平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




埼玉県比企郡嵐山町には、畠山重忠や木曽義仲、
その父源義賢(よしかた)などの史跡が点在しています。

嵐山(らんざん)という地名は、槻(つき)川の美しい渓谷が
京都嵐山に似ているとして名づけられました。



武蔵嵐山駅から小さな商店街を歩いて行くと、国道254号線に突き当たります。
菅谷(すがや)館跡(国史跡)は、そのバイパスに面しています。
 
菅谷館跡は都幾(とき)川と槻川の合流する地点の北の台地上に位置しています。



バイパスに面した搦手門跡から入ると、すぐに「嵐山史跡の博物館」があります。

搦手門跡







博物館は三ノ郭の一角に建っています

菅谷館は本郭、南に南郭、二ノ郭、北に三ノ郭、西に西ノ郭があり、
空堀と土塁などの遺構が残っています。面積は11万平方メートルもあり、現在、
館跡の三方の堀は、池や水田などとなっていますが、館は堀と土塁をめぐらし、
南には都幾(とき)川が流れる天然の要害の地にありました。

これは戦国時代に使われた時のもので、菅谷館は扇谷(おうぎがやつ)
上杉氏の重臣太田資康(道灌の子)によって城塞化され、
重忠の時代の遺構はその一部に残るだけです。

畠山重忠が本領の畠山から東南約10㎞の菅谷に移った時期は
明らかではありませんが、
文治3年(1187)には、
菅谷館を本拠地としていたことが『吾妻鏡』にみえます。

「畠山重忠と菅谷館跡(説明板より)
畠山重忠は長寛二年(一一六四)、畠山庄司重能(しげよし)を父とし、
相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に
生まれました。治承四年(一一八〇)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、
父の重能が平家に仕えていたため、弱冠(じゃっかん)十七歳の重忠も
平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、
鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷合戦では、
かずかずの手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、
武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。
頼朝死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、
北条氏に謀殺されました。四十二歳でした。
鎌倉時代の史書『吾妻鏡』によると、元久二年(一二〇五)六月十九日、
「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか百三十四騎の部下を率い
「小(男)衾郡(おぶすまぐん)菅谷館」を出発し、同月二十二日、
二俣(ふたまた)川(現横浜市)で雲霞(うんか)のごとき北条勢に囲まれ、
部下とともに討たれたとあります。嵐山町菅谷にあるこの城郭が、
その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。
城郭の西には鎌倉へ通じる街道筋が残されており、この城郭のどこかに
重忠の館があったことも充分考えられます。現在この城郭は、
縄張りや土塁・空堀(からぼり)の構造から推定して、
戦国時代末頃に最終的に改築されたものと考えられています。 埼玉県」

二ノ郭の土塁の上に、木々に囲まれた畠山重忠の像が建っています。
平服で鎌倉を臨む姿を造形したものですが、勇壮な騎馬像が多い中、
直垂(ひたたれ)姿の石像は、非常に印象的でした。

歴史資料館の建設にともなって発掘調査が実施され、発見された建物跡、
溝跡、井戸跡のうち、
2か所の建物跡と1か所の井戸跡を保存し、
本館前の三ノ郭に丸太を建ててその位置が示されています。この建物跡は、
柱と柱の間隔の長さや出土した遺物から江戸時代のものと推察されています。

本郭へ



重忠の館があったとされる本郭



出桝形土塁
本郭は空堀と高い土塁によって守られています。
さらに土塁にはこのような出桝形(凸状に突き出た箇所)がつくられていて
敵軍の侵入が効果的に防げるようになっています。

二ノ郭

館跡の西側近くを鎌倉街道が南北に走り、
搦手門跡傍に「鎌倉街道跡」の道標が建っています。
ここから重忠は鎌倉を目ざし、郎党を率いて笛吹峠を駆け抜けました。

畠山氏は坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つ秩父一族の嫡流で、
重忠の父重能(しげよし)の時、畠山(現、深谷市畠山)に移住し、
地名を苗字として畠山氏を名のりました。

桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王は、平姓を賜って臣籍降下し、
上総介(千葉県中部)に任じられ、5人の息子を伴って下向しました。
高望王の五男村岡(平)良文は下総国相馬郡村岡を本拠とし、
その子孫が下総の千葉氏、上総の上総氏、相模の三浦氏、相模の土肥氏や
畠山氏を筆頭とする秩父氏、相模の大庭氏、相模の梶原氏、
相模の長尾氏などの武家平氏となり、
坂東八平氏と呼ばれ関東各地に勢力を拡大していきました。

八平氏は地域によって、中村氏、鎌倉氏、佐奈田氏などをいう場合もあり、
必ずしも一定していませんが、この良文を祖とする氏族をそう呼びます。

一方、良文の兄である国香(くにか)の孫、惟衡(これひら)の時代に
伊勢に進出したのが、平清盛に代表される伊勢平氏です。


東国というとすぐ源氏を思い出しますが、清和源氏の祖
清和天皇が即位したのは、桓武天皇の即位の77年後のことで、
東国の荒地を開拓して開発領主となり、早くに勢力を築いたのは、
こうした桓武平氏の子孫たちでした。

後に彼らが源氏再興の中核となって鎌倉幕府創設に尽力します。
  
深谷市畠山の重忠館跡 畠山重忠公史跡公園(畠山重能)  
畠山重忠邸跡(鎌倉)  
アクセス』
「菅谷館跡」埼玉県比企郡嵐山町菅谷字城757
東武東上線「武蔵嵐山」駅西口下車 徒歩約15分
「県立嵐山史跡の博物館」0493(62)5896
9時~午後4時30分 月曜日休館 
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
成迫政則「郷土の英雄 武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
貫達人「人物叢書 畠山重忠」吉川弘文館、昭和62年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年

 

 

 



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