平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



住吉大社は創建当時、海辺にあったと推定され、
明治期にも、すぐ近くの住吉公園の西まで海が迫っていました。
海上安全や港の神として信仰を集め、遣唐使も出航の際には、この社に
航海の安全を祈願して住吉津(大阪市住吉区)から出航しています。
住吉社(現、住吉大社)神主津守氏の中にも
遣唐使の一員となって唐に渡った者がいました。
また同氏は代々箏(そう)や笛、和琴などの音楽に優れ、
勅撰集に載せられる歌人も輩出しています。

『住吉松葉大記』は、43代神主津守国盛(長盛の父)の母を
源為義の娘としています。ということは国盛は義朝の甥にあたり、
頼朝や義経にとって従兄弟という関係になります。

『保元物語・為義最後の事』には、「為義の多くいた子女の中に、
住吉の神主に嫁がせた、あるいは養女となった娘がいた。」とあります。
「諸本で記載に差があるが、時代から見てこの神主は国盛と考えられる。
国盛の妻となって長盛を生んだのか、国盛の養女となり、
長盛と兄弟姉妹のように育ったのか、国盛養女から
長盛の妻となったのかはよく分からない。」
(新潮日本古典集成『平家物語下』240頁頭注)

生駒孝臣氏は、「長盛は国盛と源為義の娘との間に生まれた」と
述べておられます。(『大阪春秋第39巻4号』)

『義経記・
巻4』は、義経が九州へ渡ろうとして
大物浦から船出し遭難した時、渡辺津から住吉へ赴き、
その夜は神主の津守長盛のもとで過ごしたとし、
義経と津守氏との関係が深いものであったことを記しています。

津守長盛は、住吉社の神主でありながら、武士としての側面をもち、
従四位下に昇り、北面(院への昇殿を許された上北面)として
後白河上皇に仕えていました。


屋島合戦では、
義経船出の文治元年(1185)2月16日、住吉社から
鏑矢が西方に飛び去り、神の助けによって無事阿波に着いたといわれ、
海の神として崇敬されているこの社の神威が広められました。

住吉社の44代神主である津守長盛(当時46歳)が都へ上り、「去る16日の
丑の刻(午前1時から3時までの間)平家追討のお祈りを行っている時、
当社の第3神殿より、鏑矢(鏑をつけた矢で射ると大きな音を立てる)の
音がして、西方へ飛んでいったという霊験を後白河院に奏聞したので、
院はたいそう感じ入って、御剣(ぎょけん)以下さまざまな神宝を
長盛に持たせて、住吉大明神に奉納しました。『平家物語・巻11志度浦合戦』
この住吉神矢の話は、『吾妻鏡』文治元年(1185)2月19日条や
『玉葉』元暦(げんりゃく)2年(1185)2月20日条にも記されています。

南海電車住吉大社駅を降りると、すぐ東に住吉大社の境内が広がり、
鳥居から美しいアーチを描く朱塗りの反橋(そりばし)が見えます。

太鼓橋(たいこばし)とも称され、
慶長12年(1607)に淀君寄進の住吉大社を象徴する橋です。






住吉信仰の中心的存在となっている住吉大社。
住吉鳥居とよばれるこの鳥居の特徴は、
柱が円柱ではなく、四角柱になっていることです。

 その奥にある国宝の4棟の本宮は檜皮葺(ひわだぶき)、妻入切妻造りで
住吉造りとよばれ、西面して建ち古代建築の風を今に伝えています。

住吉大社御由緒
  御祭神 
 第一本宮 底筒男命   第二本宮 中筒男命  
第三本宮 表筒男命
 第四本宮 息長足姫命 神功皇后
 御由緒
 底筒男命 中筒男命 表筒男命の3神を総称して
住吉大神と申し上げます
 住吉大神の「吾が和魂をば宜しく大津渟中倉長峽に居くべし
便ち因りて往來ふ船を看む」との御神託により
神功皇后がこの地に御鎮祭になりましたのが
皇后の摂政十一年辛卯の歳(西暦211年)と伝えられています
 御神徳
 住吉大神は伊弉諾尊の禊祓に際して海の中でお生れになった
神様でありますから禊祓、海上守護の御神徳を中心とし
古来産業 文化 外交 貿易の祖神と仰がれ
常に諸願成就の名社として広く普く崇敬されています
 御社殿
 第一本宮より第三本宮までは縦に 第四本宮は第三本宮の
横に配列奉祀され各本宮ともに本殿は住吉造として
神社建築史上最も古い様式の一つで妻入式の力強い直線形をなし
 四本殿とも国宝に指定されています


