コメント
 
 
 
歴史上の人物の評価は時代により変わりますね (Hara)
2021-04-05 00:54:10
御疲れ様です、今年2021ももう4月ですね
正月豊後大野市へ行って緒方惟義公館跡へ行きました
地元では確かに英雄ですが伝承では平家の祟りで落馬して死亡とか源頼朝公と近い部分が
続いて天草のそばを通りましたが、多田行綱公の墓所があるとか
小ざかしい人物とありますが、最近一の谷の合戦で決定的な突破を果たしたのは地元で地理に詳しかった行綱公の部隊だった説があります
そう考えれば義経公に武士が集まらなかったのは京武者の一員である行綱公の手柄を結果的に奪う形になり支持を失ったと解釈されます
甲斐の武田有義公も五島列島へ逃げたとか行綱公も多田荘等領土や源氏の嫡流を巡る争いで最終的に弾圧を免れなかった部分が政権側に低評価されたのでは。

まあ現実は人に教えたり言う事を聞かせるのは本当に難しいですね、明日も早いのでおやすみなさい。
 
 
 
そうですね! (sakura)
2021-04-05 15:33:58
新史料の発見や、新たな史料解釈によって、歴史上の人物像が変わることがあります。
平清盛、明智光秀、楠木正成なども、その時代の思想によって
評価が大きく変わる事で知られています。

ところで豊後大野へ行かれたそうですね。
緒方惟義館跡の説明板に「伝承では平家の祟りで
落馬して死んだとも」と記されていましたね。

さて、京武者たちは平氏に怨念や脅威を持っていたので、
義経の配下に加わり平氏追討に赴きましたが、
彼らは義経に特に恩義もなく、頼朝に敵意もありませんでした。

頼朝が大軍を率いて上洛するという噂に京武者たちは恐れました。
義経の直属武力は少なく、彼らは保身のために義経を見限ったのでしょう。

一ノ谷合戦で義経に勝利をもたらした多田行綱は、
頼朝に先祖伝来の多田荘を奪われましたが、義経と組んでそれを奪い返そうとはしませんでした。
義経の限界を悟ったのではないのでしょうか。
 
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