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清盛の周りの家人達も思いやりのない無神経な男だったのでしょう。 (yukariko)
2012-07-26 14:03:08
かなり上の位に上り詰めている清盛の周りには一族郎党も多く詰め、御用を足して引立てを受けようと狙っていたでしょうから、そのような家司の一人が清盛の寵が祇王・妓女にある時は下にも置かない扱いをし、その寵が仏に移った後は、屋敷内でも手の平を返したような扱いをしたのではないでしょうか。
そのような些末な事まで清盛が気にかけて指図したとは思えないし、寵を失った白拍子に対して家司や召使達がことごとく下目に見た扱いをし、それを憤って屋敷から出たのでしょうね。
でも、その後も白拍子として歌舞音曲・今様を歌うのを仕事にしていたのなら、呼ばれて歌や舞を披露するのも営業として仕方がないし、客より下座は当たり前でしょう。
そうではなくまとまったものを貰って屋敷を出た後、静かに暮らしていたのに対し、「慰めに来い」と言われて連れ出されたのなら、その扱いに腹を据えかねるのは分かりますが。
ここにお書きのように栄華のはかなさに仏教に帰依し、往生した説話として使うのにちょうどよかったのでしょう。
それにしても水路を掘った話は昔呉などで水利事業をした経験のある部下もおり、愛妾に願われたなら国主か支配下の誰かに指図したと考えられて、なるほどと思いますね。(祇王、妓女とのつながりかどうか、本当の処はは不明でしょう。)
 
 
 
本当の処は不明です (sakura)
2012-07-27 16:23:05
五味文彦『平家物語、史と説話』に「説話から歴史の実像を探る試みは、説話の虚構性というネックがあってなかなか難しい。(中略)説話が事実かどうかというのではなく、説話を手引きに、その背景を捉えることにある。」と書かれています。

江辺庄三ヶ村に農業用水として開削された祇王井について
『滋賀県の地名』に次のような記事があります。
「永禄八年(1565)六角承禎という大名が、江辺庄三ヶ村の百姓達に、祇王井の管理を認める文書を与えた。寛文十年にも祇王井川の用水利用をめぐって争い、江辺庄三ヶ村が勝訴。」
灌漑用水を有名人に結びつける例は古くから各地にあり、
江辺庄三ヶ村の百姓達は、祇王井の開削を清盛(経が島を築き、音戸瀬戸を完成させた)に結び付けて、自らの正当性を主張したようにも思われます。
 
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