院政期以降、熊野全体が浄土の地
(仏や菩薩が住む災や悪行のない国土)であるとみなされるようになり、
京の皇族・貴族たちは、生きながらにして行ける浄土をめざして歩きました。
浄土信仰の広がりにともない、鎌倉時代以降は武士の参詣も増加し、
やがて熊野信仰は庶民にも浸透し、熊野街道は「蟻の熊野詣」といわれるほど、
多くの人々の往来で賑わいました。
渡辺の津(現、大阪市天満橋付近)から熊野までの街道沿いには、
その数の多さから「九十九(くじゅうく)王子」とよばれる
神社が置かれました。そのうち住吉には
津守王子社が大阪市立墨江小学校付近にあったとされています。
大阪市立墨江小学校
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熊野参詣は、平氏や源氏の武将も盛んに行いました。
特に有名なのは、平治元年(1159)12月の平清盛の熊野詣です。
保元の乱で勝利をおさめた信西(藤原通憲)・清盛と源義朝・藤原信頼は、
その後二つに分かれて対立し、義朝らは清盛が熊野詣のため、
都を留守にした機会をとらえ信西を殺害しました。平治の乱です。
清盛がこの時にとった熊野詣のルートは、淀川からの船を渡辺津で降り、
四天王寺・住吉間の阿倍野を通過し、海沿いの熊野街道を
紀伊国の田辺の北の切目王子まで進んでいました。
そこから海岸を下り田辺まで行き、山に入ると熊野本宮に至ります。
清盛一行が切目王子にいたところへ六波羅からの早馬が
追いついて事件を知らせました。一行は物詣とあって
ほとんど武装していない上、わずかな供を連れていただけです。
これを救ったのが紀伊国の武士湯浅宗重(むねしげ)と
熊野別当湛快(たんかい)です。
湯浅氏は熊野参詣路を管理して台頭した一族で、
この一族から後に文覚の弟子になる
上覚(じょうかく)や明恵(みょうえ)がでます。
宗重は都に引き返そうとした清盛に37騎もの武士を提供して
六波羅入りを助けました。この時、甲冑7領と弓矢を清盛に渡し
協力した湛快と源為義の娘である丹鶴姫(鳥居禅尼)との間に
生まれたのが湛増(たんぞう)です。
『平治物語』によると、熊野から引き返す清盛一行を阿倍野
(大阪市阿倍野区)で源義平が待ち受けているという噂があり
一行は恐れをなしますが、そこへまた早馬がやってきて噂はデマで、
実は伊勢の郎党たちが駆けつけて待っているのだと知らせました。
都での激しい合戦のすえ源氏軍は敗北し、平氏政権が誕生しました。
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阿倍野に残る阿倍野王子社跡
清盛の腹心の郎党たちが、帰京する清盛一行を
この辺りで待ち受け合流したという。
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住吉大社の東門から南海電鉄「住吉東駅」の方へ向かうと、
住吉村常盤会館(住吉区住吉2-6-12)の壁に
「住吉附近図」のプレートが架かっています。
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住吉大社を挟むように紀州街道、熊野街道、住吉街道が延びています。
大阪と和歌山を結ぶ紀州街道、 住吉街道は、住吉大社付近で紀州街道から東に分岐し、
住吉大社を横切り現在の長居交差点に至る道筋です。
この図にしたがって熊野古道を止止呂支比売命
(とどろきひめみこと)神社まで歩きました。
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東門の近くにあるのが葬儀社芋忠本店(住吉1ー11-1)
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熊野街道と住吉街道が交差する角地に建つ「住之江味噌」の池田屋、
住吉大社の高灯篭を模したミニチュアが屋根に掲げられています。
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大阪市内には熊野街道沿いのところどころに「熊野かいどう」の道標があります。
側面には「八軒家浜から十キロメートル」と刻まれています。
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津守寺(瑠璃寺とも)は住吉大社歴代の神主であった津守氏の氏寺で、
津守国基によって延喜元年(901) に創建されたと伝えられていますが、
昭和15年道路工事中に地元の考古学者が瓦を拾い集めて、
津守寺が創建される以前に白鳳時代の古いお寺があったことがわかりました。
神宮寺・荘厳浄土寺(しょうごんじょうどじ)とともに
