平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




埼玉県狭山市の国道16号線沿いの「本富士見橋」近くに、
「清水冠者源義高終焉の地」の案内板がたっています。

西武新宿線狭山市駅



国道16号線

清水八幡宮の傍を流れる入間川






狭山ロータリークラブによる案内板



清水八幡は市指定文化財で、毎年5月の第3土曜日に大祭が行われます。

拝殿、本殿、下諏訪自治会館

祭神 木曽清水冠者義高
本殿には、永享2年(1430)の石祠が安置されています。

『清水八幡宮由来記』によると、
治承4年(1180)源義仲は以仁王の令旨を掲げて挙兵し、北陸道を
京へ攻め上る直前、対立状態にあった頼朝との戦争を避けるため、
嫡男の清水冠者義高を人質として鎌倉に差しだし、両者は和解しました。
義高は頼朝の娘大姫の許嫁となり、同じ御殿に仲睦まじく暮らしていました。

その後、義仲は北陸道で平家に大勝し、京都に入りましたが、
義仲の粗野で傍若無人の振る舞いが都人に嫌われ、後白河法皇は
政治的パートナーとして義仲を見限り、源頼朝に義仲追討の宣旨を出しました。
これを受けて義仲を討伐した頼朝は、その息子義高を放置することもできず、
「娘をくれてやるのも無駄なこと、折をみて小冠者を片付けろ」と命じました。
侍女がこの密談を聞き、大姫の御殿に駆けつけ政子や大姫らに告げました。
政子は義高を助けようと、義高に大姫の衣装を着せて女装させ、
夜に紛れて従者6名をつけてこっそり逃がしました。

元暦元年(1184)4月、鎌倉を脱出した義高は、武蔵嵐山を目ざし
鎌倉街道に沿って府中・所沢を過ぎ、入間川の八丁の渡しに出た時、
頼朝が追手として送った堀親家の郎党藤内光澄に討たれました。
それを哀れに思った村人が亡骸を埋めて塚を築き、ケヤキの木を植えたという。
その後、北条政子の庇護により、社殿が築かれ清水八幡宮と崇め、
自ら入間川の地に来て供養をし、神田を寄進しました。
社殿は朱の玉垣を巡らせた壮麗なものでしたが、
応永9年(1402)8月の入間川の大洪水で社殿と社地を失いました。
元の場所は不明ですが、
昭和34年(1959)10月、現在の地に社殿が再建されました。

頼朝はかつて父義朝が起こした平治の乱に敗走中、
雪道に迷い父とはぐれてしまい、辿りついた青墓で平宗清に捕われました。
死罪になるはずのところを清盛の継母池禅尼の命乞いによって
危うく命を助けられた頼朝は、伊豆に配流となり、挙兵するまでの
二十年もの間、北条氏などに監視される流人生活を送りました。
自らの事を振り返り、成長してからの義高の復讐を恐れ、
生かしておけなくなりました。
影隠地蔵(清水冠者義高)  
 鎌倉市常楽寺に義高の墓と伝わる塚があります。
清水冠者義高の墓(常楽寺) 
 大姫を野辺送りした地に建つ岩船地蔵堂  
『アクセス』
「清水八幡宮」埼玉県狭山市入間川3丁目35番付近
西武新宿線「狭山市駅」より徒歩約20分

 

 



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