平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




熊野本宮大社鳥居の前に翻る神旗の紋章は、
熊野三山の神の使いとされる八咫烏(やたがらす)です。

末法思想が広がる平安時代末期、本宮・新宮・那智大社の
熊野三社への参詣がブームとなり、特に院政期の白河上皇から
後鳥羽上皇までの百年間に百回近い熊野御幸が行われ、
鎌倉時代も中期になると庶民による熊野詣も増えてきました。


平清盛の嫡男重盛は、六波羅近くの小松谷に邸を構えたので
小松殿ともよばれ、
その一族は小松家といわれています。
母は早くに亡くなり、同母弟の基盛も
若くして死去しています。
母は高階基章(たかしなもとあき)の娘で、
基章は藤原忠実に仕えた
右近将監(しょうげん)という下級貴族です。


重盛の異母弟、宗盛・知盛・重衡らの母は清盛の後妻時子です。
時子の父は
公家平氏とよばれ、官僚貴族として仕えた平時信で、
重盛の母の実家と時子の
実家とでは、格段の差がありました。

時子の妹(建春門院)が後白河法皇の
寵愛を受け
高倉天皇を生み、さらに娘の徳子(建礼門院)が
高倉天皇のもとに入内して皇子(安徳天皇)を生むなど
平家一門における
時子やその子供たちの
権勢が高まると、重盛は微妙な立場に置かれたようです。


その上、重盛の妻は平家打倒を企てた藤原成親(なりちか)の妹、
嫡男維盛の妻は
成親の娘でした。
謀反が発覚すると小松家の立場はさらに悪くなり、

重盛は政治的発言権を弱めていったと思われます。

『平家物語』では、 重盛は横暴で傲慢な父清盛とは対照的に、
温和で文武に優れ、
その上、冷静沈着、
時には父を諫める理想的な人物として描かれています。
温厚な人柄もあって
後白河法皇や貴族からも信頼され、
対立する法皇と父との板挟みで苦悩する重盛の姿が描かれています。

平家打倒の鹿ケ谷の謀議が発覚し、清盛の娘徳子が皇子を生んだ
翌年の
治承3年(1179)5月、都に激しいつむじ風が吹き荒れ、
建物が倒れ、多くの人が命を失いました。
(実際につむじ風が起きたのは、1年後のことですが、
物語は1年早めて重盛死去の
予兆としています。)
大変な被害がでたので、早速神祇官に占わせたところ

「この100日のうちに、高い位の大臣に不吉なことが起こる。
そして一大事が起こり、戦乱が
続くことになる。」と出ました。

またこれに先立つ4月には、重盛は不吉な夢を見ました。
春日明神の大鳥居に大勢の人が集まり、悪行が過ぎた罪で春日明神が
清盛の首を太刀の先に貫いて高々と差し上げています。
その時、妻戸をたたく音がして家臣の瀬尾(妹尾)兼康が
飛んできました。兼康は重盛と同じ夢を見て不安になり、
夜明けを待てないで参上したのでした。
神祇官の結果やこの夢に平家一門の前途を案じた重盛は、
体調がすぐれない中、
嫡男維盛らとともに紀州熊野へ向かいました。

重盛が夜すがら祈りを捧げた証誠殿
熊野本宮の証誠殿(しょうじょうでん)の神前で一晩中、
祈り続けました。
「父清盛の悪行を止めてください。
父が
悪逆無道を行うので、何度も諌めるのですが、
父は心に留めてくれません。
それを見るにつけ父一代の栄華さえも危うく思われます。
その報いが子孫末代におよぶようなことがあるならば、
重盛の命を縮め、
来世の苦しみからお救い下さい。」
その時のことです。重盛の体から、
燈籠の火のようなものが
体からパッと光って消えました。

熊野からの帰り道、岩田川(白浜町富田川)を渡った時、
息子の維盛らが水遊びをすると、維盛が着ていた白い浄衣が濡れて
下の薄紫の衣が透け、さながら
喪服の薄墨色のように見えました。

