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今初めてわかりました! (yukariko)
2014-11-19 21:34:49
本地垂迹説という言葉は習いましたが内容を分かりやすく教えて貰った事がありません。
だからどうして「熊野三所権現」と書かれているのかも平安時代から「ありの熊野詣」というほど遠い所を繰り返し貴族も庶民も続々と参るのかしら…とわからなかったのが今分かりました。

そして旧社地大斎原…ここにはもう何もないのかと思っていたのですが、石祠(せきし)二基が建てられ、今も祭祀が継続して行われているとの記事とお写真があって
凄い事だと感心しました。
 
 
 
わかりにくいですね。 (sakura)
2014-11-20 15:45:39
明治の神仏分離令で仏教と神道は分けられ、私たちは神と仏を
別のものとして考えているので、理解しにくいです。
本地垂迹をもっと簡単にいうと、「本地である仏が、
垂迹 つまり神の姿として現れる。」ということですね。

自然崇拝の聖地として崇められていた大斎原の固有の名前をもたない神さまに、
神仏習合の時代を迎えて名前が与えられ、神と仏の一体化が進み、
神社には人々を救済する「本地仏」とよばれる仏像が祀られ、
境内に堂塔や伽藍が建立され、そして神主と僧侶が社領の管理を一緒にしていたのですね。

熊野でいえば、今も隣り合せに建つ補陀洛山寺と熊野三所権現を祀る熊野三所大神社、
熊野那智大社と青岸渡寺などが、神仏習合時代の名残を留めています。

 
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