平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



三草山合戦で平資盛らの軍勢に勝利した義経は、三木から鵯越に向かい、
一ノ谷合戦の前日、寿永3年(1184)2月6日藍那(あいな)に
軍を進めました。そこから一ノ谷の陣の背後に向かいます。
『平家物語』によると、案内者となったのは、
この山の猟師の息子、鷲尾三郎義久(経春とも)だったという。

その経路は必ずしも明らかではありませんが、藍那を南下し
六甲山系を高尾山の西で越え、鵯越から多井畑(たいのはた)を経て
薩摩守忠度が守る西木戸の背後に出たと思われます。
鵯越とは、三木方面から藍那、高尾山(403m)の中腹を通り、
福原や大輪田泊へ出る山中の古道の呼び名です。

一ノ谷合戦で問題となるのは、鵯越という地名と一ノ谷との関係です。
『平家物語』には琵琶法師の語った詞章(音楽的要素のある作品の文章)を
そのまま記した「語り本」と現在の小説のような読み物として
普及してきた「読み本」があります。
語り本系の『平家物語』では、一ノ谷の背後鵯越から
義経軍が急峻な崖を駆け下り、逆落とししたとし、
一ノ谷と鵯越が間近にあるように描いています。

また『吾妻鏡』元暦元年(1184)2月7日条には、
「源九郎義経は、特に勇敢な武士70余騎を引連れ
一ノ谷の 後の山(鵯越と号す)に到着し、猪・鹿以外は
通ることのできないほど 険しいこの山から攻撃した。」とあり、
鵯越は平家城郭の後方の山として用いられています。
これについて富倉徳次郎氏は「吾妻鏡の編者の地名に対する大雑把な
書きぶりによるものと考えるべきものである。」と述べておられます。
(『平家物語全注釈(下巻1)』)
鵯越と一ノ谷とは直線距離にして約8kmも離れています。
こんなに遠いのでは、崖からの奇襲攻撃などできるはずありません。

一方、読み本系の『延慶本』では、「九郎義経は一ノ谷の上 
鉢伏・蟻(あり)の戸という所へ上って見給へば、軍(いくさ)は盛りと見たり。
下を見下ろせば、十丈ばかりの谷もあり、或いは二十丈の崖もあり」とあり、
義経が鉢伏山・蟻の戸という所から逆落としをしたと明記した上で、
鵯越という地名は平家陣地の北方の山々をいう名として用いられています。

鉢伏山は一ノ谷の背後、鉄拐山(てっかいさん)の西南に位置する山、
蟻の戸は、鉄拐山から鉢伏山へ続く途中の尾根と推測されています。

義経の進軍ルートを『大日本地名辞書』は、「鵯越の本路は
山田村藍那より東南夢野、若しくは長田に出づべきも、
藍那より南に出でて、多井畑に至り以て一谷に臨む別路あり、
九郎は此別路を取りしに似たり」と推定し、
鵯越より西に赴き、多井畑から一ノ谷に進軍したとしています。
このことからも、義経が逆落としを敢行したのは、鵯越ではなく、
『延慶本』が記すように、 須磨の裏手、鉢伏山・鉄拐山からと考えられます。

そこでこのルートに残る義経進軍にまつわる伝承地を
2回に分けてご案内させていただきます。




神戸電鉄藍那駅から急坂を上ると、藍那集落を抜け鵯越に出ます。



藍那の辻の宝篋印塔
藍那を通る鵯越の傍らに南北朝時代の宝篋印塔が残されています。
現在の鵯越周辺は、大規模な宅地開発が行われたり、墓苑がつくられたりと
町の様子は大きく変化していますが、この辺には昔の面影が残っています。





相談ヶ辻は道が左右に分岐しており、義経が進路を左にとり
鵯越に出るか右にとり白川に出るかと軍議を開いた場所と伝えられています。
右へ行けば白川から一ノ谷へ、左へ行けば鵯越から福原へ向かうこととなります。

