平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






朝夷(比)奈切通し
鎌倉と横浜の六浦とを結ぶ峠道は、あまりにも早く完成したので、
武勇の誉れの高かった朝比奈三郎が一夜にして切り開いたといわれ、
三郎に因んで朝比奈切通と名づけられています。
実はこの道を作ったのは三代執権北条泰時で、
自ら陣頭指揮にあたり、土石を運び開削したもので、
大力で聞こえた巴とその子朝比奈三郎とが結びつけられた伝説です。


泉水橋バス停(鎌倉市十二所)から東へ行き、左の小道へ入ると明王院、
さらに200mほど東に進むと大江広元屋敷跡があります。
その屋敷跡から十二所バス停へ、
そこから道標に従って朝比奈切通しへ通じる旧道に入り、

太刀洗川に沿って上ると、この切通し入口付近の左手に
岩間から清水が流れ落ちています。

梶原景時が上総広常を討った太刀を洗ったという太刀洗水です。
更に進むと見えてくる小さな滝は朝比奈三郎に因んだ三郎の滝。
ここで道が分かれ、右に行くと果樹園へ、
左に行くと朝比(夷)奈切通をへて横浜市金沢区朝比奈に出ます。

泉水橋バス停から明王院

左手に見えるのが三郎の滝


三郎の滝から朝夷奈切通

国指定史跡 朝夷奈切通
朝夷奈切通は、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、
横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。
鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。
「吾妻鏡」には仁治2年(1241)に、幕府執権であった北条泰時の指揮もと、
六浦道の工事が行われた記事があり、これが造られた時期と考えられています。

その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。
丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造を良く示しており、
周辺に残るやぐら(鎌倉時代の墓所)群、切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、
中世都市の周縁部の雰囲気を良好に伝えています。
平成21年3月 鎌倉市教育委員会






木曽義仲が討たれた粟津の戦いの後、
東国へ落ちた巴は、その後どのような人生を歩んだのでしょうか。
倶利伽羅合戦で、巴は義仲軍の大将の一人となり
数々の戦功を挙げたとされますが、
『平家物語』に巴が登場するのは
木曽義仲が討死する様を描いた『木曽の最期の事』の章段だけです。

平氏軍を破って都入りを果たした義仲ですが、僅か半年で
後白河法皇と対立し、法皇と手を結んだ鎌倉勢に追われます。
義仲は、信濃から巴、山吹という二人の美女を
都まで連れて来ていましたが、
落ちる時、山吹は病のため都に留まりました。


巴は色が白く、髪も長く、容貌はまことに美しく、しかも強弓を引き、
大太刀を振い、どんな荒馬も乗りこなす一騎当千の女武者でした。
戦となれば一方の大将に充てられ、度々の功名に肩を並べる者はなく、
義仲が手勢を減らしても討たれないで残っていました。
今井兼平と打出浜において再会した義仲は、残りの兵を集めさせ、
敵勢を駆け抜けるうちに、ついに5騎になりました。
その5騎の中にも巴はいました。
義仲は「お前は女であるからどこへでも落ちて行け。
義仲は討ち死にするか、さもなくば自害する覚悟である。
最後まで女を連れていたなどと言われるのは恥だからはやく去れ。」と
云われても落ちて行こうとはしませんでした。
しかし再三促され「では最後の戦をお目にかけましょう」と、
名高い大力、御田(恩田)八郎師重を見つけるや、
その馬にぴったりと自分の馬を並べ、やにわに御田を馬から引落とし、
たちまち首をねじ切って東国へ落ちて行ったのでした。
(『平家物語・木曽の最期の事』)

このように『平家物語』は巴を一人の女武者として描いているだけで、
義仲との関係やその素性、後日譚については、
何も語っていないためにいろいろな伝説が生まれました。
南北朝期に成立したといわれる『源平盛衰記』において、
巴の人物像は大幅に脚色され、
『平家物語』諸本にはみられない多くの話題を収めています。
そこで『巻35・巴関東下向の事』から、
巴の生い立ちやその末路をたずねてみましょう。

