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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 





最寄りの阪急電車石橋駅

石橋駅西口広場 いしばし餅つき大会(歳末たすけあい募金活動)
 2019年12月8日撮影





国道171号沿いの「池田警察署北豊島(とよしま)交番」の
隣に弁慶の泉(池田市史跡)があります。





文治元年(1185)、兄頼朝と不和となり追われる身となった源義経一行が
西国街道を大物浦(兵庫県尼崎市)へ落ちて行く途中、
武蔵坊弁慶がこの泉で喉の乾きをいやしたと伝えられています。

昔は大池でしたが、次第に埋没して「田畑の中の水たまり」といった
感じの小池になっていましたが、伝説にもとづいて昭和53年(1978)、
池田市が調査すると、水底の地下に1日千トンの湧き水を
保有していることが分かったので、事業費を集めて整備にとりかかりました。
水深を5mまで掘り下げ、周りを300mほど拡張し、
力自慢の弁慶にふさわしい巨石を運んで固め、高さ4mの石碑も建てて
「弁慶の泉」を再現し、池田市の史跡として生まれ変わりました。





事故防止のために泉は金網で囲まれています。
この泉の近くには、義経一行が通った西国街道が走っています。



「池田市(伝承)史跡 弁慶の泉(北今在家清水)
 この泉には、今から約八百年の昔、兄頼朝によって西国へ追放された
源義経主従がこの地を
通過した際に弁慶がこの水を飲んだという伝説があります。
箕面川の伏流水がここで湧き出ているものといわれ、
現在の大阪空港を含む下流区域約?十町歩の田畑の灌漑に利用されていました。
今も北今在家一帯の農業を営む人々には大切な湧水として利用されています。
この泉にまつわる伝説を後世に伝えるため、
毎年五月三日には「弁慶祭」が行われています。
この泉を? と池田の財産として、これからも大切に守っていきたいものです。 

昭和五十八年十二月吉日 弁慶の泉保存会 池田市豊島自治会 
池田市北今在家実行組合   
池田市北今在家婦人会」(説明板より)

「伝弁慶の泉由来記
この泉は、享保二十(一九三五)年の摂津志に
在今在家村 其味冷甘 谷伝弁慶  止渇干此としるされている。

文治元(一一八五)年 追われる身となった源義経が西国街道を逃れて
河尻(尼崎)まで行く途中 多田蔵人行網や豊島冠者の武士団に
前途をさえぎられたために 義経とともに武蔵坊弁慶もよく奮戦し
この泉でのどの渇きを潤したとつたえられている 
またこの泉は今在家村一帯の灌漑用水としても
重要な役割を果たしてきた由緒ある泉である。

池田市史跡名勝天然記念物 史跡第三号
昭和五十三年十月三十一日指定 池田市教育委員会」(碑文より)

『吾妻鏡』文治元年(1185)11月5日条には、次のように記されています。
「義経一行が河尻に着いたところ、追手の摂津国の源氏多田蔵人行綱や
豊島(てじま)冠者率いる手勢に行く手を阻まれたが、苦戦しながらも
それを駆け抜けたので、行綱らは戦を挑むことができなかった。
一方義経の軍勢もこの辺りから、これまで従ってきた武士らが
にわかに落伍しはじめ、残ったものは多くはないという。」

行綱は多田源氏の嫡流ですが、治承元年(1177)の鹿ケ谷事件で、
平家討滅の謀議に加担しておきながら途中で裏切り、
平清盛に同志を密告するような小ざかしい人物です。
その後も源義仲・源義経に近づき忠勤しますが、
源頼朝と対立しても何ら抵抗できない義経を目の当たりにして、
都落ちする義経一行を摂津国河尻に
追撃するという変り身の早さを見せています。

