戦の時、
先祖の秩父(平)武綱が八幡太郎義家より賜って先陣を務めたもので、
大蔵合戦では、父重能(しげよし)がこれを掲げ、勝ち運を招いた
縁起のよい旗であると云って頼朝を喜ばせました。

重忠を先陣として、頼朝が大軍を率いて鎌倉入りしたのは、
治承4年(1180)10月、石橋山敗戦の僅か40日あまり後のことです。
重忠に先陣させることで、平家方であった武蔵の大武士団
秩父一族を組み入れたことを広くアピールする意味もありました。
名誉の先陣を務めた重忠は、その後、北条時政の娘を妻に迎え、
名実ともに鎌倉幕府の有力御家人となっていきます。

重忠は清廉実直、知性と武勇を兼ね備えた武将と評価されていますが、
そんな性格の彼にも思わぬ嫌疑をかけられることがありました。

重忠は戦功の恩賞として各地に多くの所領を与えられました。
その一つとして伊勢国(
三重県)の沼田御厨(みくりや)の地頭職があります。
この御厨で重忠が派遣した代官が詐欺・横領を起こしました。

事件は代官が起こしたもので重忠は直接関係していませんでしたが、
沼田御厨は伊勢の外宮(げぐう)領であり、この事件は、鎌倉と
外宮との対立に発展する恐れがあったので、頼朝は大いに怒り、
文治3年(1187)9月、重忠を囚人として千葉胤正(たねまさ)に預け、
所領四か所を没収しました。
誠実で実直な性格の重忠は、深く恐縮して
一週間も睡眠をとらず絶食をして謹慎したので、身柄を預かっていた胤正は、
見かねてその様子を頼朝に報告し、寛大な処置を願い出ました。

頼朝もその態度に感動してすぐに許しましたが、重忠は一旦出仕したものの
この事件が落ち着くと、罰を受けたことを恥としてすぐに本拠地の
菅谷(すがや)の館に帰り引き籠ったことから疑われ、
同年10月14日、梶原景時が「重忠謀反」と頼朝へ讒言しました。


それは、「畠山重忠は、さしたる重罪も犯してないのに処罰されたということは、
今まで自分がたてた手柄を無視されたのも同じである。」として、
菅谷の館にこもり謀反を企てているという噂があります。一族の者が皆、
武蔵国にいるということですから、この風聞は間違いないと思われます。
すぐに対策をとるように。というものでした。もともと猜疑心の強い頼朝は、
この言葉に惑わされ、小山朝政・下河辺行平・結城朝光(ともみつ)・
三浦義澄・和田義盛らの有力御家人らを集め、この件について相談しました。

結城朝光は「畠山重忠は、清廉潔白な性格で、道理をわきまえており、
謀反の気持ちがあるなど考えられません。重忠のところに使者を送って
お確かめになったらいかがでしょうか。」と重忠を弁護しました。
ほかの御家人らもこの意見に賛成したので、重忠の幼なじみの
下河辺(しもこうべ)行平がその使者となり、鎌倉のよからぬ風聞を聞かせると、
重忠は激怒し、腰の刀を抜いて自害しようとしました。

驚いた行平は重忠を宥め、鎌倉に戻って弁明することを承諾させ、
一緒に帰ってきました。そして梶原景時が重忠を尋問すると、
重忠は謀反の気持ちなどないことを申し述べたので、
「異心がないなら起請文(神仏に誓いを立てて書く文書)を
提出するように。」というと、重忠は「武力を使って他人の財産を
横領したといわれるより、謀反を企てていると噂を立てられる方が、
武士にとってよほど名誉なことである。ただ頼朝殿をご主人と
仰ぐようになってからは、二心を持つようなことは絶対にない。
起請文(きしょうもん)を取るというのは、悪しき者に対して
することである。」といい、起請文の提出を拒否しました。

景時は重忠の答弁を頼朝に報告したところ、
頼朝はすっかり疑念が晴れ、この件について何も語りませんでした。
これがきっかけとなり、重忠はいっそう頼朝の信頼を得たという。

坂東八平氏の流れを汲む梶原景時は、石橋山合戦の際、平家軍に属していながら、
洞穴に隠れ潜む頼朝をあえて見逃し、その危機を救いました。
その後、景時は政治的な才能もあったので、御家人を組織し統制する
侍所の所司という要職に就き、頼朝の気持ちをよく理解して、
邪魔な存在は素早く排除する役目を担い、「一之郎党」と見なされます。

かつて徳大寺家に仕えたことがあり、文化的素養が高く弁舌も巧みでしたが、
有能で冷徹な人柄は、他の御家人から嫌われる存在となっていました。
義経をそしり、義経と頼朝の不和の原因を作った人物とされています。

畠山重忠が厚く尊崇した東京都青梅市の御嶽(みたけ)神社には、
重忠が奉納したと伝えられる国宝の赤糸威鎧(おどしよろい)や
宝寿の銘がある黒漆太刀があり、境内には重忠の騎馬像が建っています。

畠山重忠館跡(菅谷館跡)  
『参考資料』
福島正義「武蔵武士」さきたま出版会、平成15年
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」吉川弘文館、2012年
梶原等「梶原景時 知られざる鎌倉本體の武士」新人物往来社、2000年
「新定源平盛衰記(3)」新人物往来社、1989年
 「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 
「東京都の地名」平凡社、2002年「郷土資料事典(御嶽神社)」ゼンリン、1997年





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