家臣の筑後守貞能(さだよし)が
「不吉なのでお召替えを」と
言いますが、重盛は自分の死の願いかなったことを知り

これをおしとどめ、そこから熊野の神にお礼の使いを差し向けました。
息子たちがまもなく本当の喪服を着ることになったのは、
実に不思議なことでした。
現在の富田川はかつて岩田川とよび、
熊野本宮参詣の際、人々が水垢離をした川でした。


重盛が病の床についたのは、熊野から帰ってまもなくのことです。。
清盛はちょうど宋から来ていた名医の治療を勧めますが、
重盛は人間の寿命は
天命によるものであるからといい、
かりに中国の医術によって回復すれば
我国の医術を
はずかしめることになると断ります。

そして熊野権現が自分の願いを聞き入れてくれて
病にしてくれたものと
悟った重盛は、出家して法名を浄蓮とつけ、
一心に念仏を唱えながら臨終の時を迎えました。
治承3年(1179)、まだ42歳の若さでした。病名は胃癌とも胃潰瘍とも、
また一説には、頸部の悪瘡とも背中の悪瘡ともいわれています。
翌年の治承4年には、伊豆にいた源頼朝が挙兵し、
次いで木曽で兵を挙げた木曽義仲が
倶利伽羅合戦で平家軍に大勝し、大軍を率いて
上洛するのは、寿永2年(1183)のことです。
それを重盛は知らないで死んだことになります。

「重盛殿が清盛入道の横暴を諌めたしなめたので、
なんとか平和が保たれたが、
これからは
天下が乱れるであろう。」と人々は悲しみました。
しかし宗盛の周囲の者だけは、
宗盛の時代がくると
ひそかに喜んだというのです。
(「巻3・無文の沙汰の事・つじかぜの事・医師問答の事」)

 『巻1・鱸の事では、清盛が伊勢から海路で熊野参詣の途中、
突如大きな鱸(すずき)が
船の中に飛びこむという吉兆が現れ、
この後、清盛はとんとん拍子に出世し、
熊野権現が平家一門の繁栄を約束したことが語られました。
かつて清盛の
栄華を予告した熊野の神が、
今度は重盛の死への願望を叶えたのでした。



「熊野本宮大社前」でバスを下り、鳥居をくぐると杉木立の中に急な石段が続きます。

社はもと熊野川の中州にありましたが、明治22年の大洪水で多くの建物が流失し、
残った社殿がその北西方の高台に遷されました。

奉納のぼり旗に記されている「熊野大権現」の権は仮の姿という意味です。
権現(ごんげん)という神様はもとは仏で、
その仏が神の姿になって現れたという考え方です。
神と仏とは元々は別のものですが、
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の登場によって結びつけられました。

参道石段の途中、左手に祀られている祓戸大神



手水舎・社務所の奥に巨大な注連縄のかかる神門があり、
神門を入ると荘厳な檜皮葺の社殿が現れます。






向かって左手の社殿には、那智(夫須美大神・ふすみおおかみ)と
新宮(速玉大神)が合祀され、
中央は主神の
家津御子大神(けつみこのおおかみ)、重盛が願をかけた証誠殿です。
そして右手には、若宮(天照大神)が祀られています。
この四体の木像神像は、平安時代の作といわれ、
いずれも国重文に指定されています。


重盛が小松谷に建てた燈籠堂にはじまる浄教寺、
宋から重盛に送られてきた阿弥陀経石の摸刻を安置する小松谷正林寺、
熊野参詣の途上落慶法要を行った法楽寺。

浄教寺 平重盛(1)  
小松谷正林寺の阿弥陀経石 平重盛(2)  
平重盛の墓(小松寺1)  大阪市の法楽寺(1)源平両氏の菩提を弔った寺  
『アクセス』
「熊野本宮大社」和歌山県田辺市本宮町本宮
JRきのくに線「新宮駅」から本宮方面行バス「本宮大社前」下車すぐ(約1時間20分)
JRきのくに線「紀伊田辺駅」から龍神バス「本宮大社前」下車すぐ(約2時間)
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 「平家物語を知る事典」東京堂出版
 「和歌山県の地名」平凡社
 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社


 





コメント ( 2 ) | Trackback (  )