河尻(かわじり)は、現在の兵庫県尼崎市の南東部、
淀川と結ばれている神崎川河口一帯と推定されています。

国道2号線の左門(さもん)橋から眺めた河尻の風景
左手の塩野義製薬の辺りに、清盛に重用された
藤原邦綱の山荘・河尻の寺江がありました。
娘が六条・高倉・安徳天皇の乳母をつとめたことなどにより、
邦綱は清盛のもとで権勢を振るいました。



箕面川(みのおがわ)にかかる箕面川
大橋(豊島北2丁目10)

西市場村(現、豊島北1~2丁目・荘園2丁目)に、豊島冠者の館がありました。
『大阪府全志』に、西市場村の豊嶋(てじま)冠者宅址として
「東西40間(=72・7273m) 南北30間(=54・5455m)ほどで
西南北三面に濠梁をめぐらしていたが、後に荒廃してしまった。
その要因などは詳らかでない。
冠者の姓は源氏、当国の住人でこの地に居住していた。
源氏が凋落した時は、平家に従ったが、ひとたび
以仁王の令旨が出て頼朝が東国で挙兵すると、
関東に馳せ参じて諸所で転戦し、その功少なからず。後、
義経と頼朝が不仲になると、頼朝のために義経を苦しめた。」とあります。

豊島(てじま)冠者高頼の邸跡は、中国自動車道の池田インターチェンジ、
弁慶の泉からすぐ近くの
住宅地にありますが、今は何の名残もありません。

寺江亭跡(藤原邦綱別邸)  
『アクセス』
「弁慶の泉」大阪府池田市豊島南2丁目2-8
阪急宝塚線「石橋駅」下車、徒歩約20分。
または「石橋駅」より阪急バス「北今在家」停下車 徒歩約5分。
『参考資料』
 「大阪府志」思文閣、昭和45年 
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂出版、平成20年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 
井上正雄「大阪府全志」大阪府全志発行所、昭和60年
 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
歴史上の人物の評価は時代により変わりますね (Hara)
2021-04-05 00:54:10
御疲れ様です、今年2021ももう4月ですね
正月豊後大野市へ行って緒方惟義公館跡へ行きました
地元では確かに英雄ですが伝承では平家の祟りで落馬して死亡とか源頼朝公と近い部分が
続いて天草のそばを通りましたが、多田行綱公の墓所があるとか
小ざかしい人物とありますが、最近一の谷の合戦で決定的な突破を果たしたのは地元で地理に詳しかった行綱公の部隊だった説があります
そう考えれば義経公に武士が集まらなかったのは京武者の一員である行綱公の手柄を結果的に奪う形になり支持を失ったと解釈されます
甲斐の武田有義公も五島列島へ逃げたとか行綱公も多田荘等領土や源氏の嫡流を巡る争いで最終的に弾圧を免れなかった部分が政権側に低評価されたのでは。

まあ現実は人に教えたり言う事を聞かせるのは本当に難しいですね、明日も早いのでおやすみなさい。
 
 
 
そうですね! (sakura)
2021-04-05 15:33:58
新史料の発見や、新たな史料解釈によって、歴史上の人物像が変わることがあります。
平清盛、明智光秀、楠木正成なども、その時代の思想によって
評価が大きく変わる事で知られています。

ところで豊後大野へ行かれたそうですね。
緒方惟義館跡の説明板に「伝承では平家の祟りで
落馬して死んだとも」と記されていましたね。

さて、京武者たちは平氏に怨念や脅威を持っていたので、
義経の配下に加わり平氏追討に赴きましたが、
彼らは義経に特に恩義もなく、頼朝に敵意もありませんでした。

頼朝が大軍を率いて上洛するという噂に京武者たちは恐れました。
義経の直属武力は少なく、彼らは保身のために義経を見限ったのでしょう。

一ノ谷合戦で義経に勝利をもたらした多田行綱は、
頼朝に先祖伝来の多田荘を奪われましたが、義経と組んでそれを奪い返そうとはしませんでした。
義経の限界を悟ったのではないのでしょうか。
 
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