コメント
 
 
 
疑問が解消しました!ありがとう! (yukariko)
2008-06-23 10:21:07
以仁王が令旨を発した後、三井寺を目指した時京都高倉~山科~園城寺は遠いからそのルートでは無理?と思っていたので納得しました。

その後宇治から南都奈良の興福寺を目指し山城の光明山鳥居で敗死したのですね。(高倉神社があったのにはびっくりしました。)

荒神口の写真と楼門の滝の関連が素晴らしいです。

本当にありがとう!

くるりんの画像、出来ましたら又送ってくださいね。
 
 
 
ご指導ありがとうございました! (sakura)
2008-06-23 15:01:39
早速使わせて頂いています。
クルリンの作品は、すぐ送らせていただきます。

鹿ケ谷から三井寺に至る山道は如意越えといって、
近江へ行く重要な交通路だったようです。

滝は如意寺(三井寺別院)の楼門の傍にあったので、
この名があるそうです。

高倉神社はとてものどかな田園風景の一角に、お祀りされています。
お茶屋さんに行かれたついでに又寄ってみてください。
 
 
 
園城寺・延暦寺・興福寺も一枚岩ではないところが難しい! (yukariko)
2008-06-27 17:48:12
権力に弱く弱者には強く、金と利権にさとい巨大雄寺は僧兵を擁して利のある方に付こうとして勢力争いをしたり、決起を引き伸ばしたり。異母弟の三井寺を
頼ったものの、日和見主義の一派や裏切りで、反攻も計画倒れで頼りにならないと以仁王と頼政は南都行きを決断。

平氏が勢力を減らすのは木曽殿との戦による所が大きいですが、その始まりは「新宮十郎行家」によってもたらされた以仁王の令旨と頼政一門の謀反、全国の反平氏の勢力にとっては影響が大きかったのでしょうね。
 
 
 
早速使って頂いてありがとう! (yukariko)
2008-06-27 17:55:18
マウスオン、クリック、Wクリック、マウスアウトの方はタグを載せませんでしたが、以前にタグ自体をご紹介してあった事に例会で少し触れたので、聞いてくださり、早速使って頂いて嬉しかったです。

このように関連のある画像の時に使うと面白いと思います。
モザイク画像の時は最後の画像だけウエイトをずっと大きくして頂くと分かり易いです。
 
 
 
画像に変化が出て面白いので早速使わせて頂きました! (sakura)
2008-06-28 11:04:15
延暦寺はワイロに弱かったようです。

謀反の計画があまりにも早く平家方に伝わったため、
充分な準備ができないまま頼政、以仁王は滅びますが、

行家が全国の源氏に呼びかける令旨は行き続け、頼朝、木曽殿も蜂起し源平の合戦が始まります。

モザイクは文化博物館の写真が汚いので誤魔化すために
早い速度にやり直したのですが、コメントに書いて頂いたように確かに分かりにくいので、ウエィトを大きくしました。
ご指導ありがとうございました!

 
 
 
宇治橋がTOPになりましたね! (yukariko)
2008-07-05 23:01:04
いよいよですね。
お茶の水を汲む「三の間」が写っていますね。
646年には既に橋が架けられていたそうですから平城京、平安京共に都の守りにとても重要な橋だったのでしょうね。

今の時代、天瀬ダムがあっても流れは急ですから、その昔は大変だったのでしょうね。
 
 
 
たった今開戦しました。 (sakura)
2008-07-06 15:26:05
源平合戦の幕開けです!

宇治橋のお茶の水を汲む「三の間」は、
むかし橋の鎮守(橋姫神)をお祀りしていた所でもあったのですね。
ここは交通の要所だったので橋の争奪合戦も行われたり、
洪水で流された橋は南都の協力で架け替えられたようです。
コメント頂いたように、とっても重要な橋だったのでしょうね。

橋合戦にタグを使わせて頂きました、お陰さまでレパートリが増えてます。
ありがとうございます。


 
 
 
小関越 (自閑)
2016-09-04 20:53:51
sakura様
有る人が、以仁王は逢坂では無く、小関越えて宇治に向かったとおっしゃるので、三井寺から小関越えで醍醐まで歩いて見ました。
確かに、途中三井寺観音堂から小関峠へ抜ける道が有り、ここを通れば門前の人々に気付かれず寺を出る事が出来る。馬も隊列は組めないが、通る事が出来ると思いました。
例によって、日没から醍醐寺へは寄らず、直に醍醐駅に行ってしまいました。
頼政道は、直ぐなのは知っていましたが、その辺が、頑張れない所です。
何度も三ノ宮まで行って福原行宮跡まで行っていないですし。(-_-;)
少し涼しくなったら両所にも行きます。
(;´д`)ゞ!
 
 
 
自閑さま (sakura)
2016-09-05 09:47:51
頼政道には次のような説もあります。
奥野健治氏は『万葉山代志考』の中で、『源平盛衰記』が記す
頼政道(逢坂から醍醐、宇治)は、実は間道ではなく、
古代の主要道であったとされています。

これに従うと、早くから近江と奈良を最短距離で結ぶ公道を
以仁王・頼政一行は堂々と南下したのかも知れません。

残暑が厳しいですから、あまりご無理なさいませんように。
 
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