義仲都落ちの際に義仲を追って三条河原に駆けつけた畠山重忠は、
義仲方に萌黄糸縅(もえぎいとおどし)の鎧に、
葦毛の太く逞しい馬に乗り、射るのも強く、斬るのも早い
一人の武者が一陣に進んで戦う様を目にします。
驚いた重忠は、さてあの者は何者であろうか。と半沢六郎に尋ねると
「木曾殿の御乳父、中原兼遠の娘で樋口次郎や今井四郎の妹、巴です。
家では木曾殿の身辺の世話をして小姓のように仕えていますが、
実は木曾殿の愛妾。強弓の熟練者、荒馬乗りの上手。戦にでると
大将の一人となって活躍する恐ろしい女でございます。」と答えます。

「木曽の愛妾とは面白い。よし重忠が組んで捕虜にしてやろう。」と近づき、
巴の鎧の袖に取り付いて引っぱったため、袖の引き合いになりますが、
巴は重忠にかなわぬと思ったのか、馬に一鞭。
乗っていたのが春風という信濃第一の駿馬だったので、
一鞭当てるや鎧の袖は切れてしまい、巴は十間ばかり退いてしまいます。
重忠は「これは女ではない。鬼神の振る舞いだ。
このような者に矢を射かけられて
永代の恥を残すのもばからしい。」と兵を引きます。
なお、力じまんの畠山重忠には、宇治川合戦で、徒歩で川を渡った際、
馬を流されてつかまってきた烏帽子子の大串重親を
岸に投げあげたという逸話があります。

巴と別れの場面で義仲は
「信濃に残しておいた妻子に再び会わずに永遠の別れとなるのは悲しい。
義仲最期の有様を妻子に語り、後世を弔うよう伝えてくれ。」と言って
一人戦場から去らせます。
世の中が鎮まって後、巴は鎌倉に連れてこられ、処刑されるはずのところ、
和田義盛がこれを見て、容貌も美しいし、心は武士以上であるから、
あのような女によって、よい男子を儲けたいと思い、預かりたいと申し出ます。
頼朝は「油断できぬ女だ。義仲を滅ぼされたのを恨み、
隙を狙って何をするかわからない」と許しませんでしたが、
義盛はいろいろ申し立てて貰いうけます。
そして義盛の妻となって生んだのが、大豪傑の朝比奈三郎義秀です。

ちなみに、和田義盛は鎌倉幕府の侍所別当、
御家人統率機関の長という重要ポストを占める人物です。
のちに和田義盛は和田の乱を起こして北条氏に滅ぼされます。
この時、朝比奈三郎は比類ない働きをして見事討死。
その後、巴は越中国石黒(倶利伽羅峠の麓)に身を寄せ、
出家して木曽義仲、和田義盛、朝比奈三郎の菩提を弔い、
91歳で天寿を全うしたといいますが、実際は和田の乱の際し、
朝比奈三郎は、討たれることなく海上へ逃れ行方をくらましています。
以後、歴史上には現れません。
また朝比奈三郎を巴の子としていますが、
和田の乱の時、朝比奈三郎は38歳でしたから、
義仲の粟津合戦の頃は9歳ということになり、年齢が合わず、
盛衰記が語るこの物語を一概に信じることはできません。

水原一氏は『平家物語の世界(女武者と語り部)』の中で、
巴について次のように推測されています。
美女という語は、美しい女の他に別の意味があり、
武家で食事や主人の世話をする雑仕と同様の仕事をする女性のことで、
字は美女(びじょ)・便女(びんじょ)非上(びんじょう)とも書き、
巴は義仲の陣中に仕えた召使である。
『平家物語』の異本の中には、義仲が巴を小姓のように使い、
戦にも連れて行ったという描き方をしたものが幾つかある。
それが時代が下るにつれて、美貌の女将軍さらに中原兼遠の娘、
清水冠者義高の母にまでエスカレートしていったと考えられる。

また全国各地に巴塚や墓等の史跡が散らばり、巴伝説が見られるのは、
巫女とか瞽女(ごぜ)などと呼ばれる女性の語り部の存在があり、
彼女たちが巴を名乗って、各地を巡り
義仲の最期の模様を語り歩いたからだとし、
さらに『平家物語』諸本には「巴」としか記していないのに、
巴が巴御前という名で呼ばれるようになったのは、
盲目の語り部、瞽女(ごぜ)を起源とし、
「ごぜ」が「ごぜん」に変化したものではないか、と述べておられます。

