四条河原町から寺町通りを南へ入るとすぐ左側に
平重盛ゆかりの多聞山浄教寺(非公開)があります。
平重盛(清盛の嫡子=1138~1179)は、東山の麓、
小松谷に屋敷を構えていたので小松殿とも小松内大臣ともいいます。
浄教寺(浄土宗)は、重盛が邸内に建てた燈籠堂にはじまります。
『平家物語・巻3・燈籠の事』によると、重盛は仏教に深く帰依して、
東山麓の小松谷の邸内に四十八間四方の御堂を建て、
一間に燈篭を一つずつかけ、四十八体の「阿弥陀仏」を安置し、
若く美しい女房たちに昼も夜も灯が絶えないように世話をさせたという。
毎月14、15両日には、288人の美女たちを集めて念仏を唱え、大法要を営んだので重盛は「燈籠大臣」とも称されました。 その模様を『源平盛衰記・巻11・灯籠大臣の事』は、女房たちが
念仏を称えながら、48体の阿弥陀仏に次々と参り、念仏が終わると
6人1組となった女房が鐘や太鼓を叩いて
「心の闇(やみ)の深きをば 燈籠の火こそ照らすなれ
弥陀の誓ひをたのむ身は 照らさぬところはなかりけり」と
今様を謡いながら堂内を回り、重盛は御堂の中央に座って
これを聞かれていた。と記しています。
『浄教寺縁起』によると、燈籠堂の傍には鎮守社として
重盛が勧請した熊野権現が祀ってありました。
平家都落ちの際、重盛の館は焼失しましたが、
灯篭堂は、下京区東洞院通松原付近にある灯籠町
(祇園祭の保昌山を出す町内)に再興され、
さらに室町時代に定意上人が再興し浄教寺と改め、
天正年間(1573~92)豊臣秀吉の都市改造によって現在地に移転しました。
以前は平家ゆかりの寺として、平家琵琶の会合などが行われたという。
祇園祭保昌山(平井保昌と和泉式部)
本堂には、本尊の阿弥陀如来と重盛の木像が祀られています。
本堂前に建つ有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひと)
親王の筆になる重盛の顕彰碑。
「内大臣平重盛公之碑」と彫られています。
建仁寺勅使門
現在、重盛の邸は残っていませんが、邸の門が建仁寺に伝わっています。
建仁寺勅使門の柱や扉には戦乱を潜りぬけた矢の痕があるので、
矢の根門とも呼ばれ小松殿ゆかりの門として知られています。
浄教寺は2020年9月に再建されました。
平重盛ゆかりの「三井ガーデンホテル京都河原町浄教寺」
小松谷正林寺の阿弥陀経石 平重盛(2)
積翠園 平重盛(3) 平重盛熊野詣(熊野本宮大社)
平重盛の墓(小松寺1) 平重盛の寵臣が開いた小松寺
平重盛・清盛の墓(磐田市の連城寺)
『アクセス』
「浄教寺」京都市下京区寺町通り四条下ル(非公開)
(阪急電車・四条河原町駅下車約6分)
『参考資料』
梅原猛「京都発見1」新潮社 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図絵」① ⑤ 駿々堂
完訳「源平盛衰記」(巻6~巻11)勉誠出版
倉富徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店
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仏法を敬い「温厚柔和で冷静沈着」だけでは清盛を凌ぐ人気が出るとは思えませんもの。
権力者に逆らって無法を働くようにけしかける重盛に人々は呆れながらも拍手喝さいした気がします。
“燈籠堂“が灯籠町(祇園祭りの保昌山を出す町内)に再興という来歴から保昌山の写真が一緒に出ているのですね。
和泉式部と平井保昌(源の頼光らと四天王)の紫宸殿の梅の話は他で読み、保昌山が「花盗人山」といわれ恋愛や盗難のお守りを売っている…ここで結びつくとは思いませんでした。
詳しい説明をありがとうございました。
ちょっとこじ付けかなと思いながら…
保昌山はぜひUPしたかったのです。
でも、今年の祇園祭は意地が悪い台風到来
その上朝も少し早かったせいもあって、
平井保昌さんはお家に避難されていました。
もう少しいい所を撮影したかったのに!
重盛は三回にわたってブログにします。
鎌足以来の権力者・藤原氏とのことが
うまく記事にできるといいのですが。