第三本宮:表筒男命(うはつつのおのみこと)

現存の本宮は、江戸時代の文化7年(1810)に造営されたものです。
住吉三神とよばれる底筒男命(そこつつおのみこと)、
中筒(なかつつ)男命、表筒(うわつつ)男命と
息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと・神功皇后)の
四柱を祭神とし、それぞれ第1本宮より第4本宮に祀っています。

住吉三神は、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が
禊祓(みそぎはらえ)時に生まれた神とされています。
(伊弉諾尊は黄泉の国から現世に戻って死の穢れの祓いを行った)

第四本宮:息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)
神功皇后の三韓遠征に住吉の神が先導したことが、
『古事記』『日本書紀』に見えます。

毎年6月14日に境内の田圃に早苗を植える際に行う
「御田植(おたうえ)神事」は、
神功皇后が五穀豊穣を祈願し、長門国から植女を召して
御供田を植えつけられたことに始まるといわれ、
国の重要無形民俗文化財に指定されています。

第四本宮  

第二本宮:中筒(なかつつ)男命


第二本宮の側面
拝殿背後にある本殿の住吉造り

本を開いて伏せたような形をした屋根の切妻(きりづま)造り、
屋根のない妻側を出入口とした妻入(つまいり)
形式です。
間口が2間、奥行きが4間の長方形で、
内部は内陣(ないじん)と外陣(げじん)に分かれています。


本殿は大嘗祭の時に造営する大嘗宮正殿の様式に類似しています。
大嘗祭は即位儀礼の一環として即位直後に行われる新嘗祭のことです。


住吉社は海の神・航海の神、さらに玉津島神社、柿本神社とともに
和歌三神(さんじん)の一つとして、
古来より天皇や上皇、貴族など、
和歌の上達を願う人々の崇敬を集めてきました。とくに平安時代には
京都の貴族がしばしば参詣して和歌を献じています。
貴族社会において、和歌は文化的素養としてだけではなく会話の一種でもあり、
その上手・下手が大きく取り上げられることが多かったのです。

 院政期以降盛んになった熊野詣の途次、歴代上皇や貴族たちは
住吉社に寄って
和歌を奉納するのが習わしとなっていました。
後鳥羽上皇の熊野御幸に随行したときの藤原定家の日記
『後鳥羽院熊野御幸記』によると、
建仁元年(1201)10月、
天王寺に宿泊した一行は、上皇に3首のお題を出され
定家も和歌を奉納しています。

 ♪あひおひのひさしの色も常盤にて 君が代まもる住吉の松
(相生の松の年を経ても変わらぬ様子は永遠を思わせます。
永遠に君の世を守ってください。住吉の松よ。)

住吉、住吉関係の歌枕で松が詠まれることが多いのですが、
これは松が住吉社を象徴する木だからです。

  建久6年(1195)4月27日、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため
上洛していた頼朝は、
梶原景時を使者として、
住吉社に神馬を奉納しています。
 この時景時は、
♪我君の手向(たむけ)の駒を引つれて 行末遠きしるしあらはせ
(私の主君から奉納するための馬を預かってきましたので、
その未来は永遠であると意志表示してください)
という
和歌一首を釣殿(つりどの)の柱に記し付けたのだという。
和歌の神として尊崇された住吉社には、当時、
歌人たちが釣殿に和歌を書きつける風習があったようです。
住吉大社(万葉歌碑 島津忠久誕生石) 
かつて住吉大社の境内であった住吉公園に参道が残っています。
住吉高燈籠 汐掛道 芭蕉句碑 住友燈籠  
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
南海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
 阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ
開門時間
・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間
・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)角川書店、昭和42年
 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 現代語訳「義経記」河出文庫、2004年
「大阪春秋第39巻4号」(住吉社と住吉社神主津守氏の軌跡)新風書房、平成24年
「新修大阪市史(第1巻)大阪市、昭和63年 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡(6)」吉川弘文館、2009年 「大阪府の地名」平凡社、2001年
「神社の見方」小学館、2004年 「神社とお寺の基本がわかる本」宝島社新書、2007年
神坂次郎「歴史の道 古熊野をたずねて」和歌山県観光連盟、2003年
加地宏江・中原俊章「水の里の兵たち 中世の大阪」大阪文庫、1984年

     

 

 

 



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