中原兼遠の娘、今井四郎の妹、清水冠者義高の母という
一般によく知られている巴像は『源平盛衰記』から形づくられたものですが、
『平家物語の女たち』は、「美女」の語を
水原氏が述べられたように召使の女と解釈するなら、として
巴は中原兼遠の娘とするよりは、兼遠の親戚縁者の娘で、
兼遠の養女として義仲や樋口次郎、今井四郎とともに
幼少から養われた可能性が高いであろう。としています。

 『平家物語』諸本には「ともゑ」「鞆絵」「伴絵」等と表記するものもあり、
父親についても中原兼遠の娘とか孫など、諸説あって定まらないところから、
巴は架空の人物ではないかとも考えられています。
巴が実在の人物であったのか、それとも虚構であったのかは謎ですが、
どちらにしても、巴はいろいろな伝説を呼ぶような不思議な魅力をもち、
優れた女武者として絶大な人気を博したのでしょう。

『アクセス』
「朝比奈ハイキングコース」JR鎌倉駅東口から十二所方面行バス
泉水橋バス停下車3分-明王院-三郎の滝-朝比奈切通し-朝比奈バス停(距離約3㎞)
又は十二所バス停下車-朝比奈バス停(距離約2㎞)
『参考資料』

水原一「平家物語の世界」(下)放送ライブラリー 細川涼一「平家物語の女たち」講談社現代新書
水原一考定「新定源平盛衰記」(4)新人物往来社 「木曽義仲のすべて」新人物往来社 
新潮古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
物語った女語り部にとっても夢の人だったかも。 (yukariko)
2013-08-09 16:49:30
きっと兼遠の養女として幼少から養われ、義仲の側小姓として仕え、都にも上り、最後近くまで近侍した女性がいたのでしょう。
のちに義仲寺の地蔵堂に住んだ人がその同じ人かどうかはわからないでしょう。

和田義盛や朝比奈三郎との関わり合いは創作か、全く別の人の話が混じったか、それこそ最初に物語った女語り部の夢だったかかもしれないですが、物語を聞いた人にはとても好評で、その部分の話がのちの時代に膨らんでいったのかも。

でも史実は別にしても、巴御前は居たと思いたいですね。
 
 
 
無用な詮索はしない方が面白いのでしょうが (sakura)
2013-08-10 14:36:25
中原兼遠は木曽きっての豪族ですから、
便女として義仲に仕えた女性が兼遠の娘ということはありえないでしょうね。

平安時代末の加賀国の文書に女ばかりの騎馬隊「女騎(めき)」の文言がみられ、
吾妻鏡には、将軍頼家が伊豆に幽閉する際、女騎十五騎が頼家の輿を先導したと記し、
女武者は決して珍しくなく、中世の武士階級でも、
領地を守るために何かあれば女性も武装したとか。
これらのことからも、義仲に従って戦場に行き、
兵の食事や
義仲の世話をする便女の中に武勇に優れたものがいたと推測できますね。
巴は時代によってその姿は変わり、人々に異なって受け取られています。
乱世が終わり女性が武力と切り離され、その地位が低かった
江戸時代には大力の巴は怪物扱いにされますが、
日本が軍国主義に傾倒していった昭和初期には、
夫に従い戦う巴は妻の理想の姿として、戦意高揚に利用されます。
そして義仲軍の大将の一人として多くの部下を率いた巴は、
社会進出しリーダーシップをとる現代女性の理想像としても
人気があるのかも知れませんね。

少し後の時代、越後の豪族城氏が反乱を起こします。
この乱の中心人物城資盛の叔母反額が戦場で大活躍してさんざんに鎌倉軍を悩ませます。
反乱は鎮圧され、反額が生捕りになって鎌倉につれてこられた時、
御家人の一人、浅利与一が、「この女を娶って剛勇の子を儲け、幕府のお役にたちたい。」
と申し出た話がありますが、どうやらこの話が巴の後日譚になってしまったようです。

義仲寺と同じような寺伝をもつ如城寺が京都府船井郡八木町にあります。
この寺の本尊は義仲の念持仏の阿弥陀如来立像で、
義仲の妻巴御前がこの地で没したので、その法名・如城尼から
如城寺と称されるようになったといい、寺近くの田の中に、
巴御前の墓と伝える五輪塔が立っているそうです。
なぜ八木町に巴御前の墓がという疑問に、
水原一先生の本を読めば、なるほどと納得できます。

 
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