神戸市立鵯越墓苑HP 墓苑図より一部転載

星和台住宅を通りすぎ、鵯越墓園の北門辺から墓苑内へ入り南へ進みます。



高尾地蔵院



高尾山(標高403m)への登り口にある高尾地蔵院(標高372m)境内には、
「義経馬つなぎの松跡」があります。



害虫被害にあい、今は切り株を残すだけとなっていますが、
義経が鵯越進軍の途中ここで休憩し、境内の松に馬をつないだといわれています。


1184年2月6日(現3月26日)晩、福原に集まった平家の10万の
軍勢を攻めるため、義経の軍勢がここに集まり、合戦の相談をした。
 高尾山山頂より眼下を見下ろすと、和田岬の周辺には総大将宗盛と
安徳天皇を守る平家の軍勢が篝火を焚き、火の海をつくっていた。
 義経は平家がつくる火の海を海女が藻塩を焼いている火と見なし、
「海女に逢うのに武具はいらいない」と笑いとばした。
山頂から戻った義経が、武者たちが囲む焚き火の中に加わると、
枝ノ源三が、翁と16才と13才の兄弟を連れて来た。
 義経はこの兄弟を道案内人として戦うことに決め、70騎の逆落しの部隊と、
逆落しを助ける岡崎四郎の軍勢とに分けた。 翌朝、わずか70騎で
10万の平家を敗走させる、「鵯越の逆落し」と呼ばれる有名な戦いが行われた。
無数の軍勢に立ち向かう勇気と、危険な崖から逆落しをした義経の勇気は、
後々まで語り継がれている。 後に、ここは「義経公御陣の跡」と呼ばれ、
ここにあった古松を「判官松」または「義経馬つなぎ松」と呼び伝え、
昔の人が大切にしていた。文責:兵庫歴史研究会 設置:墓園管理センター』

神戸市立博物館蔵

高尾地蔵からさらに南下すると、墓苑内の新芝生地区の小さな駐車場の背後に
蛙岩(神戸市北区山田町下谷上)があります。



蛙岩は鵯越と白川方面へ向かう山道との分岐点にある大きな岩で、
複雑な形に風化した岩が、数匹の大蛙と多くの小蛙のように見えるという奇岩です。

この岩は夜になると起き上がり、巨大な蛙となって旅人を襲ったといわれ、
昔の鵯越が物騒だったことを物語っています。

義経はこの辺りで再び軍勢を二分し、多田行綱に主力を預けて鵯越を進ませ、
自身は僅か70騎の精兵を率いて西南に折れ、一ノ谷の平家城郭の背後に向かいます。
鵯越の坂道を一挙に南下した行綱は、能登守教経・越中前司盛俊の山手陣を攻略しました。

ここで進路を西にとればひよどり台・白川・多井畑を経て一ノ谷に通じています。



下るとひよどり台4丁目です。

鵯越の進軍路をめぐる諸説の中には、ここで熊谷直実父子と
平山季重(すえしげ)らが義経の部隊を秘かに抜け出し、
須磨一ノ谷方面へと向かったとするものもあります。
熊谷・平山一二の懸(熊谷直実、平山武者所季重の先陣争い)  
義経一ノ谷へ進軍(義経腰掛の松 ほんがんさん)  

『アクセス』
「相談が辻」神戸市北区山田町藍那 神戸電鉄粟生線「藍那」駅より約1㎞

「神戸市立鵯越墓園」神戸市北区山田町下谷上字中一里山12
神戸鉄道有馬線「鵯越駅」下車 南門まで徒歩約10分 
墓参バスが墓園内を運行しています。
「高尾地蔵院」神戸市北区山田町下谷上「藍那駅」より約3900m
神戸鉄道有馬線「鵯越駅」下車徒歩約50分

『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年 
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
「大日本地名辞書」(第2巻)冨山房、平成4年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


« 鷲尾三郎義久... 義経一ノ谷へ... »
 
コメント
 
 
 
素晴らしいです。 (yukariko)
2019-09-16 10:22:33
鵯越と一の谷の進軍という言葉でなんとなく近くだと思っていましたが、地図を見ると道もない山中ですごく距離がありますね。
ルートに残る義経進軍にまつわる伝承地を2回に分けてご案内させていただきます。…と書かれていますが、
この現代で資料が僅かに残るだけの場所を辿られたということ自体がすごいことですね。そうでなければ、言葉だけでああそうか!と思うところです。

いくら地元の詳しい者を案内に立てたといってもその落差を駆け下りたのは義経一行の猛々しさと御大将に従おうとする忠義心でしょうね。一途さが忍ばれます。
 
 
 
そうではないのです (sakura)
2019-09-18 09:47:59
鵯越は藍那に出て南下すれば鵯越墓苑の南門に出た辺に
「鵯越の碑」が立っているので分かりやすいです。

鵯越墓苑の蛙岩から山道を下ると、閑静な住宅地ひよどり台に出ます。
ここまでは見ていただきました。

そこからの道は住宅開発によって大きく変わってしまい
義経がどのような道を辿って白川へ進軍したのかは分かりませんが、
白川から妙法寺の西に出て多井畑に向かい、多井畑に足跡を残しています。
そこから鉄拐山まで2キロ足らずの道を駆け上って行ったと思われます。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。