平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



『新古今和歌集』(巻10・羇旅歌)に収められた西行(1118〜1190)と
遊女妙の歌問答をテーマにした謡曲に『江口』があります。

観阿弥(世阿弥改作)が『撰集抄(せんじゅうしょう)』を典拠に
『江口』を書いてから妙の名は高まり、この謡曲をふまえた
長唄『時雨西行』が大ヒット、さらに歌舞伎『時雨西行』が
上演されると、妙と西行の出会いは、広く知られるようになり、
妙は「江口の君」と呼ばれるようになりました。

江戸時代の摂津国の旅行案内書『摂津名所図会』に描かれた江口の君
 『日本名所風俗図会』より転載。

右の大きい五輪塔が妙の供養塚、小さいほうが西行の塚。(江口の君堂本堂左前)


『新古今和歌集』の詞書(ことばがき)によると、西行が天王寺へ
参拝するために江口(現、大阪市東淀川区)を通りかかった時、
雨が降ってきたので雨宿りをしようと、とある宿の戸を叩き
一夜の宿を頼みましたが、女あるじは貸そうとしませんでした。

  世の中をいとふまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな 
                          西行法師
返し
  世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に 心とむなと思ふばかりぞ
                          遊女妙
( この世を厭うて出家するのはむつかしことかもしれぬが、
かりそめの宿を貸すことすら貴女は惜しむのですね、と
皮肉まじりに西行が詠んだところ、
この世の中を
「仮の宿」に例えた西行に対して、同じ詞(ことば)を使って
宿を惜しんだのではなく、出家をした方であるので、このような
現世の宿に心をお留めにならないようにとお断りしたのです。)
西行はこの返歌に大変感心したいう。この当意即妙の
受け答えは『山家集』にもあり、ほぼ実話だと思われます。

西行に仮託した鎌倉時代の説話集『撰集抄』には、
「江口遊女成尼(あまになる)事」、
「性空(しょうくう)上人発心並遊女拝事」と題する
二つの説話が載っています。

前者は西行が江口の里で遊女の有様や往来の舟を眺めて
物思いにふけっていると、時雨が激しく降ってきたため、
とある粗末な家に立ち寄って雨宿りをさせてもらおうと、
歌を贈ったところ、遊女の返歌が面白かったので
感激して宿を借り、とうとう一晩中、物語をして過ごしました。
遊女は40あまりの上品な美しい女で、「自分は幼い頃から
遊女になったがその身のはかなさを悲しみ、賤しいなりわいを疎む
気持ちが日ごとにつのり、尼になろうと思いながらも決心できず、
ついうかうかと過ごしております。」と煩悩にみちた
仮の宿に身をおく哀しみとせつなさを涙ながらに語るので、
西行も哀れに思い、墨染の衣の袖を絞るのでした。
朝がきたので名残を惜しみつつ再会を約束して別れました。
やがて約束の月がきましたが、都合がつかないので
手紙をだしたところ、出家して尼になったという
返事が届いたという仏教色の濃い説話となっています。

後者は書写山円教寺(兵庫県)の性空上人は、
日頃から生身(しょうじん)の普賢菩薩を拝みたいと念じていました。
一七日(いちしちにち)の精進の末、室津の遊女の長者は
普賢菩薩であるという夢告を得たので、すぐに室の津を訪ね、
遊女の長者を見て目を閉じると、普賢菩薩に見え、目を開くとまたもとの
遊女にもどっていたという霊験譚(れいげんたん)になっています。

謡曲『江口』は、性空上人の逸話を西行におきかえて組み立てています。
遊女と西行との和歌の贈答と、江口の里を訪れた旅僧が遊女に生身の
普賢菩薩を見たという異なったストーリーをひとつにまとめたものです。

ここで謡曲『江口』のあらすじをご紹介します。
諸国一見の僧の一行が都から天王寺へ参る途中、江口の里を通りかかり、
西行の歌を口ずさんで昔を偲んでいると、女が呼びかけながら現れ、
西行が宿を借りにきて「仮の宿を惜しむ君かな」と歌いましたが、
一夜の宿を貸さなかった遊女の返歌の真意は、それほど宿を
貸すのを惜しまなかったことを申し上げたかったために
ここまで参りました。と言い、
いぶかしがる僧に自分こそ
江口の君の霊だと告げ、黄昏の中に姿を消してしまいました。

その夜、僧たちが夜すがら読経していると、月澄み渡る川面に、
舟に乗った江口の君が2人の侍女を連れて現れ、
ふなうたを謡いながら舟遊びを展開し、六道輪廻の有様を述べ、
移ろいやすい遊女の身のはかなさを嘆きながら舞を舞っていました。
突然、遊女は普賢菩薩の姿となり、舟が白象に変じると
それに乗って光り輝く雲の中を西の空へと消えてゆきます。

西行の祖父、監物(けんもつ=中務省に属し出納をつかさどる職)
源清経は、青墓の宿(岐阜県大垣市)・江口・神崎などの
遊里に明るく、遊女に今様を教えた名手でした。
源師時(もろとき)の日記『長秋記』には、
清経の案内で、広田社(兵庫県西宮市)へ参詣した帰りに、
神崎・江口の遊女を招いて遊んだ話が書かれています。
西行の数寄(すき=風流・風雅に心をよせること)は、
その祖父から受けついだと言われています。
江口の遊女の中には相当な教養人がいましたから、江口の君と
西行の交流を事実と考えても無理なことではないと思われます。

江口の君と西行の逸話を今に伝える江口の君堂(寂光寺)
『参考資料』
新日本古典文学大系「謡曲百番」(江口)岩波書店、1998年 
三善貞司編「大阪史蹟辞典」清文堂出版、昭和61年 
森修「日本名所風俗図会」角川書店、昭和55年 
白洲正子「西行」新潮文庫、平成12年 
新潮日本古典集成「新古今和歌集(上)」新潮社、平成元年

 

 

 



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