住吉三大寺の一つに数えられていましたが、明治初年廃寺となりました。
その跡地の墨江(すみえ)小学校の塀に「津守廃寺跡」の説明板が架かっています。
熊野街道の津守王子が祀られていたのもこの付近とされています。
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津守寺『住吉名勝図会』『大阪市の歴史』より転載
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津守廃寺 1940(昭和15)年に、
このあたりの道路工事や区画整理工事に伴って、
白鳳時代(七世紀後半)の瓦や土器などの遺物が発見されました。
このことから、近辺に古代のお寺があったのではないかと考えられ、
住吉大社や住吉の津とかかわりが深い古代氏族の津守氏から、
津守廃寺と命名されました。
津守廃寺の後身と思われる津守寺というお寺が
1868(明治元)年まで現在の墨江小学校のところにありました。
津守寺は901(延喜元)年に創建されたと伝えられ、
薬師如来をまつっていました。
住吉大社とつながりがあったことがわかっています。
また、この津守寺に参拝した人に配られたお札を印刷した
版木が残っています。そこには本堂にまつられていた薬師如来が描かれ、
当時の様子を今に伝えています。大阪市教育委員会
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墨江小学校から南下していくと街道の両側に寺院が建ち並んでいます。
その中の宝樹寺の南側を左に折れ南海高野線を渡ると
右手に止止呂支比売命神社が見えてきます。
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住吉大社のすぐ東側の熊野街道沿いに祀られていた津守王子社が
現在の住吉大社末社「新宮社」であると伝えられています。
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住吉大社の本殿東に末社が並び、その端に新宮社の祠があります。
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祭神は伊邪那美命 (いざなみのみこと)、事解男命 (ことさかのおのみこと)、
速玉男命 (はやたまのおのみこと)です。
後鳥羽上皇の熊野御幸の際の行宮跡 止止呂支比売命神社(後鳥羽上皇行宮跡)
『アクセス』
「墨江小学校」大阪府大阪市住吉区墨江2丁目3-46
南海高野線「沢ノ町駅」255m
「阿倍野王子社跡」大阪市阿倍野区阿倍野元町9-4
大阪シティバス62・63・64・67号系統 王子町停留所からすぐ
阪堺電気軌道上町線 東天下茶屋停留場から徒歩約3分
大阪市高速電気軌道御堂筋線 昭和町駅から徒歩約12分
『参考資料』
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年 「大阪府の地名」平凡社、1988年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」日本出版協会、2004年
「図解聖地伊勢・熊野の謎」宝島社、2014年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年
日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
その体験談はそれぞれの故郷、一族に語り伝えられ、長い期間かかってより強い信仰心を生み出して言ったのでしょう。
後の熊野起請文などもその信仰から出来上がったものですね。
起請紙の裏に誓約の文言を書いて相手に渡すのが正式とされていました。
誓約を破った時には神から罰を与えてもらうというものです。
牛王宝印は、熊野だけでなく高野山や東寺、東大寺、
春日大社・石清水八幡宮などでも発行していました。
この牛王宝印の誓約書は、世の中の秩序が乱れた
戦国時代以降特によく使われるようになり、
それは熊野三山のものが圧倒的に多く用いられました。
兄頼朝と対立した義経は、頼朝に諸神諸社の牛王宝印の裏でもって
数通の起請文を出しましたが、何の返答もないことから、
自身の心情を綴った書状を出したのが「腰越状」です。
近年では、この腰越状を偽文書とみる説もありますが、『吾妻鑑』によれば、義経は頼朝の側近である公文所別当の
大江広元を通じて嘆願書を提出しています。
満福寺に残っている腰越状の下書きは弁慶が書いたと伝承されています。
熊野別当湛増の息子といわれる弁慶ですから、
この腰越状は熊野牛王の裏に書いたのでしょうね。