平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




熊野本宮大社は、熊野川・音無川・岩田川が合流する広大な中洲
「大斎原(おおゆのはら)」の森にありましたが、明治22年8月の
大洪水のため大部分が流失し、同24年にかろうじて水害を免れた
社殿が近くの高台に移築されました。

本宮前から河原に下り、あぜ道を進むと旧社地大斎原、そこには
平成12年、熊野の山々を借景に建てられた高さ33、9mの
大鳥居が建っています。

本宮の縁起は今から約2千年も昔の崇神天皇の時代に遡るといわれています。
古くは熊野坐(います)神社とよばれ、祀られているのは
熊野の大自然を支配する無名の神さまでした。
中国から朝鮮半島をへて伝来した仏教は、日本の神々の姿を借りて
次第に民衆の間に浸透していきました。平安時代中期になると、
その傾向はさらに強まり、神の本体は仏で、仏が人々を救うために神の姿となって
現れたのだとする本地垂迹説(
ほんじすいじゃくせつ)が唱えられます。
やがて熊野三山にも仏教が大きな影響を与えるようになり、
神と仏が具体的に結びつけられて信仰されるようになります。

平安時代に書かれた『熊野権現御垂迹縁起』が語るところによると、
熊野の神は、唐の天台山から九州の彦山・伊予の石槌峰・淡路島を経て、
熊野新宮の神倉峰(神倉山)に降臨し、その後、大斎原のイチイの樹の梢に
3枚の月形となって再び天降り、3枚のうち1つは「証誠大菩薩」、
あとの2つは「両所権現」として姿を現しました。

両所権現は、那智の夫須美大神、新宮の速玉大神で、
証誠大菩薩は、本宮の家津御子大神(けつみこのおおかみ)のことです。
大猪を追っていた猟師の千代定が、それを見つけ樹の下に
三つの宝殿を造って祀ったと伝えています。熊野三山の神々の誕生です。
この神話は熊野の神々の起源を唐とし、大菩薩や権現という称号を
用いている点など、仏教影響のもとで作られた神仏習合の話となっています。
ちなみに外来宗教の仏教と日本古来の神道とを融和させて、
人々が信仰したことを神仏習合といいます。

そして本宮の家津御子大神(けつみこのおおかみ)は阿弥陀如来、新宮の速玉大神は
薬師如来、那智の夫須美大神(ふすみのおおかみ)は千手観音であるとされました。
阿弥陀如来が本宮の証誠殿に安置され、熊野の地が阿弥陀浄土となると、
上皇や貴族たちは極楽浄土を求めて、競って熊野詣を行うようになります。
さらに仏が衆生を救うために、仮(権)に神として姿を現したということから
「権現」という神号が誕生し、本宮大社・速玉大社・那智大社の熊野三山は
「熊野三所権現」と総称されるようになります。

熊野本宮大社に残されている古地図には、当時の大斎原が詳しく描かれています。

熊野本宮大社旧社地大斎原
約1万1千坪の敷地には、楼門がそびえ、5棟12社の社殿とともに鐘楼・仏殿・
神楽殿・管弦所が建ち並び、さらに修験者の庵が2、3百も軒を連ね、
現在の本宮大社の何倍もの規模を誇っていました。

今は上流にダムができて音無川は涸れてしまいましたが、もとは水量が豊かで、

この川で身を浄めれば煩悩や罪業が消えると信じられ、熊野御幸の上皇や貴族たちは、
ずぶ濡れになって歩いて川を渡り神域に入りました。これを「ぬれ草履の入堂」といい、
水垢離のひとつです。参拝者は本宮を詣でた後、大斎原にあった船着き場から
小舟に乗って熊野川を下り、新宮の速玉大社に向かいました。


「大斎原前」次のバス停は「本宮大社前」

鳥居の左手にたつ「熊野本宮大社旧地」の石碑

鳥居をくぐると熊野本宮大社まで800mの道しるべがあります。

川辺に下りて中洲へ渡ります。

往時の姿を伝えるように壮大な切石積基壇が残っています。





流失した中四社・下四社の神々を祀った石祠(せきし)二基が
大斎原に建てられ、今も祭祀が継続して行われています。
大斎原(一遍上人)  
『アクセス』
「大斎原」和歌山県田辺市本宮町本宮1110 
JRきのくに線「新宮駅」から本宮方面行バス「大斎原前」下車すぐ(約1時間20分)
本宮大社からは、国道を横断し河原へ下り、大鳥居を目ざしてください。
『参考資料』
「和歌山県の地名」平凡社 五来重「熊野詣」講談社学術文庫 
  井上宏生「暮しを彩る日本の神さま」実業之日本社 加藤隆久「熊野大神」戒光祥出版



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
今初めてわかりました! (yukariko)
2014-11-19 21:34:49
本地垂迹説という言葉は習いましたが内容を分かりやすく教えて貰った事がありません。
だからどうして「熊野三所権現」と書かれているのかも平安時代から「ありの熊野詣」というほど遠い所を繰り返し貴族も庶民も続々と参るのかしら…とわからなかったのが今分かりました。

そして旧社地大斎原…ここにはもう何もないのかと思っていたのですが、石祠(せきし)二基が建てられ、今も祭祀が継続して行われているとの記事とお写真があって
凄い事だと感心しました。
 
 
 
わかりにくいですね。 (sakura)
2014-11-20 15:45:39
明治の神仏分離令で仏教と神道は分けられ、私たちは神と仏を
別のものとして考えているので、理解しにくいです。
本地垂迹をもっと簡単にいうと、「本地である仏が、
垂迹 つまり神の姿として現れる。」ということですね。

自然崇拝の聖地として崇められていた大斎原の固有の名前をもたない神さまに、
神仏習合の時代を迎えて名前が与えられ、神と仏の一体化が進み、
神社には人々を救済する「本地仏」とよばれる仏像が祀られ、
境内に堂塔や伽藍が建立され、そして神主と僧侶が社領の管理を一緒にしていたのですね。

熊野でいえば、今も隣り合せに建つ補陀洛山寺と熊野三所権現を祀る熊野三所大神社、
熊野那智大社と青岸渡寺などが、神仏習合時代の名残を留めています。

 
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